第8話:いるはずのない者

 歩き続けてどれだけ経ったかはわからない。心象世界には基本的にものを持ち込めず、腕時計なども例外ではない。

 クラブの力で産み出そうとしても、具体的なイメージをするには産み出すものの用途のみならず仕組みも理解しておく必要がある。

 せっかく作った時計がガワだけの飾り物になる可能性も高い。おまけに複雑なものを作ろうとすれば高い集中力も要求される。現実的なアイデアではなかった。


 一刻も早く患者の下へ向かいたい。その気持ちは依然変わらないまま。しかし歩けど歩けど変化がなかった。風は変わらず強いまま、分厚い雲が視界を阻み続けている。ひょっとすると同じ場所をぐるぐる回っているのではないかと錯覚してしまう。

 ふと、前を歩くクラリスが足を止めた。彼女としてもお手上げなのだろうか。


「これ以上は埒が明かない。一旦戻ってマザーに相談した方がいい」

「わかりました、パスを」

「……? 待って」


 あたしの言葉を遮るクラリス。なにかを感じ取った? ようやく進展が得られるだろうか。

 しかし姿は確認できない。ただ漠然と、胸がざわつくのを感じている。それは徐々に大きくなり、迫ってくる気配に息を飲む。

 クラリスが右腕を振りかざす。彼女の腕から長い光が発せられ、振り下ろしたと同時――


「どわぁっ!? なにしやがる!?」


 やけに馴染みのある渋い声が裏返った。

 クラリスが「え?」と驚いたような声をあげる。あたしだって同じ気持ちだ。聞き間違えるはずがない。いまの声は、ここにいるはずのない者の声だったから。


「……ティオ!?」


 小さな影に慌てて駆け寄る。豊かに蓄えた黒い体毛、お世辞にもスマートとは言えないずんぐりとした体躯、睨むような金色の眼。

 間違えようがない、ティオがいた。どうして? ここは心象世界。カウンセラーと患者のこころしか存在できないはずなのに。


「なんでここにいるの!? ここたぶん危ないよ!」

「なんではこっちの台詞だ! お前がパスを使ったら一緒に光に吞まれちまって、挙句あんな物騒な得物で叩っ切られそうになったんだぞ!?」

「物騒な……? うええっ!?」


 ティオの足が示すのはクラリス。彼女に目をやると、身の丈を超える長大な槍を握っており、穂先の部分はギラリと光る半月状の刃も備わっている。

 物騒な得物という表現が実に的確。日常生活ではおよそお目にかかれないような武器。あれは確か、ハルバード?


「ク、クラリス? それは……?」

「スペードの騎士ジャックならこれくらいクラブで作れる。あと、さん」

「あ、す、すみません。そっか、敵? かなにかだと思われたみたいだね」

「巻き込まれて途方に暮れてたところにあんなもん見せられた俺をもう少し労われ……」

「ごめんごめん、クラリスさんも悪気はなかったから、許してあげてね」


 ティオを抱き締め、優しく撫で回す。後ろでクラリスが「わざとじゃないんだから……」と呆れた声で呟いている。いまはティオのケアが優先だ。

 それより、どうして彼が心象世界にいる? 彼はカウンセラーではないし、パスも持っていないのに。本人も理解していないみたいだし、なおのことわからない。


「クラリスさん、ティオはどうして……」

「わからない。……けど、あんたに確認しておくことがある」

「確認、ですか?」

「このまま試験を続けるか、ってこと」


 カルテのない心象世界。それだけでもイレギュラーなのに、カウンセラーではない猫まで心象世界にいる。どちらも想定外の事態なのだろう、試験監督の立場からしてみればそのまま進めることは憚られるはず。不測の事態のまま進めることは合理的じゃない。

 とはいえ、ここで離脱したら? マザーの意図は報せてくれるのだろうか。知りたい気持ちはある。どうしてこんな無理難題を示したのか。

 ……あたしにどうなってほしいのか。

 それを知るためにも退くのが正解だろう。


 ただ、どうしてだろう。正解それを選べない。選ぶことを善しとしない自分もいた。現実世界の何倍も大きな重力があたしの決断を鈍らせる。


「……あたし、は……」


 中止する。

 そんな短い言葉が、喉に引っかかって出てこない。吐き出さないように必死に堰き止めてる自分に気がついた。


 どうしてこの世界から離脱することを選べない? 不測の事態が立て続けに起こっているというのに、それより優先すべきものがあるように感じてならない。

 やるべきことがある。漠然と、そう思う。退くことを許さない“なにか”があたしの手を放さない。


 痺れを切らしたか、クラリスはため息を一つ。


「試験はここで――」

「やりたいようにやりゃあいい」


 ティオの言葉にハッとする。

 彼を見れば小馬鹿にしたように鼻で笑っている。投げやりな言葉の裏に隠れたこころが透けて見える。


『なに言っても聞きやしねぇだろう』


 言葉はないのに、ティオの声が聞こえる。こころの奥で眠る“なにか”に火が点いたのを感じた。

 そうだ。そうだった。ティオはあたしのやることを、やりたいことを止めはしなかった。


 やりたいようにやりゃあいい。


 彼はいつもそう言って、あたしの失敗を何度も目の当たりにした。その度に笑っていた。


『ほら見ろ、言わんこっちゃない』


 なんて言うのだ。まるで最初からわかっていたとでも言わんばかりに笑うのだ。

 でも、どこが駄目だったか、どうすれば上手くいったかを一緒に考えてくれた。そうして最後に、得意げな笑顔を見せてくれた。


「好きにしていいの?」

「お前の人生だろう」

「……うん、それもそっか」


 立ち上がり、クラリスに向き合う。あたしの顔を見て、彼女も諦めたようだった。言わなくても伝わるような顔をしていたのだろうか、それは少し気恥ずかしくもある。


「……危険だと判断したらすぐ中止するからね」

「ありがとうございます」

「乗りかかった船だ、見届けてやる」


 ティオも傍にいてくれるようだ。

 見届けてくれるなら頑張れる。胸を張って笑えるように、やれるだけやってやる。いままでだってずっとそうしてきたのだから。

 暴風も、暗雲も吹き飛ばすくらいのカウンセラーになる。今日がその一歩だ。あたしたちは再び探索へ戻っていった。

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