ミルクスタンド

北緒りお

ミルクスタンド

 うっかりフルーツ牛乳を横取りしてしまった経験はあるだろうか?

 僕はある。

 それは、だいたい一年ぐらい前のことだ。

 冬の入り口に近い季節らしく、すっきりとした天気は少なく、薄曇りの日が多かったような記憶がある。

 そのときの僕は朝御飯を食べたくせに物足りなく、なんかほんの少し、を通勤中の駅で視線をあちこちにやりながら探しているときにミルクスタンドが目に留まったのだった。

 ずっと前から存在は知っていたのだけれども、実際にここで買ったことはなく、そこに並んでいる商品も初めて見るようなものばっかりだった。

 瓶入りの牛乳と同じように瓶に入ったフルーツ牛乳、それに瓶入りコーヒー牛乳なんかが並んでいて、ジャムパンやアンパンなんかのちょっとした食べ物もある。コンビニでみるような商品群とは違い、見たことがない銘柄ばっかりだったが、コーヒー牛乳ならばはずれはないだろうと注文をしてみた。

 胸ぐらいまである冷蔵庫に瓶が並んでいる。寿司屋のカウンターで見るような中が見えるガラス張りで、取り出しも寿司屋のように注文を受けた店員さんが取り出して、フタもあけて渡してくれる。とりあえずは目に付いたものを指さして出してもらい、Suicaで支払ってという、滞り一つなく冷えたコーヒー牛乳を手渡してくれる。

 一口飲んで、普段飲んでいる缶コーヒーとは違う甘く角のない味わいに、なにか少し発見したような気になりつつスマホの画面を眺めた。

 まだ会社に到着していないというのにスマホには仕事に関するチャット大量にが着信していて、前の日に承認フローに提出しておいた申請書の差し戻しの通知なかも表示されていた。

 めんどくさいのが戻ってきたという気持ちと、何でこんなことに時間を使わなきゃいけないんだという職場では出せない感情や、それとあわせて、急いでこの承認をもらわないと取引先の支払いに影響がでるんじゃないか、なんてことを考えながらチャットの画面を開いてメッセージを読み込んでいた。

 カウンターの両端にはそこで飲む人向けの小さなテーブルがあり、そこにコーヒー牛乳を置きつつメッセージに目を通していると、テーブルで並んで立っている女性が訝(いぶか)しげにこちらを見ながら

「それ、私のです」

と声をかけてきた。

 とっさに何のことだかわからなく、手にしたのを飲みながら顔をそちらに向けようとしたとき、味が全然違うのに気づいた。よくよく見てみると、自分が買ったコーヒー牛乳はテーブルの上にまだあり、手元を見ないままで飲もうとして他人のを取ってしまったのだった。

 自分がやったことを理解することはすぐにはできたが言葉がとっさに出てこなく「え? あ! ああ」と曖昧な返事をした後、「すいません」と一言添えて、スタンドの店員さんに彼女が買ったのと同じもの、フルーツ味の牛乳を買い直し、なんども「すいません」といいながら、受け取ってもらった。

 それがはじめての出会いだった。

 このホームは彼女にとっては電車から降りて乗り換えるところであり、僕にとっては乗り換えて職場に行く路線に乗り換えるところであり、まるですれ違うかのように交わるのがこのミルクスタンドだった。

 その次の週ぐらいだろうか、コーヒー牛乳を飲みながらスマホの通知を埋め尽くしている仕事の話題を流して見ている。出社したからはじめてみるよりも半歩先に知っておけばいいかと思って読み込んでいるが、年がら年中仕事場にいるような気分になってきていて、正直うんざりし始めているのだった。

 スタンドで買ったコーヒー牛乳は気づいたら指一本分ぐらいのところまで飲んでしまっていて、残りの一口分を一気に流し込もうとした。

 ほんの少し背中を反らせたところで、何かに当たる感触があり、あわててそっちの方を振り返り「ああ、すいません」などと軽いお詫びをして、視線を上に上げると、いつか見た女性がいた。

 幸い手にしていたフルーツ牛乳はこぼれることもなく、なにも実害はなさそうだった。

 間が抜けているもので、こういうときに「ああ、また、すいません」と言ってしまい、彼女はなにやら我慢しているような顔をしている。

 半分笑っているような表情で「またですね」と言われ、こちらも返事のしようがなく「ええ、まあ、すいません」と曖昧な返事をするだけだった。

 それ以来、顔を見ると会釈をする関係になった。

 自分はミルクスタンドのあるホームに入ってくる電車に乗って職場に行く、彼女はこのホームに降りて職場に行く。

 ミルクスタンドで入れ替わるように電車に乗り降りするのだった。

 お互いに示し合わせて乗り換えをしているわけではないし、会えない日もあれば、注文するときにばったりと遭遇することなんかもある。

 たまたま姿が見られれば、なんとなくやんわりとしたうれしいような気持ちがあるし、会えないとしてもそれで悲しいというわけでもなく、それはそれでよいというようなものだった。

 けれども、すれ違うようになってからというもの、ミルクスタンドで飲んでから出社できるように余裕を持って家を出られるように時間を気にするようにはなった。

 半月ぐらい前のこと。

 秋雨というのにはだいぶ違う、バケツをひっくり返したような雨が朝から降っていた日のことだった。

 リモートと出社が交互にある関係で渋々家を出たが、こんな雨になるなんて、と半ば恨み言をいうような気持ちを抱きつつ、いつも通りスタンドに寄り、いくつかあるコーヒー牛乳の中から適当に選んで出してもらう。一口飲もうかと思ったところで後ろから声がした。

