第16話:エース
「ただいま……って、ティオ?」
病室に戻ったものの、ティオの姿がなかった。寄るところがあると言っていたが、まだ用事が済んでいないのだろうか?
ひとまずベッドに乗り、全身を委ねる。背中に柔らかな感触を感じながら、退屈な白い天井を見上げる。
――贔屓、かぁ。
確かに見る人が見れば、あたしは特別だ。マザーは甘いものの、怒るときは当然怒っていた。しかし基本的には他のカウンセラーよりも気にかけてくれていたと思う。わざわざ部屋に起こしに来るくらいだ、本人にその気があるかはわからないが、実の娘くらいに思っているのかもしれない。
それならなおのことわからない。マザーはどうしてあたしに優しいんだろう?
診療兵団に連れて来たのもマザーだ。それ以前の記憶をあたしは持っていない。忘れている? 記憶の蓋を開こうにも、そもそも蓋がどこにあるのかもわかっていないのだ。忘れていることさえ忘れている。
「……もっと頑張らないと」
誰にも文句を言わせないくらいの実績が必要だ。そのためには一刻も早くカウンセラーにならなければならない。
「頑張る前に休むこと。何回言ったらわかる?」
病室の入口にクラリスが立っていた。両手でカレーライスの皿を持ち、足で扉を開けたようだった。
行儀が悪い、なんて指摘はできない。そもそもあの騒ぎがなければ彼女の手を煩わせることもなかったのだから、運んできてくれたことに感謝するべきだ。
「ありがとうございます、ご迷惑おかけします……」
「まったくあんたって子は。こんなだからマザーも放っておかないのかもね」
「クラリスさん、あたしのこころ読んでる……?」
「なにそれ。そんなわけないでしょ、超能力者じゃないんだから」
ハートリウムに唯一干渉できるカウンセラーが超能力者じゃないかは個々人の判断によるところだろう。
それより、いい香りだ。腹の虫が再び目を覚ます。もう限界だと見透かされたか、クラリスが苦笑した。
「はいはい、お待ちかねのカレー」
「すみません、なにからなにまで……」
「まあ運の尽きなんでしょ。次の仕事で発散するからいいよ」
憂さ晴らしを仕事でするのもどうかと思いつつ、下手なことは言わない。ここでカレーを取り上げられたらいよいよ立ち直れない。
クラリスはベッドサイドテーブルに皿を乗せて、あたしの傍に持ってきてくれる。先輩にここまでさせるなんて情けない限りだ。
しかしその感情は鼻孔を衝く香りが掻き消した。
「ん~、いいにおい……! やっぱりおばちゃんのカレーが一番好きだなぁ」
「カーラさん、人によってスパイスとか辛さ変えてるって噂だよ。あんたにとって一番なのも当然かもね」
「そうなんだ! そうだったらいいなぁ……おばちゃんのカレーがあたしにとっての家庭の味ってことだもん。いただきますっ!」
「単純なんだから」
ため息混じりに笑うクラリス。そんな彼女を横目にカレーを食べ始める。噂が本当なら、甘口になっているのも納得である。おまけにりんごの風味も感じる。これは今日だけのアレンジだろうか?
