第3話

「おはよう」

「うわ、出た」

「化け物みたいに言うなよ」

 登校してきたばかりの柳田くんは顔をしかめて席に座った。私の後ろの席。振り返れば、そこに彼はいる。

 そう考えただけでもう駄目だった。

 もちろん彼が私の後ろの席に座るのは今日に始まったことじゃない。

 それなのに私の鼓動はどんどん速くなり、うまく息ができなくなる。ただ後ろに座っているだけでそうなのだから、今度また触れられでもしたら大変なことになるだろう。

 私をこんな状態にしてしまうなんて、彼は本当に化け物なのかもしれない。今も私の背中に何か呪いのようなものでもかけてるんじゃないだろうか。振り返れないから確認もできないけど。

 私はあの日から彼の顔がまともに見られていなかった。プリントを渡すときですら俯いてしまい「つむじからプリントを受け取る日が来るとは」と図らずも彼の人生の初めてを貰ってしまったほどだ。

 見たらいけない、と今も全身が警鐘を鳴らしている。そこが生命線だと本能が告げている。

「見たらいけない。見たら終わり」

「化け物みたいに言うなよ」

 背後から不満げな声が聞こえた。それが私に向かっての言葉だと知った途端、耳が熱くなる。

 私は真っ赤になっているであろう両耳を隠すように手で覆った。少しだけ落ち着く。「聞くのもダメなのか」とかすかに聞こえた。

 どうしよう。

 このままじゃ、私が私でいられなくなりそうだ。


***


「杏菜はさ、そもそもなんで彼氏に合わせようとするの?」

「え、だって付き合うってそういうことでしょ?」

「どういうことよ」

「精神的融合とその証明」

「現代アートみたいだな」

 ドン引きしている舞子に「冗談だって」と言うと、彼女は「冗談に聞こえないのよ」とストローを咥えた。今日の彼女の昼休みドリンクはイチゴミルクだ。

「まあ融合は言い過ぎだけど、ある程度相手に合わせるのは必要でしょ? 合わないと続かないし」

「合わせすぎて始まりもしなかったけど」

「泣くよ?」

 私は紅茶オレを吸い込みながら目尻を拭う仕草をする。舞子は「泣きながら水分補給するの効率いいね」と笑った。

 窓の外を見れば桜が花びらを撒いていた。根元は薄っすらと白く色づいていて、その花びらを踏まないようにと歩く女子生徒が見える。

「杏菜って自分から人を好きになったことある?」

「え」

 唐突な彼女の問いかけに、私は言葉に詰まる。

 それだけで舞子はすべてを察したようで「あーやっぱり」と納得したように頷いた。

「やっぱりって」

「だって杏菜さ、いっつもフラれたって嘆いてるくせに相手のこと『好きな人』とか『彼氏』とかじゃなくて『付き合った人』って言ってるし」

「……そういえば」

「ビジネス感がすごいのよ。ま、だから知らないんだろうなあって」

「なにをよ」

 ストローを吸いながら尋ねると舞子は目尻を下げた。彼女にしてはめずらしく中途半端な表情を浮かべる。

「好きな人が変わっちゃうのって結構ショックだよ」

 ずぞ、と不細工な音が響く。

 気付けば手元の紅茶オレは空っぽになっていた。

「……ねえ舞子」

「ん?」

「好きになるってなに?」

「え、うーん……」

 腕を組んで考え込む彼女。それをよそに、私はストローを咥えようとしたとき答えが返ってきた。

「ヤバい、ってなる」

「まったくわからん」

 あまりに抽象的すぎる答えに私がストローにつけようとした口を開いて抗議すると「えー」と舞子は口を尖らせた。文句を言いたいのはこっちだ。

「だからさあ、こう、きゅんきゅんしてドキドキして熱くなって、ひゃーってなって……要するにその人のことが頭から離れなくなってヤバいーってなるわけよ」

「どきどき?」

「そうそう。杏菜はそういう瞬間ないの?」

 

 思い当たる節がひとつだけあった。え、待って。いやあれはそういうんじゃ。

「…………」

「ほほう?」

 いつの間にか考え込んでいた私を覗きこむように舞子が視界に入ってくる。なんだかすごく腹立つ顔をしていた。

「春ですなあ」

「うるさいな」

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