第2話:辞めちゃえば
「――イ、ミライ」
女性の声がした。意識の淵にかけた指を優しく解き、再び微睡みに落とすような柔らかい声。
薄く開いたまぶたが閉ざされていくのを感じる。心地の良い暗闇が訪れたと同時。甲高い金属音が耳元で轟いた。
「びぇあっ!? なに!? 災害!?」
沈みかけた意識が乱暴に引っ張り上げられ、あたしは飛び起きる。ベッドの横にはフライパンを両手に持ちシンバルのように打ち鳴らす女性がいた。
白を基調とした制服に身を包み、胸元にはハートの形をした赤い記章。中心には“王”を示す数字が刻まれている。腰に届くほど長い金髪は一切のくせがなく、穏やかに垂れた眼には澄み切った海を彷彿とさせる瞳。
女性――マザー・ノーマはあたしが起きたのを確認すると、やれやれと肩を竦めた。困ったような笑みを浮かべつつも、嫌な感情は見受けられない。
「大切な日でもこの調子だなんて。寝坊助さんは相変わらずですね、ミライ」
「ご、ごめんね。寝る時間はみんなと一緒なんだよ? でも起きれないの、なんでかなぁ」
「まあ、今日に限っては緊張して眠れなかったということにしておきましょうか。身支度を整えたら私の部屋へいらっしゃい。朝食もそこで、ね」
「うん、わかった。起こしてくれてありがとう」
マザーは笑みを浮かべて部屋を出ていく。
枕元の時計は午前八時を越えて十五分。毎度のことながら、何故アラーム音で起きられないのか。あるいは起きた上で二度寝をしてしまっているのか。記憶がおぼろげでどちらかはわからない。
フライパンの衝撃でまだ頭がぐらつくが、ベッドに寝転がれば呑気に眠ってしまうかもしれない。ひとまずはベッドから這い出て、洗面台へ向かった。
「こっちも相変わらずだなぁ」
鏡に映る自分を見て苦笑い。生まれついてのくせ毛が寝ている間に好き勝手に舵を取っている。
夜明けの空を思わせる橙色の髪はママから。猫のような気紛れさのある金色の瞳はパパから受け継いだものだとマザーが言っていた。
両親のことは顔もよく覚えていないし、思い出らしい思い出もない。ただ、ふたりから受け継いだものが目に見える形で存在するのは嬉しかった。
右手で歯ブラシを器用に動かし、左手で櫛を持ち暴れた髪を梳いていく。じゃじゃ馬な髪質とも上手く付き合えるようになったものだ。
歯磨きもセットも終わり、あくびを一つ。そのとき、あたしの体を巧みに登る存在に気が付いた。あたしの昔からの友達であり、家族でもある猫。猫はあたしの肩に乗り、柔らかい前足で鼻を叩いた。
「ぶわぁっ」
「だらしねぇツラ見せやがって。また呑気におねんねする気か?」
低くしゃがれた男性の声。それはあたしの肩に乗る猫の声に他ならない。
ずんぐりとした体格に豊かに蓄えた黒い体毛、鋭い眼にはあたしと同じ金色の瞳が光っている。喋る猫は彼以外に見たことがないが、昔からあたしのことを気にかけてくれる家族のような存在だ。
「おはようティオ。もう寝ないよ」
「わかってるならよろしい。さっさとマザーの部屋に向かうぞ」
見た目に似つかわしくない軽やかな身のこなしで飛び降りる猫、ティオ。正確な名前はもう少し長いのだが、響きが可愛いという理由でティオと呼んでいた。最初こそ難色を示していたが、いまでは気に入ってくれているのか特に指摘はない。
彼の後を追い、部屋を出る。あたしの部屋は三階の階段のすぐ傍。寝坊が多いからこの部屋をあてがわれたわけではない、と信じたいところだ。
人の少ない廊下を走り抜け、階段を一段飛ばしで駆け降りる。すれ違う者たちは皆マザーと同様の制服を身に纏っている。あたしも今日、晴れて彼らの仲間として仕事をすることになる。
必然、足取りは軽かった。気が付けばティオを追い抜かすほどに。
「随分ご機嫌なこった。すっ転ぶんじゃねぇぞ」
「わかってる! 大丈夫大丈夫!」
「馬鹿! 前を見ろ!」
「え? わぷっ!」
ティオの方を振り返ってすぐ、なにかにぶつかってしまったようだ。金属の感触ではない。なにか重たいものと衝突し、あたしだけが弾き飛ばされたようだった。
ティオはあたしの横を走り抜け、ぶつかったであろう相手に深々と頭を下げる。
「すまなかった。馬鹿娘の不注意で」
「馬鹿娘だって、ひどい猫! ……あっ」
どうやらあたしがぶつかったのは女性のようだった。彼女もまた例に漏れず、組織の制服に身を纏っている。
あたしとは対照的に、くせのない藍色の長髪を首元で束ねている。鋭い目尻は決して柔和さを感じさせず、髪と同じ色をした瞳もまた冷たい輝きを宿していた。身長もあたしより高く、見下ろす視線につい背筋が伸びる。
制服の襟にはスペードの形をした黒い記章。一目見て先輩だとわかる。慌てて立ち上がり、ティオに倣って頭を下げた。
「ご、ごめんなさい。浮かれちゃって……」
「あんた、マザーのお気に入りでしょ?」
「え……」
お気に入り、という表現に引っかかった。マザーに目をかけてもらっているとは思わないが、傍から見るとそう見えるのだろうか。
皆と同じように接してもらってると思っていた。他の人の前ではマザーももっと厳しかったりするのかもしれない。
返答に困っていると、女性は鼻で笑って背を向けた。
「私はあんたを認めない。“カウンセラー”なんて辞めちゃえばいいのに」
「……! あの!」
あたしの声に足を止めることはない。女性はそのまま、甲高い足音を立てながら去っていった。
取り残されたあたしにティオが笑う。
「まあ今日まで呑気に生きてりゃあ誰かしらの目の敵にはされるだろう、あまり気にするな」
「呑気に生きてたわけじゃないもん。ちゃんと勉強してきたし、今日の話だってその努力が認められたってことでしょ?」
「都合のいいように解釈しておけ。ああいう手合いは社会に出りゃあどこにでもいる」
「うん、わかった」
彼女の言葉や態度は気がかりだが、誰からも愛される人間になんてなれやしない。そう言い聞かせてマザーの部屋へと急いだ。
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