イタリア協奏曲

増田朋美

イタリア協奏曲

今日は10月というのにエアコンが必要な暑い日だった。運動会のシーズンでもあるのだが、こんなあつい日では、運動会も暑くてしょうがないだろうなと思われる。それでも運動会や秋祭りが盛んに開催される季節でもあった。

その日も、杉ちゃんたちは、いつもどおり、着物を縫ったり、食事の支度をしたりしているところだった。幸い、製鉄所がある大渕は標高が高くて、

あまり暑さの影響はなかったと思われるのであるが、そうなると、トラブルも多くなるものである。

「右城くん、ちょっと相談に乗って貰えないかしら?あたしじゃ何も解決できないから、右城くんなら詳しいかなと思って。」

と、玄関の引き戸をガラッと開けてやってきたのは、浜島咲であった。

「ああいいよ、上がれ。」

杉ちゃんにそう言われて咲は、こっちよと言って、一人の女性を連れて入ってきた。その人は、確かにきれいな人であるけれど、ちょっと、俯いた感じの人で、いかにも訳ありという感じの女性だった。

「こちら、私の知り合いの、山村千歳さん。私が、楽器屋さんで知り合ったのよ。そして一緒に居るのは、山村和久子ちゃんで、年はえーと。」

と咲が言うと、一緒にやってきた小さな女の子が、

「六歳。」

と、小さな声で言った。

「はあなるほど。六歳ということは小学校の一年生だ。まだまだ、親御さんに甘えたくなる年だねえ。」

杉ちゃんに言われて、和久子と呼ばれた女の子は、ちょっと嫌そうな顔をした。

「ちょっと、おませやな。」

杉ちゃんがそう言うと、水穂さんが、

「もしかしたら、事情があるのかもしれないから、あまりそういう事は言わないほうがいいよ。」

と、杉ちゃんに注意した。それを注意してくれたので、和久子さんは、水穂さんの事を、他の大人とは違うと思ってくれたのか、そっと微笑んだ。

「まあいい。それでは、相談って何だ?なんでも隠さずに話してみろ。初めから頼むぜ。そして終わりまでちゃんと聞かせてもらう。」

杉ちゃんがそう言うと、千歳さんは、本当に困った顔をして、杉ちゃんたちにこう話したのであった。

「初めは、学校の音楽の授業だったんです。初めてメロディオンに触ったとき、和久子が即興で曲を作って、みんなの前で演奏したらしいんです。それで、学校の先生が、ピアノを習わせたほうが絶対いいって、言ったんですよ。ただ、他の勉強は碌にできないし、体育の授業では、みんなの足を引っ張るとして、馬鹿にされていた子が、どうしてそんなことができるのかと思ったんですが。でも、先生がそう言うんだったら、そうさせて上げたほうがいいなと思ったんです。」

「は、はあ、なるほどねえ。」

千歳さんの発言に、杉ちゃんは頷いた。

「それで、どっかのピアノ教室に通わせるとか、そういう事始めたいの?」

「ええ、そうしたいと思っているんです。」

と、千歳さんは言った。

「他の勉強は、全然できないんですか?」

水穂さんがそうきくと、

「はい。だって、学校の成績だって、ほとんど一か二なんです。そんな勉強ができない子が、どうしてそういうことができたのか、おかしな話だと思ったんですが、音楽の先生がそういうものですから、その通りなんだと思うんですけど。」

千歳さんはそう答えた。

「はあなるほどね、いわゆる、特定の分野にやたら優れているギフテッドとか、そういうやつなんだろうね。まあでも、それはそれで良いにしてさ、こいつがさ、能力を発揮できるように、なんとかしてやるのが一番何じゃないのかな。まあ、日本ではなかなかそういうやつに理解してくれる人なんていないと思うけど、それはやっぱり、親として必要なことだと思うよ。逆に、こいつがさ、学校でいつまで経ってもできないやつとしてずっと生きてるよりも、ピアノとか、習わせて、すごくいい能力を無駄にしちまわないほうが絶対良いと思うんだよね。」

杉ちゃんがそう言うと千歳さんは、いや、問題はここからですと言って、こういったのであった。

「それが、すぐにピアノをなんとかしてという環境じゃないんです。すぐにでもこちらとしては習わせて上げたいと思うんですけど、同居している父が、そういうのに理解がない人で、それより勉強させないとだめだとか、そういう事言うので。音楽なんて何の役にも立たないとか、そういう事言われると困るから、私も、困っていて。」

