第五章 わたしが勇者でも魔王でもなくても

 もう暗いし家まで送ろうか、というわたしの申し出をシヨちゃんは丁重に断ったため、わたしは一人で家路についた。

 時計は既に八時を回っていたが、ハリスさんは食事もとらずにわたしの帰りを待っていてくれた。ハリスさんだけではない。

「いろは!かえってきた!」

「もどってきた!ふぁふ、べんきょうぶそく」

「……どっちもあってる、とおもう」

「待っていていくれたのね!ありがとう!!!」

 思わず、駆け寄ってくる竜たちを抱きしめた。

「お疲れ様。その様子だと、うまくは行かなかったみたいだな」

 ハリスさんはフロアに食事用のテーブルを運びこみ自分とわたしの分のスープを準備すると、竜たちのごはん皿に干し肉を盛り着けた。

 がつがつと干し肉をたいらげていく竜たちを見ながら、わたしはスープを一口すすった。ベーコンの塩味と野菜の旨みが、わたしの胃と心に染みていく。

「今回はダメでした。でも、絶対、助けて見せます」

「ああ。明日、ジュケイヌが来たら報告しよう。何か、情報を得ることができるかもしれない」

 その日は早めに休んだ。歩き疲れていたせいか、身体は眠りを求めていたが、あの竜のことが忘れられない脳が、それをなかなか許さなかった。灯りをつけて、ベッドに座りなおす。

 時計はもう十一時を廻っていた。深くため息をつくと、わたしは頭を抱え込む。

 おかしい。異世界に来た人間は、何か特別な力を授かるんじゃなかったっけ?

 どうして、自分には何も無い?

 実を言うと、異世界に来た以上、自分にも超常的な力が与えられるのではと、わたしは内心期待していた。竜たちともすぐに打ち解けたので、ひょっとしたら、自分には竜と仲良くなれる力が付与されているのではと思っていた。

 その淡い期待と思い込みを、今夜、完全に打ち砕かれた。

 普通の異世界転生者なら、今頃、何かしらの力を使って竜たちを手なずけ、街の人たちからの称賛を一身に受けながら、毎日楽しく生活しているはずだ。

 だが、自分ときたら、どうだ。

 未だ街の人たちとも仲良くなれず、迷子の竜をみすみす取り逃がした。

 わたしには、何の力もない。

ただの、止来いろはだ。

 ぽたぽたと大きな雫が両目から零れ落ちる。肩を抱きながら、声と涙を押し殺したわたしの耳に、ドアをノックする音がした。

「いいかな?いろは君」

 ハリスさんだ。

 慌てて両目をゴシゴシとこすり、鏡を見て涙の痕跡がある程度は消えたのを確認して、わたしはドアを開けた。

「寝る前に熱い湯を浴びようと思ったら、君の部屋から泣き声が聞こえてね。大丈夫かい?」

 仕事着のままのハリスさんが、にっこりとほほ笑む。

「すいません。そんなに大声で泣いていたなんて、気が付きませんでした」

「いやいや。旅人という職業上、物音や雰囲気には敏感なんだよ。ちょっといいかい?話をしよう」

 ハリスさんはわたしをベッドに座らせ、自分もその隣に座る。

「逃げてしまった子竜の件は残念だったね。でも、大丈夫だよ。きっと、見つかる」

 ハリスさんの優しい笑顔に、わたしが押し留めていた言葉が、とうとう口から出てきた。

「どうして、わたしはこんなに無力なんでしょうね?ハリスさんみたいに賢くて、ジュケイヌみたいに強ければ……こんなことにはならなかったはずです。竜も保護できなかったし、街の人とも仲良くなれない。もし、わたしに特別な力さえあれば……。わたしが勇者や魔王だったら……」

