第10話:膨れ上がるもの
少しずつ、だが確実に変化が起こっていた。
突き放すような暴風は勢いを失い、厚みを失いつつある雲が穏やかに流れている。まるでなにかを護っているように優しい。
相変わらず世界は暗いものの、決して気持ちが落ち込むものではなくなっていた。愛用する毛布にくるまっているような、そんな安心感がある。
「ミライ、患者の気配はどうだ?」
「……近くなってる。なんだろう、鼓動がうるさいくらい。患者の気配もすごく大きくなってる」
「ね? 話してみるものでしょ」
くす、と笑みを浮かべるクラリス。試験が始まる前はただ意地の悪い人だと思っていたが、これまでのやり取りを経てその考えは浅はかだったことに気付かされた。
「ありがとうございます、クラリスさん。この後、もしかしたら迷惑かけることになるかもしれないけど……」
「いいよ、別に。後輩のお世話は先輩の役目でしょ」
「くっくっく、今朝とは別人だな。本当にクラリスか?」
あたしが思っていたことは全てティオが口にしてしまう。こころを読まれているんじゃないかと勘違いしてしまうほど的確に。
クラリスの表情が微かに動く。笑みを崩しはしないが、穏やかなものではない。
「意地悪女が好みならそうしようか?」
「駄目! やだ! いまのクラリスさんがいいです!」
もう少しで患者に出会えるかもしれないのにまた空気が悪くなるのは良くない。目の前の患者に集中したいのだ、余計な考えが生まれる状況は徹底的に避けなければならない。
慌てて止めに入ったからか、ふたりともきょとんとした目を向けてくる。必死過ぎただろうか。クラリスは呆れたか、苦笑しながら言う。
「駄々っ子みたいなお願いの仕方だね」
「あ……ご、ごめんなさい……」
「責めてるわけじゃないよ。ただ、愛されて育ってきたんだなって思っただけ」
「ハッハッハ、皮肉が上手な女だなお前さんは」
けらけらと笑うティオだが、クラリスは真逆。言い返す気もないようで、怪訝そうな顔をあたしに向ける。
「……あんた、こんな捻くれた奴をよく家族なんて言えたね」
「ティオは素直じゃないんです、恥ずかしがり屋さんだからこういう言い回しになっちゃうだけなんだと思い込んでます」
「ほざけクソガキ」
「ほらね。図星突かれたからこういう悪態でごまかすんです、可愛いところあるでしょ?」
「……あんたも捻くれてるから成立してるのね、よくわかった」
なにか勘違いをされていそうな気がする。自分が捻くれていると感じたことは一度もないが、傍から見るとそう見えるのだろうか?
ティオを一瞥する。心外だねぇ、と呟いてそっぽを向いてしまった。捻くれ者であると言われたのがショックだったのかもしれない。よしよし、と背中を撫でてあげるも尻尾で叩かれてしまった。猫は気紛れな生き物だというし、わかりにくさも含めて愛してあげよう。
「無駄話もこの辺りにして、進むよ。先導お願い」
「わかりました。ティオ、いい?」
「構わん。どうせなんの力にもなれやしねぇからな」
頷き、進む。風はどんどん穏やかになり、視界も晴れていく。代わりに、不思議な音が聞こえてきた。
とくん、とくんと規則的なリズム。鼓動?
患者が近くにいる証拠かもしれない。いままでのハートリウムから考えれば、この落ち着いた鼓動は充分こころが休まっているとも考えられる。
駆け足気味に進むと、鼓動はどんどん大きくなる。あたしの中でも存在感を大きくしている。
そうしてついに患者と対面した。
「……あれ、かな」
あたしたちの前にあったのは、胎児のように身を丸めた子供……に見える光。そしてその周囲を漂う二つの光球。軌道には規則性があり、子供の光を中心として円を描いているようだった。
「……? どういうこと?」
クラリスが呟く。ここでもイレギュラーが発生しているようだった。
「なにかおかしいんですか?」
「患者の姿が曖昧過ぎる。普通は患者本来の姿で存在するはず。いままでのハートリウムみたいにね」
「そういえば……」
一次試験の少年も二次試験の男性も、きちんと現実の肉体で再現されていたはずだ。少なくとも、目の前の患者のように曖昧な姿ではなかった。
「それにあの光球……いかにも大切なものを護ってます、っていう雰囲気がある」
「下手に接触を図るとどんな報復が飛んでくるかわからねぇっつうことか」
患者の表情もわからない、当然心情も推し量ることはできない。おまけに患者への接触も慎重にならざるを得ないときた。
ここまでだ。
と、クラリスは思っただろう。ティオだってそう。違うのはあたしだけ。
こころがなにか囁いている。いまはまだ遠くて聞こえない。そしてそれが患者の声であると確信している。当然、根拠はない。ただ一歩、一歩と近づくにつれて声の輪郭も定まっていく。
……カ? ル……ハ、ル……?
「止まって!」
「は――わあっ!?」
襟を引っ張られ、そのまま地面に倒される。クラリスだ。聞いたことのない声だった。切羽詰まったような、身投げを試みる者を止めるような。
あたし、いったいなにをしようとしていた? 顧みる時間さえ、いまはないようだった。
光球の速度が速くなっている。おまけに、先程まで聞こえていた心地良い鼓動のリズムが乱れている。代わりに聞こえてきたのは甲高い音。それは子供の叫び声のようにも聞こえる。
「これ以上はまずい!
クラリスの声に従い、
――だが、どうしてか
この子は助けを求めてる。在るべき場所に帰りたがっている。その手助けをするのがカウンセラーだ。こころから思考が切り離されたかのような錯覚を覚える。
「ミライ! 止まれ!」
ティオの声は遠い。クラリスの声も、最早言葉として認識できない。あたしを突き動かすものがなんなのか、あたし自身もわからない。
体の内側が熱い、余計な力は全て抜けた。無意識に口角が吊り上がり、自然と患者に近づいていく。
『あたしはキミを――』
その声は本当にあたしのもの?
疑った瞬間、どくん、と心臓が跳ねた。嘘のように力強く、それこそ胸を突き破るほど大きく。たまらず膝をついた。
「っは! ああっ……! っ、ぐうう……!」
心象世界では感情と感覚が直結している。だから痛いと思わなければ痛みは感じないはずだ。
なのに全身が痛い。呼吸もできない。体が内側から引き裂かれるかと錯覚するほど“なにか”が膨れ上がっているのを感じる。なにが起こっているのか自分でもわからない。ただ漠然と、怖いと感じた。
「ミライッ!」
声が聞こえる。だけど、それはティオの声じゃない。違う誰かの声。どこかで聞いたことがあるような、ひどく安心するのに、聞きたくないと感じる声。
誰のものかわからない声なのに、ティオの声と認識できるのはどうしてだろう? 膨れ上がる痛みは思考の余地など与えない。
このままじゃ、死んじゃう。
明確な死が脳裏を過る。それ以上はなにも考えられず、あたしの意識は暗闇に吸い込まれていった。
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