緊迫と試験

第13話:夜明け前

 ここはどこだろう?


 果ても見えず、底も知れない真っ暗闇。落ちるわけでもなく、流されるわけでもなく。あたしはただそこに在った。

 怖いとは感じない。暑さも寒さも感じない。ただ安らぐような静寂だけの世界。知らない場所なのに、とても心地良い。


 ここがどこか、なんてどうでもいいと思う。


 ふと、自分以外の誰かが存在しているのを感じた。暗いのに、色を感じる。夜明けを告げる太陽のような赤い色と、夜の訪れを感じさせる青味がかった黒。二つの色はあたしの周囲を規則的な動きで漂っている。

 嫌な感じはしない。こころが満たされるような、包み込むようなあたたかさがある。


 この感覚、あたしは知らない。でも、ずっとこれが欲しかった。そんな気がする。

 あたしはさらに深いところへ落ちていく。初めて感じるあたたかさに溺れていく。

 そのとき、顔になにかが触れた。ぷに、とした感触は一定のリズムであたしの鼻を叩く。続いて、遠くからあたしを呼ぶ声もする。なんだろう、この声もいまは懐かしい。


 あなたは誰?


 そう問いかけた矢先、急に体が浮き上がるような感覚を覚えた。そこで初めて怖いと感じた。


 嫌だ、まだ一緒にいたい。


 ――ここにいたい。


「なに泣いてやがる」

「え……?」


 呆れたようなティオの声。彼の言う通り、あたしは涙を流してなにかを掴もうとしていた。


「あたし、なんで泣いて……?」


 なんの夢を見ていたのか、いまはもう思い出せない。

 体を起こして周りを見る。部屋は暗く、微かに薬臭さを感じる。試験が中止して、それから休んでいま起きたんだ。照明が切れている辺り、まだ夜が明けて間もなくなのかもしれない。


「悪い夢でも見たか?」

「うーん……よく覚えてない。ただ、なんか……怖くなったのは確かかも」

「不合格になる夢か」

「それは確かに怖いけど……そういうのじゃなかったかな」


 くっくと意地の悪い笑みを浮かべるティオ。彼はなにも変わらない。試験の前から、いままで通りだ。

 一方、あたしはどうだ?

 試験前はがむしゃらに頑張れていた。疑うこともなく、カウンセラーになるために努力していた、と思う。

 だがいまは? 初めて心象世界に干渉して、少しばかりの経験をして、カウンセラーになることを怖がっている。


「……あたし、カウンセラーになれるかな」


 シーツを掴む。寝る前よりも力は戻っているが、それでも十全には至らない。早く試験を再開したい。その反面、カウンセラーとしてこれからやっていけるか疑問を抱いてしまう。