 ふと、ハリスさんの手が伸びたかと思うと、わたしはハリスさんの胸の中に抱き寄せられていた。柔らかくて、温かいハリスさんの身体に、わたしの全てが包み込まれる。

「特別な力など無くてもいいし、特別な存在になる必要も無い。いろは君は、今のままでいいんだよ」

 ハリスさんの優しい声が、わたしの全身に響き渡り、染み込んでいく。

「確か、君は猫を保護したり、共に生活してきたと言っていたね。じゃあ、その中で、今日みたいに猫を保護することに失敗した時はあったかい?猫と心を通わせることができなかった時は?」

「……あります」

 そう。猫たちを保護できず見失った経験もあるし、店の中にいた猫の中にも心の壁を崩すことができなかった子がいる。

 思い出すだけで、辛い気持ちになる。

「でも、君はそれに挫けることなく、ずっと猫たちのためにがんばってきたんだろう?特別な力に頼ることよりも、そちらの方がずっと凄いことで、大切なことなんだ。特別な何かになるまでも無く、君は今のままでも十分立派な女性なんだよ」

 感情と涙を抑えきれなくなり、ハリスさんに抱きしめられたまま、わたしはひたすら涙を流し続けた。


「黒い竜、ですか。 なるほど。わたくしも捜索してみます」

 今日も竜たちと盛大に遊びながら、ジュケイヌはそう答えた。相変わらず、見事な体捌きである。まったく、ダメージを負っていない。

 昨日、ハリスさんに慰められて、幾分か気分も持ち直した。

 店じまいをしたら探しに出かけていくか。

 わたしがそう思い始めた時、カフェの扉が開いた。

「ご令嬢……!こちらに!ご報告がございます!ん……?」

 勢いよく入ってきた中年の騎士が、わたしたちを見つけて不審な目を浮かべている。

 おそらく、スール家に仕えている騎士だろう。

「かまいませぬ。この場にて報告を」

 ちらちらと私たちに視線を向けながら、騎士は令嬢の前にひざまずいた。

「申し上げます。じ、実は!ギエユーヴ大公への献上品である『女神の猟犬』が脱走しました!スール候には既に報告済みでございます!先ほど、城内にも戒厳令が公布されました。ジュケイヌ様もお早くお戻りを!」

 女神の猟犬?物騒な名前だ。ジュケイヌの顔色が変わったことからも、事態が深刻かつ切迫していることわかる。

「了解いたしました。急ぎ戻ると父上にお伝えなさい」

「しからば、御免!」

 入ってきた時の倍のスピードで騎士が退出する。やりとりを見ているだけで、こちらの緊張も高まってきた。

「かつて、竜を狩る際に使われていたといわれている女神の猟犬……実在していたのか。もうとっくに絶滅したものかと」

 ハリスさんが訝しげに顎をさする。

 竜を、狩る?

「竜が姿を消したのが三百年前だとされています。その前後に女神の猟犬も絶滅したといわれていましたが……。先日、無名の小島で一個体が発見されたという報道がありました。直後に、世に武名をとどろかせるギエユーヴ大公が是非ともその犬を我がもとに、と。捕獲は無事に完了し、睡眠薬で眠らせ大公領に搬送する予定だったのですが……」

 経由地のイーマで起きちゃったのか。

 しかし、わんちゃん一匹でずいぶん大騒ぎをするものだ。まあ、市民の安全を考えるのなら、それも致し方ないのかもしれないけれど。

「ともかく、わたくしは今すぐ戻らなければ……いいえ」

 てきぱきと帰り支度をしていたジュケイヌが、ぴたりと動きを止めた。

「居城に帰る手間が省けましたわね」

 ジュケイヌの言葉が終わらぬうちに、カフェの外から悲鳴が木霊した。

「打って出ます。いろは、ハリス、固く扉を閉め、決して外には出ないように」

 それだけ言い残すと、ジュケイヌは風のように店外に飛び出していった。慌ててカフェの右側の窓に近寄り、外を窺う。

 おい。

 猟犬だよね?

 犬って言ったよね?

