第5話:心象世界

 目を開けると、見知らぬ庭にいることがわかる。

 そして、庭の真ん中には揺り籠。ただし普通のサイズよりもずっと大きい。赤ん坊だけでなく五、六歳の少年ならすっぽり収まりそうなほど。

 患者の姿は見えない。いるとしたら、一際存在感を放つあの揺り籠くらいだ。


「患者さん、そこにいるよね……?」

「そういうこと」

「びぃっ!? ク、クラリス!?」

「さん」


 突然の声に驚くあたしとは裏腹に、極めて平静な声音のクラリス。きっちり敬語を使うよう促す辺り、この反応には慣れているのだろうか? いや、それよりも何故彼女がここに?


「試験監督が直接見ないでどうやって判断すると思ってたわけ?」

「た、確かに……」

「まずは基本。ダイヤとハートの素養を確かめる」

「ダイヤ……と、ハートですね」


 カウンセラーには仕事をする上で四つの要素が必要だという。それぞれに意味があり、今回試されるダイヤは“見極める力”。患者の状態をより正確に把握し、適切な処置を見つける力。

 もう一方、ハートはカウンセラーにとって最も大切な力――“受け止める力”。患者のこころに寄り添うための力。


 ハートリウムの中にある世界、心象世界は患者のこころに直接干渉できる。ダイヤとハートの能力はカウンセラーにとって特に重要視される力だ。これらのどちらかが欠けていれば患者のこころを連れ戻すことは難しい。


 まずは基礎基本、患者を診る。大きな揺り籠に近づき中を覗くと、見立て通りの年頃の少年が丸くなって眠っていた。


 心象世界は患者のこころを癒すためのもの。そのため、ハートリウムが具現化して間もなくはこの箱庭も活発な動きを見せる。現在の穏やかさを見る限り、患者のこころは充分に休息を取れているはず。後はきっかけだけと見るのが妥当だろう。

 周囲にも目を配る。少年よりも一回り大きな犬が近くの木の根で寝息を立てている。この犬も患者のこころから欠かせない要素なのだと思う。患者のこころを護る番犬と考えれば、あの犬は患者の防衛本能そのものの可能性が高い。

 迂闊に刺激すればどうなるか、こころが過敏になり連れ戻すのが難しくなる可能性が高い。しかし患者と対話できなければそもそも連れ戻せない。

 いずれにせよ、まずは目を覚ましてもらう必要がある。声をかけて驚かせるのも問題だ。ひとまずは少年の頬を撫でる。少年はうっすらと目を開き、あたしの姿を見て怯えたような顔を見せた。


 ――大丈夫、想定の範囲。


「おはよう、びっくりさせてごめんね」

「だ、誰……?」

「あたしはミライ、よろしくね」


 少年の目には警戒心が映っている。彼の心象の変化に従って世界も変わる。

 空は急に曇り、風は勢いを増す。寝息を立てていた犬は起き上がり、喉の奥から低い音を鳴らしてあたしに牙を剥いていた。


 この世界は患者のこころそのものだ。ここまで激しく変化をするならば、まずは敵じゃないと認識してもらうことが必要になる。

 少年に背を向け、犬に視線をやる。


「あのワンちゃん、きみの家の子?」


 返事はない。犬はついに吠え出すが、あたしは笑みを崩さず地面に膝をついた。犬と目線の高さを合わせる。


「怖がらせちゃったみたいだね、ごめんね」


 仲直り、と手を差し伸べる。しかし犬には通じていない。あたしの手に力一杯噛みついてきた。痛みはない。心象世界は思考や感情が感覚に直結する。痛いと思わなければ痛みは一切感じない。


 心象世界において、カウンセラーとして最も大切なものは強い気持ち。患者を制する力より、寄り添う力を要求される。

 この犬があたしを噛むのであれば、それは強い拒絶の表れとして受け取れる。抗う力は必要ない。ただ自身が無害であると、患者にとって敵ではないと判断してもらう。そうして初めてカウンセラーはこころと対話する機会を与えられる。


 犬の噛む力は強さを増す。それでも表情を歪めない。少年はいま怯えているのだ。自分だけの世界に突然現れたあたしに。これ以上不安にさせるわけにはいかない。


「怖いよね。こころに踏み込まれるのって」


 ――ここからはハート。こころと対話する力だ。


 手を引こうとすれば、犬は食い千切らんと食らいついて来る。そうして大きな体を引き寄せて、空いた手を犬の背中に回した。

 抱き締めるような姿勢に犬は驚いたか、荒い息をより乱す。あたしは決して動揺を映さず、背中を優しく撫でた。


「怖くない、怖くないよ。あたしはきみとお喋りしに来たの。きみのこころとお話ししに来たんだよ」


 血走った眼が微かに揺れる。荒れていた呼吸も徐々に一定のリズムに落ち着いてくる。犬の様子が変わっていくように、世界も少しずつ落ち着きを取り戻していく。風は穏やかに、空も少しずつ晴れていく。

 あたしは続ける。心象世界の変化に流されず、変わらないままで。


「きみのお話、聞きたいな。つらいこと、悲しいこと、なんでもいいよ。全部聞くから、話してくれる?」


 背中を撫で続けていると、徐々に噛む力が弱くなっていく。呼吸も落ち着きを取り戻し、やがてあたしの手も自由を取り戻す。


「いい子、いい子。それじゃああたしとお喋りしよっか」

「はい、そこまで。パスを胸に触れさせて」

「え? は、はい」


 ここで終わるとも思っていなかったため、声に動揺が滲んでしまう。下手に理由を聞くより素直に従った方がいいだろう。言われた通りパスを胸に当てる。パスが光を発生させ、柔らかな光にあたしの体が包まれて――


「……ん。戻ってきた……?」

「なんだ、もう終わったのか?」


 部屋の隅で丸くなっていたティオがのっそりと体を起こす。現実でどれだけ時間が経っていたかはわからないが、彼の口振りから察するにあまり長引かずに済んだようだ。

 試験の概要を思い出す。制限時間以内に一定の成果が出せればいい、とクラリスは言った。彼女の方を見れば、納得がいかないというような顔を見せてはいる。


「……ま、これくらいはね」

「じゃあ、第一関門突破?」

「言わなきゃわからない?」

「あ、いえ。ありがとうございます」


 気の抜けた声になってしまったが、まだ第一関門。この後はきっと、スペードやクラブの力も試されることになる。試験の内容もダイヤ、ハートとは毛色ががらりと変わるだろう。安心はまだできない。


「次……次をお願いします」


 一瞬、クラリスが怯んだように見えた。脅かしたつもりはないが、怖い顔でもしていただろうか。

 ハートリウムを取り出すクラリス。ティオにもう一度「行ってきます」を告げるも、彼は呑気にあくびを漏らすばかり。その様子に余計な力が抜けていくのを感じた。

 パスを握り、深呼吸。休む間もなく第二喚問へと向かった。

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