 ティオのため息が聞こえた。こんな日和ったことを言ってはまた小言を言われるかもしれない。それもまた彼なりの慰め方ではあるのだろうが。


「ミライ、散歩に行くぞ」

「え? まだ暗いよ」

「こういう時間帯だからこそだ。ベッドで寝転がる有意義な時間も、度が過ぎれば退屈と不安を煽ることもある。いいから黙ってついてこい」


 ティオはベッドから飛び降り、部屋を出ていってしまう。こちらを振り返ることもなく、その背中に何故か焦りを覚えた。


 置いていかれる。


 そう思った途端、自然とティオを追いかけていた。いつものように軽やかには走れない。ティオはある程度進んではこちらを振り返り、あたしの様子を窺っていた。

 力は入らないものの、壁に手をついて歩けばどうということもない。この時間は巡回中のカウンセラーもいるだろうが、幸か不幸か誰にも遭遇しなかった。


 そうして彼が連れて来たのは診療兵団本部の中庭。ハートリウムから解放された患者のリハビリは主にここで行われる。

 等間隔に並べられたベンチ、中央には大きな噴水、花壇には色鮮やかな花が咲き誇っている。空には微かに夜明けの色が滲んでおり、朝の訪れを感じさせた。

 ティオは一番近いベンチに飛び乗り、丸くなった。あたしも続いて彼の隣に腰掛ける。


 ――静かだな。


 涼しい風が悠々と泳ぎ、花の香りを運んでくる。噴水はいまも稼働しており、適度な潤いを振り撒いている。夢に見た不思議な暗闇とは違う安心感を感じた。


「ミライよ」


 ティオの声はいままで聞いたことのないものだった。どこか遠くを見ているような、こんなに近くにいるのにもっと遠くに語り掛けているような声。


「なに?」

「お前は昔から考えなしに突っ走るきらいがある」

「……小言?」

「まあ聞け。考えなしに突っ走るのは、お前が自分に正直だからだ。やると決めたらやる、やらない理由を探さない。だからこそ失敗も山のようにしてきた」

「……褒めてる?」

「都合のいいように考えておけ」


 否定はしなかった。つまり、褒めていると捉えてもいいということ。素直な表現はしないティオだ、褒めてはいるが気恥ずかしいといったところだろう。


「へへ、ありがとう」

「礼を言われるようなことじゃねぇ。本題はこの後だ」

「……やっぱり小言?」

「そう思うなら聞き流せ」

「ううん、聞く。いまはちょっと気分がいいから」

「単細胞は扱いやすくていいねぇ」


 ハッハ、とご機嫌に笑うティオ。これはきっと悪口なのだろうけど、いまは聞き流せるだけの余裕がある。ティオはそのまま続けた。


「正直なのはいいことだ。だがな、正直ってのは我が儘と紙一重なんだ。場合によっちゃあ軋轢を生むきっかけにもなりかねん」

「うーん……? いままで考えたことなかったけど、正直者はバカを見るとか言うもんね。じゃあどうしたらいいと思う?」

「素直になれ。正直者のままでいい。だが、お前を大切にしたいと思う奴からの言葉を、お前の我が儘で突っ撥ねちゃいかん」


 我が儘という表現には引っかかるが、正直で居続けるということはそういうことなのだろう。

 やりたいことをやる。それを貫くということは、あたしの身を案じて止める手を振り解くことに他ならない。

 ティオの言い分はわかる。わかるのだが、難しいことを言っているとも思う。


「……あたしを大切にしたいと思ってる人って、どうやって見極めればいいの?」

「簡単だ。お前が大切にしたいと思う奴が、お前を大切にしたいと思ってる奴だ」


 まるで言葉遊びだ。あたしが大切にしたいと思ってる人が、あたしを大切にしたいと思ってくれている?

 ティオの言い回しは難しい。真剣な話をしてくれているのだから、この言葉は額面通りに受け止めるべきなのだろう。だが、いまひとつ飲み込めていない。

 消化不良の中、ティオを一瞥する。はん、と鼻を鳴らして顎を上げた。


「さてはピンと来てねぇな」

「うん、なぞなぞ解いてるみたい……」

「いまはそれでいい。いずれわかる日が来る」

「そっか。簡単に言うと、あたしが大切にしたいって思う人の言葉は素直に受け止めろってことだよね?」

「そういうこった」

「うん、わかった。ティオの言葉は素直に聞く」

「ハッハッハ、そうしておけ」


 ティオは愉快そうに笑う。大切にしたいと思える人……人ではないが、真っ先に浮かんだのがティオだ。血は繋がっていないにしても、家族同然の彼を蔑ろにする気は微塵もない。

 素直な正直者。狙ってそうなるのは難しいと思う。だけど、ティオの言う通りにしていれば近づける気がする。彼は決して的外れなことは言わない。それはこれまでのやり取りが約束してくれる。


「こら! こんな時間になにしてるの!」


 突然聞こえてきた、刺すような女性の声。驚いて振り向けば、巡回中のカウンセラーだった。


「げっ、見つかった……! ティオ! 逃げ……え? 嘘、もういない!?」


 なんて逃げ足が早いんだ! あたしを置いていくなんて! こっちは病み上がりなのに!

 恨むより早く、肩が掴まれる。ぶりきの玩具のような動きで振り返れば、笑っているのに笑っていないカウンセラーが一人。


「ミライちゃん、あなた病室で絶対安静だったでしょう? こんな時間に病室抜け出して、なにしてたのかしら」

「あは……はは、えーっと、ちょっと夜風に吹かれて……的な?」

「なに適当なこと言ってるの! いいから病室に戻る!」

「わあああああ! う、裏切者ーっ!」


 カウンセラーは服の襟をむんずと掴み、引き摺るように歩き出す。病人だと思っているならもう少し優しく取り扱ってほしいものだ。


 いやそれより。

 ティオのことはもう少し疑った方がいい。あたしを置いてそそくさと逃げるような猫の言葉を鵜呑みにしてはならない。


 正直者はバカを見るのだ、もう少し賢く生きよう。

 背に感じる朝日を励みに、まずは体力を取り戻すことを優先しようとこころに誓った。

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