喋る間もなく、あっという間に平らげてしまった。余程お腹が減っていたのだと気付いた。
「ご馳走様でした!」
「いい食べっぷりだったね。食器片づけてくる」
「じ、自分で行けますよ! そこまでお世話になるわけには……!」
「ここまで運ばせておいてなに言ってるの。それに、また一人で動いてトラブルが起こったら面倒。じっとしてなさい」
ぐうの音も出ない。
返事をするもしょぼくれた声になっているのがわかる。クラリスは皿を持って病室を出ていった。
ティオがいないのも気になるが、これから仕事をするとき彼は傍にいない。代わりに、初めて顔を合わせるような人と一緒なのだ。慣れておく必要がある。
「……ひとりって、余計な事考えちゃうな」
これまでのこと、これからのこと。整理もできやしないのに、次々に浮かんでは弾けて消える。ぐちゃぐちゃになったときは運動したいものだが、この状態ではクラリスが許さないだろう。
ため息混じりに倒れる。その瞬間、あたしの視界にひとりの女性が現れた。
「びぇっ!? 誰っ!?」
反射で上体を起こすも、女性は軽やかに体を逸らしてあたしとの接触を避けた。予測できていたのか、あるいは見てから反応したのか。後者だとしたら随分な反射神経を持っている。
女性はくすりと意味深に笑う。作り物と見紛うほど美しい人だった。
光を跳ね返す銀色の長髪は緩やかなウェーブを描いており、垂れた眼は穏やかさに華を添えている。色は白いものの薄い唇は鮮やかな紅。鼻も高く、不自然なほどに整った顔立ち。肢体は細いものの、どこか緊張してしまう空気を放っている。
この人は誰? 診療兵団の制服を着ている以上カウンセラーではあるのだろうが、これだけ目立つ用紙をしているのだからどこかで見たことはあるはず。
だとしたらいったいどこで? 疑問を口にするより早く、ゆったりとした声音で彼女は問うた。
「あなたがひよこちゃん?」
「え? ひ、ひよこちゃん……? あたし? えっと、ミライって言います」
「ミライちゃん? ふぅん、かわいい名前」
褒めてはいるものの、声のトーンはさして興味もなさそうだった。
「ひよこちゃん、具合はどう?」
「あ、えっと……カレー食べて元気いっぱいです」
「ふふ、美味しかった?」
「はい、とても……」
「美味しいご飯を食べた割には随分困った顔をしているみたいだけど?」
誰のせいだと思っているのか。
自己紹介すらされないまま、彼女のペースに乗せられている。素性が全くわからないせいか、現実離れした美しさがやけに恐ろしく感じた。
そんな折、クラリスが戻ってくる。
「戻ったよ。大人しくして、た……っ!?」
クラリスの顔が固まった。まるでさっきの二人組のように、見つかりたくない人に見つかったときの顔。
その声に女性が反応する。振り返るや否や、口調からは想像もできないほどの俊敏さでクラリスに迫った。身構える彼女の腕を捻り上げ、瞬時に床に叩き伏せる。
いったいなにが起こっている? 理解がまるで追い付かない。
「くそっ……!」
「久し振りねぇクラリスちゃん。聞いたわよぉ? わたしの知らない間に
「褒めるのはいいから退けて! いつまで子供扱いするつもり!?」
「いつまでだって子供よぉ? 私のかわいいかわいいクラリスちゃんはぁ、ず~っとかわいいクラリスちゃんだもの」
ぎりぎりと腕を捻り上げ、クラリスの抵抗を許さない女性。見た目の麗しさに似つかわしくない、限りなく実用性を重視した格闘術。言葉を失うほど鮮やかな動きだった。
しかしクラリスも黙っていない。なんとか抵抗しようとするものの、女性は彼女の後頭部を押し、床に押し付ける。
「わたしに勝てないんだから抵抗しないの。お仕置きしなきゃいけないでしょう?」
「このクソ女……!」
「あ、あの! 放してあげてください! ……っていうかどちら様ですか!?」
流石に見過ごせない。話を聞いてくれるとも思えなかったが、女性はあたしの方をちらりと見て、クラリスの腕を解放する。
「そういえば自己紹介してなかったわねぇ」
うっかりしていた、とでも言いたげな声。先程までの動きを見た後だと、別人に入れ替わったかと錯覚しそうになる。
女性は立ち上がり、あたしの傍へ。そのまま手を取り、くすりと微笑む。その笑みの奥になにが隠れているだろう? 背筋が凍る。
「初めまして、ひよこちゃん。わたしはシェリー・ハーディ。階級はクラブの
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