第3話:騎士の役
「いらっしゃい、ミライ。ごめんなさい、まだ準備が整っていなくて」
マザーの部屋の扉を開けたと同時、甘い香りが鼻孔をくすぐった。彼女はいつも紅茶を淹れて待っている。この香りはあたしが好んで頼むものだった。
おまけに彼女お手製のハニートーストもある。朝の軽食にはちょうどいい。
――こういうところが甘やかされてるって感じるのかな?
マザーは朝食の用意を嬉々として進めている。心苦しいが、これからは皆と同じカウンセラーになるのだ。あまり特別視されると他のカウンセラーと軋轢が生じる可能性がある。
「え、えっと、マザー。その……嬉しいけど、今日はいいかな。あと、これからもこういうの要らないよ」
軽快な、それでいて虚しい金属音が響いた。
ティースプーンを落としたようだった。優しい光を湛えた眼がいまは明らかに動揺を映している。
「ミ、ミライ……? どうして、どうして要らないのです……? いつも、いつも美味しそうに食べていたのに……?」
「マザー!? ごめっ、ごめんね!? 違うの! 嫌になったわけじゃないよ!? 今日からもうカウンセラーになるわけだし、みんなと一緒の待遇じゃないと変かなって思っただけだからね!?」
こんなに動揺しているマザーは初めて見たかもしれない。この様子から見るに、確かに気にかけてはもらえていたのかもしれない。
それはそれとして、とりあえず気を持ち直してもらわなければ話が進まない。そう思っているのはティオも同じだったようだ。
「マザー。朝食はありがたく頂くが、今後はミライの意志を尊重してやってくれ。成長を寂しく思うだろうが、それより本題を頼む」
「そ、そうですね……ミライもいつまでも子供ではないですものね……失礼しました、取り乱してしまって……」
「う、ううん。こっちこそごめんね。マザーの淹れてくれる紅茶、甘くておいしいから好きだよ、本当に」
なにはともあれ、マザーが立ち直ってくれたと思っておこう。しかしこうもショックを受けるとは思わなかった。本当の子のように扱ってくれていた証拠なのかもしれない。
それで贔屓されていると思われるのはあたしにとってもマザーにとっても都合が悪い。これからは皆と同じように扱ってくれることを祈ろう。
それから朝食の時間になったが、呑気に食べていては甘えを断ち切れない。胃に流し込むようにして食べ終え、本題に入らざるを得ない空気を醸し出す。
マザーは紅茶を啜り、一息。優しい眼に寂しさを浮かべ、「さて」と切り出した。
「あなたは今日から
「はい。頑張ります」
無意識に口角が吊り上がる。気持ちが湧き上がるにつれてどんどん上がっているような錯覚を覚える。
喜ぶべきところではある。しかし真面目な話をしているのだ、にやけている場合ではない。ぎゅっと唇を結び、マザーの言葉を待つ。
「まず、カウンセラーの認識について改めて確認します。私たちはなんのために存在しているか」
「人体からこころを隔離した結晶……“ハートリウム”からこころを回収して、あるべき場所に返すためです」
「そうですね。では、ハートリウムとは?」
「疲弊しきったこころを休ませるための箱庭です」
マザーは頷く。ここまでは基礎的な知識だ。
ハートリウム。
現代社会において大きな問題として取り上げられる現象。家庭内、あるいは職場や学校における集団生活から生まれるストレスを原因にこころを病む者が後を絶たない。
立ち上がる気力さえ失ったこころは体から切り離され、癒すための箱庭を生む。箱庭は透明な瓶の形をしており、瓶の中には患者の心象が映される。
あたしたちカウンセラーはそれをハートリウムと呼んでいた。そして、ハートリウムに閉じ込められたこころを体に戻すのが仕事である。
「ところでマザー、なぜ俺も呼んだ? 俺は猫だ、カウンセラーは務まらんぞ」
「あなたはミライの保護者のようなものでしょう? 娘の晴れ舞台に立ち会わせたいとは思いませんか?」
「手のかかる小娘がようやく独り立ちだ、めでたいとは思うがな」
「まーたそうやって捻くれたこと言うんだから」
突き放すような言葉ももう慣れた。額面通りに受け止めれば傷つきもするだろうが、彼が素直じゃないことはずっと前に理解している。
ティオの捻くれた言葉はきっとなにかを隠した表現なのだろう、オブラートなのに
「ともかく、ミライ。あなたは今日からカウンセラーになります。……と、私は言いました」
「はい。……うん? なに、その言い方?」
「正確には“適性試験を終え、カウンセラーとして十分な力があると判断出来れば”なのです」
「適性試験? なにをするんですか?」
「それは
背後の扉が開く。姿を見せたのは背筋がピンと伸びた凛々しい面立ちの女性。藍色の長髪を束ね、瞳に凍えるような光を灯してあたしを睨んでいた。
――いや、ちょっと待って!?
「あ、あの……!?」
開いた口が塞がらないあたしと、慰めるような眼差しを向けるティオ。マザーは当然知るはずもない、ここに来る直前の出来事など。
女性はあたしの肩に手をかける。自然と背筋が伸び、恐る恐る振り返る。にこやかな笑みを浮かべつつも、目の奥に映るものは暗くて冷たいものだった。
「試験監督は私。スペードの
「は……ハジメマシテ……」
なにが初めましてなものか。今朝の言葉は忘れてないよ。
なんて言えるはずもなく。凍えるような笑顔を前に肩を窄めるだけだった。
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