「電車、止まってるみたいですよ」

 体裁としては乗り換えのついでに一息ついているという雰囲気を醸し出そうとしていたのにも関わらず、電車のことをさておいてスタンドにたっていたのでは、格好が悪い。

 返事も、いつもと同じように「え、あ、止まってますか」と、少し挙動不審になりながら答えた。

 いつもこのくらいの電車ですね。といわれ、やましいことをしているわけでもないのに妙にどぎまぎしてしまい「ええ、まあ、そうですね」と曖昧な返事をする。

 声をかけてもらってうれしいのだけれども、心の準備が追いついてないな、なんて、中学生の子供みたいなことを思っていた。

 思い切って、こちらから質問を投げてみる。

「よく、この電車を使うんですか?」

 言っておいて後悔した。この電車を使うから、このホームにいるのだし、たびたびすれ違うんだから、違う路線を使ってるってこともないだろう。それに“この電車”ってなんだ? 今さっき発車した電車だけに限定いたようにも聞こえるし、なにやら鳩尾の奥に【残念】の固まりが重く転がり込んできたような気持ちになった。

 「よく使ってるんですよ」と、やわらかなトーンで返事をしてくれた。

 返事をしてもらっただけで、緊張がやんわりとほぐれた気がした。

 彼女からは「コーヒー牛乳好きなんですか?」と聞かれる。

 よくよく考えたら、年がら年中コーヒー牛乳を飲んでいるが、好きというわけでなく、スタンドに張り出しているメニューの中で目に付いたものを端っこから順番に頼んでいるようなもので、かといってコーヒー牛乳をコンプリートしようというわけでもない。

「とりあえず、コーヒー牛乳を片っ端から飲んでみようと思って」と答える。

 これで会話が弾むわけでもないなと思って、またも腹の中に生まれてきた【残念】の固まりが重く腹の奥にもたれ掛かったような気がした。

 マンガ的な表現をするならば、二人が並んで突っ立っている構図の枠の中で、二人の頭の上に大きな「……」が並んでいるんだと思う。

「私、もう少ししたらここで飲めなくなっちゃうんですよ」と彼女が言う。

 会話が続いたというのに驚いたが、それ以上に彼女がここで飲めなくなるとうのは、どういうことだろう。

「え、どうしてですか?」

と、初めて彼女の方をちゃんと向いて話しかけた。

 手にしているフルーツ牛乳は半分ほど残っていて、電車の動向を見ようとでもしているのか線路側を眺める横顔が見えた。

 いままで目にしたことがあるのはほとんどがマスクをつけた顔で、マスクをはずしたのを見るのは始めてみた。

 目元は何となくの記憶はあるのだけれど、鼻から口元ほぼ記憶にない。

 声のトーンとは違い、整った鼻と口元の線の印象は凛とした印象に見えた。

 なにか特別なものがあるという訳でもないが、マスクのない顔というだけで正視しちゃいけないような気になった。

 そんなことよりもこのスタンドで飲めなくなる理由だ。

 彼女が言うには引っ越しで路線が変わるのだという。職場は変わらないのだけれども、出勤前のミルクスタンドでの楽しみがなくなると言う。

 まだ電車は止まっている。

 ホームの線路側は雨があまりにも強く吹きつきてきて、電車を待つのにも濡れないところに移動しようという乗客たちが消極的な意志でホームを移動している。

 いつもならば盛況になることがないこのミルクスタンドも、いくらかの客がきていて静かににぎわっていた。

 いつ動くかわからない電車を待つのに、ちょっとの飲み物とジャムパンなんかの簡単な食べ物がちょうどよく、気づいたスーツたちが注文している。

 ここで牛乳なんかを飲んでいるのは早く電車が動かないかと考えているのだろうが、僕はこのまま動かないでいてくれればいいと思っていた。

 彼女に恋心があるのでも、少しででも親しくなろうとか、そんなところまでもいかないが、朝や夕方にすれ違うだけのほんの少しの安らぎが消えてしまう。何かしたいけれどもなにもできない、

 出勤の日はほぼ確実にこのスタンドに寄っているのも、すこしの弛緩の時間が気持ちいいからで、彼女がいてくれたからこそ、その時間があったのだと思う。

 雨は強いままだ。

 駅のアナウンスが騒がしく運転再開までの見込みを流している。

 改めて、彼女との間に何の関係もないけれども、ただ、このスタンドですれ違うという間柄で、それ以上のことも望んでいない。と、思う。

 それでも、会えなくなるということに何か感じるのだから、ほんの少しの特別を感じているのだと思う。

「それは残念ですね」と返すのがやっとだった。

「そうなんですよ」と、軽いトーンで返事をしてくれた。

「そうですか」というのがやっとだったが、本当は何かもっと言いたいような気持ちもあった。

 彼女は、残り少なくなったフルーツ牛乳を静かに流し込む。

「それじゃ、いきますね」と、マスクをつけなおしながら軽くほほえんだような気がした。

 それっきり、彼女に会うことはなかったが、あの最後の表情はずっと気持ちの奥に残っているのだった。


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