「そういうことねえ。確かに、働くことがすべてと考えるお年寄りには、難しいことかもしれんな。」

杉ちゃんは腕組みをした。

「で、でもさあ。そういう事は、ちゃんと無視することも必要だと思うんだよ。お前さんももちろんそうだけど、お年寄りがどうのこうのなんていうよりも、こいつは、長く生きなくちゃならないわけだからな。こういうやつにとって、心の拠り所になるようなものは絶対必要になると思うんだよ。まあそれがね、生涯の糧になる職業になってもならなくても、ピアノがあったから、生きてこられたっていうことだってあると思う。そういうことって、六歳のちいちゃな子供さんには選べないことだと思うし、せっかく学校の先生が見つけてくれたんだったら、その通りにしたほうが良いと思うな。もし、お年寄りが、そんな事しても意味がないって言うんだったら、そんな事言うなって、怒鳴りあえるくらいの覚悟を持ったほうが良いよ。」

「いや、それはどうでしょうか。」

水穂さんが、杉ちゃんの意見を否定するように言った。

「どうでしょうかって何だよ?」

杉ちゃんが聞くと、水穂さんは、こう答えるのである。

「今の世の中を変えるということは正直できないですよ。お年寄りが、力が強すぎて結局そっちのほうが優先されてしまうという事は、何回もあるでしょうし。それより大事なのは、そういう理解のない人や、悪いことを言う人にいかに耐えていくか、そういう人たちからどう逃げるかというか、そういう理解のない世の中をどう渡り合って行くかを伝えていくことではないでしょうか。それは、子供さんのうちから身につけて行かないといけないと思うんですよね。学校に行かないとか、そういう選択肢がある国家では無いですからね。もし、お年寄りが無理解であるのなら、それを、うまく交わして自分の心を安定させていく方法を身に着けさせるほうが先決ですよ。そのためには、夢をどうのとか、そういう事は教えないほうが良いと思うんです。」

「右城くんって、本当に現実的なのね。」

咲は、水穂さんにそういう事を言った。

「不思議なことねえ。ピアニストとしてあれほど活躍してた人が、そういう事を言うなんておかしなことだわ。」

「成功したからとか、そういう事は関係ありません。思いやりとか、そういうことがちゃんと身につく人はほとんどいないのが今の世の中です。それを渡り歩く方法を知らないと、本当に彼女が将来途方に迷ってしまうと思う。だから、おじいさんが反対しているなら、それに対してどう対処するかを考えるべきです。」

水穂さんは、最後の語尾をちょっと強く言った。

「まあ、そうかも知れないけどさ。だけど、なんにもしないで、ほうっておくのも酷だと思うよ。それよりも、こいつが、辛いときに頼りにできるものを与えてやるってことは、大事だと思うけどね。まあ、世の中を渡り歩く方法は嫌でも身につくさ。それよりも、こいつに、お前さんはこれができるってはっきりしてやれば、こいつはそれを頼りにして生きていけると思うよ。だって、勉強ができなくて困っているのもまた事実でしょ。それなら、嫌でも劣等感を持たなきゃならなくなるわけだから、それなら、他に頼りになるものがあって良いと思うけどなあ。」

杉ちゃんは、水穂さんにそういったのであるが、

「でも、そういう事は、本当に役に立つかどうかはっきりしておりません。それよりも、世の中をどう渡り歩くか、不正をいう人物にどう耐えるか、を教えるほうが先です。この先、できることよりできないことのほうがはるかに多いでしょうから、それをどう乗り越えるかのほうを教えるべきだと思います。えらくなれる人なんて、本当に少ししかいない。普通の人は、才能などあっても、発揮するチャンスもなく一生を終えるんです。それに、そういう人に対して、日本では嫉妬したり、いじめの対象にすることもあるんです。それをどうかわすかも教えなければならないでしょう。だったら、そういう事を先に教えるべきだと思います。特に若いうちは、そうすべきで、能力を伸ばすのは、年を取ってからでも、いや、そうしないとできないのが今の日本です。」

と、水穂さんは言った。

「まあ、まあ確かにそうだけどねえ。」

杉ちゃんは、水穂さんをなだめるように言った。

「でもね。やっぱり、世の中を渡り歩くのもそうだけど、希望があったほうが、うまくいくと思うよ。全部が全部、悪いわけじゃないからさ。それに、もしかして、ピアノずっとやってれば、無理解なお年寄りも考えを変えるかもしれないじゃないか。じゃあ、ちょっと聞くが、おじいさんはなんて言って、ピアノを習うのを反対しているんだよ?」

「はい、それはですね。」

と千歳さんは言った。

「ピアノの音が、近所迷惑になってうるさいとか、それで人に迷惑をかけてはいけないとか、そういう事を口にするんです。私は、今のピアノであれば、音を消して演奏することもできるからと言うんですけど、それだってわかろうとしてくれないし。」

「はあ、そうなんだね。だったら、クラヴィコードとか、そういうものを習わせてみたらどうだ?」

なんでも即答してしまうのが杉ちゃんであった。

「あれだったら、ピアノに比べれば音は非常に小さいし、楽器だって、四尺くらいしか無いから、場所を取らないよ。そういうふうに、工夫をすればいろんな楽器があるし、なんとかなるよ。それに、ありふれた楽器じゃないから、もしかしたら、将来に役に立つかもしれないじゃないか。もうな、こういうやつは、普通のやつと同じようにやらせるのなんて無理な話だぜ。普通に生きろとか、そういう事は、諦めちまったほうがいい。だから、水穂さんも、変な事言わないで、こいつに音楽習わせて上げるように持っていってくれよ。」

「そうですが。」

水穂さんは、心配そうに言った。

「それよりも、本当の世の中というか、そういうところを見せて上げたほうが良いと思うんです。」

「まあ、それはそうなんだがな。まだ六歳の子供さんだよ。それに、世の中の汚いところ見せて、そのとおりにさせようというのは、可愛そうじゃないの?それよりも、こいつがどれだけ才能があるか見せてみろ。おい、お前さんさ、そこにあるピアノで一曲なにか弾いてみな?」

杉ちゃんが、そう言って和久子さんに目配せした。和久子さんは、大人が話をしているのにはあまり興味が無いようである。まあ、すべての子が、大人の話に首を突っ込みたがるわけではない。杉ちゃんたちの話を無視して、和久子さんは、水穂さんの部屋に置いてある楽譜をじっと眺めていた。

「何だ、弾いてみたい曲でもあるの?」

杉ちゃんが冗談めかしてそう言うと、

「イタリア協奏曲。」

と和久子さんは言った。水穂さんが、

「わかりました。」

と言って、その楽譜を棚の中から取り出し、弾いてご覧なさいと和久子さんに言った。和久子さんは楽譜を受け取って、ピアノの前にチョコンと座ると、右手のメロディだけであったが、第三楽章を弾き始めた。水穂さんが、左手を付け加えて弾いてあげると、和久子さんはとても楽しそうに、イタリア協奏曲のフレーズを何度も繰り返すのであった。

「一体、イタリア協奏曲をどこで知った?」

杉ちゃんがそう言うと、

「和久子が、学校で開かれた音楽鑑賞会で聞いて覚えてしまったようなのです。」

と、千歳さんが言った。

「わかった。そういうことなら、間違いなくこいつはギフテッドだ。もう普通の子とは切離して考えたほうが良いよ。同時に変な子と思われるかもしれないが、それは、もうしょうがないことだから、諦めることだな。それよりも、和久子さんの事を、しっかり発揮させてあげるほうが良いよ。」

杉ちゃんが、一生懸命イタリア協奏曲を弾いている和久子さんの顔を眺めながら言った。

「もし、おじいさんが反対しても、クラヴィコードとか、チェンバロとかそういうのをやらせてやれ。そうしてやったほうが、絶対こいつの人生はうまくいくから。」

千歳さんは杉ちゃんの言葉を聞いて、まだ迷っている様子であった。多分、家庭不和を気にしているのだろう。

それと同時に、製鉄所の施設内に設置されてあった柱時計が、11時半を鳴らした。

「ああ、もうちょっとでお昼だねえ。お昼の時間まであと30分か。今から作るのもなんか嫌だし、それなら、なんか出前するか。はまじさんも、今更お昼を食べるのも嫌だろう。だったらみんな一緒に食べちまおう。よし、なんか出前でもするか。」

杉ちゃんが、そう言っている間も、和久子さんは楽しそうに、イタリア協奏曲の第三楽章を何回も繰り返すのだった。もしかして、彼女のハイレベルな要求に答えられるのは、水穂さんだけなのかもしれない。

杉ちゃんは、スマートフォンを出して、電話をかけ始めた。こういうものは、文字の読み書きに不自由な杉ちゃんでもかけられるように工夫されている。杉ちゃんも数字は打てなくても電話機のマークをタップすれば連絡が取れることはわかっているようだ。すぐにラーメンを五人分持ってきてくれるようにと頼むことができた。

「それでは、イタリア協奏曲の他の楽章をやってみましょうか?」

水穂さんがそうきくと、和久子さんはにこやかに笑った。水穂さんは楽譜をめくって、第1楽章を弾き始めると和久子さんもそれを真似して弾き始めてしまうのだった。

数分後。

「こんにちは。ラーメン持ってきたよ!」

と言いながら、やってきたのは、ぱくちゃんだった。いつも繁盛していない店だし、製鉄所という支援施設から近くにある店だから、30分程度で着てしまった。

「お、いい感じだね。誰が弾いているのかな?」

とぱくちゃんは、ラーメンを持って四畳半に入ってきた。それに気がついた杉ちゃんたちは、おう、じゃあみんなでラーメン食べるか、と言って、ぱくちゃんに食堂にラーメンを置いてくれと言った。

「それにしても、随分上手じゃないか。バッハ先生の曲をやるなんて、なかなか行けてるよ。」

「おう。学校の勉強は全然だそうだ。なんかちょっと変わった子だけど、ピアノの演奏には、すごい才能があるような気がするんだよ。」

ぱくちゃんの話に杉ちゃんはすぐ答えた。

「そうなんだねえ。イイなあ。日本では何でも自分の好きな曲を習えるなんて幸せじゃないか。僕らのウルムチ市では、ピアノなんて習うどころか、学校にも碌に行かせて貰えないよ。」

ぱくちゃんは、すぐに杉ちゃんに言った。

「そうなの?」

と、和久子さんが第1楽章を弾くのをやめて、すぐにそう言った。

「まあ、イシュメイルさんの出身は、新疆ウイグル自治区ですからね。なかなか思うようにもいきませんよね。」

水穂さんがそう言うと、

「まあね。こっちに来て、ここでラーメン作れるんだから、ほんと幸せだよ。国を捨てなきゃ幸せなになれないなんて、ちょっとどころか、すごく変なところだよねえ。」

ぱくちゃんは、にこやかに笑ってそういうのだった。そして、ラーメンの器をテーブルの上に置いた。みんな、ラーメンを囲ってテーブルに座った。

「わあ、美味しそうなうどん!」

和久子さんは、嬉しそうな顔をして、そういうのだった。そういうふうに、食べ物に向かって嬉しそうな顔をするのはやはり、六歳の小さな子どもだと思った。

「うどんじゃないよ。これは、ウイグルにある特別な麺でラグメンと言うんだよ。それを、漢族が真似してラーメンとして、日本に持ち込んだのが、日本のラーメンの始まり始まり。」

ぱくちゃんが嬉しそうな顔をしてそういうと、

「へえ、それじゃあ、ラーメンを発明したのは、ウイグルなの?」

和久子さんは、ぱくちゃんに聞いた。

「そういうことになるね。」

ぱくちゃんが、にこやかにいうと、

「そうなんだ。じゃあ、ラーメンも、ただの長い麺というわけじゃないんだね。なんか、いろんなものがいろんな手で変えられているんだね。」

と和久子さんは言った。

「学校、楽しいですか?成績は悪いとしても、そういうことが学べるということは、面白いところでもあるのでは?」

水穂さんがそうきくと、

「うん。特に歴史とかそっちが面白い。」

と、和久子さんが言った。

「そういうことを言う割に、テストでは点数が取れなくて、成績は一とか二なんですよ。どうしてそうなのだろうと、学校の先生も不思議がっています。よく発言して、授業を盛り上げてくれるとは言われるんですけど。」

千歳さんの言うことが、和久子さんの症状を語っているのかもしれなかった。確かに、学校の授業は、知識を得るということで、楽しく取り組めることは間違いなかった。だけど、試験はみんな同じ答えを書かなければいけない。和久子さんはそれができないから成績が悪いとされてしまうのだろう。

「まあな、もうそういう事は諦めちまったほうが良いよ。それより、和久子さんの才能を発揮できる場所を探すことと、彼女がこれ以上馬鹿にされないような教育を受けさせること、それが大事だ。それを忘れちゃいかん。親として、目下の急務だぜ。」

杉ちゃんが言う通りにしよう、と千歳さんは思った。いくらお年寄りがやっては行けないとか言っても、和久子さんには安心できる場所があって良いはずだ。それを、親であれば、しっかり保証してあげることが必要だと思った。

「それでは、みんなでラーメン食べようぜ。いただきます!」

杉ちゃんの合図で、みなラーメンを食べ始めた。美味しそうにラーメンを食べている和久子さんを見て、ラーメンを食べられずにチャーハンを食べている水穂さんが、

「結局食べることが一番大事なんですよね。」

と小さな声で呟いた。





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イタリア協奏曲 増田朋美 @masubuchi4996

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