 何処がわんちゃんなのよ!?

 窓の外には馬ほどの大きさをした黒色の四足獣が悠々と歩いている。

 確かに、犬に見えなくもないが、その顔の鼻は低く、耳は極めて小さい。四肢は長く、筋骨隆々、尾は無い。まるで、顔はパグとドーベルマンのミックス犬がグロテスクに巨大化したかのようだ。しかも、怖ろしいのはその眼と口である。めらめらと、青白い鬼火のような炎が揺らいでいる。昼間でも確認できるくらいだから、夜に見たら巨大な火の玉のように見えるはずだ。これではまるで、女神の猟犬というより、冥王の猟犬だ。

 その巨大な怪物の前に、金髪をなびかせながらジュケイヌが相対する。

 白いドレスに身を包み悠然と歩くその姿は、まるでこれからパーティにでも行くかのようだ。猟犬は自分に向かってくる小さな少女を獲物として認識したのだろう。前足で石畳を何度も削り、臨戦態勢に入っている。

 ジュケイヌと猟犬の周囲には、逃げ遅れた市民たちと彼らを護衛する騎士たちがたむろっていた。皆、これから始まる戦いを、固唾を呑んで見守っている。

「女神の猟犬、というのなら、そなたは女神に従うのであろう?」

 猟犬の荒々しい鼻息を、ジュケイヌの高らかな声がかき消した。

「ならば、わたくしに従いなさい」

 その言葉を待っていたかのように、猟犬が跳躍した。宣戦布告と受けとったらしい。

 思わず息を呑んだが、猟犬の大顎の中からジュケイヌの悲鳴と鮮血が漏れ出ることはなかった。

 外した。いや、顔色一つ変えることなく、ジュケイヌがかわした。

 巨犬はまるで暴風の如く、牙を向け、身体を当てようとするが、ジュケイヌは態勢を殆ど変えることなく、軽くあしらっている。その様子は竜たちと遊んでいる時と、全く変わらない。ドレスをひるがえしながらかわしていく姿は、ダンスの練習でもしているかのようだ。

 最初は余裕綽々だった猟犬も、一向に攻撃が当たらないことに苛立ち始めたらしい。目と口からあふれ出る鬼火が業火のように燃え盛っている。やがて、猟犬は激しく一声鳴いたかと思うと、視線をジュケイヌに集めたまま、大きく後ずさりし身体を低く構えた。次の一撃で決めるつもりらしい。

 一方のジュケイヌは全く動じず、何時もと同じように正面を向いたまま立っている。

 やがて、市内全域に響き渡るような遠吠えを放ち、黒い獣がジュケイヌに猛進した。

 ジュケイヌはかわすでもなく、棒立ちのままだ。

 うそ。

 危ない!!!

 思わず、両手で目を覆いそうになった時だった。

 ジュケイヌは猟犬の大顎をかわしつつ、身体を猟犬の左側面に入り込ませたかと思うと、勢いをつけたまま、右肩を猟犬の左側頭部にぶち当てた。

 地震が起きたかのような重い衝撃音と共に、猟犬は弾け飛び、石畳に崩れ落ちる。しかし、ジュケイヌの動きは止まらない。一切、身体の姿勢を崩すことなく、疾風のように猟犬の傍らに廻ったかと思うと、雪のように白く細い腕を猟犬の首に巻きつけ、一気に締め上げた。流れるようなコンビネーションだ。猟犬の眼と口から悲鳴と火柱がほとばしる。

「七秒さしあげます。その間に、女神の腕と胸の柔らかさを存分に堪能なさい!」

 どっと、市民と騎士たちが歓声を上げる。勝利を確信したようだ。

 金剛令嬢、恐るべし。

 わたしもほっと胸をなでおろした、その時だった。

 鋭い悲鳴が、歓声を真っ二つに切りさいた。悲鳴が上がったのは、ジュケイヌと巨犬が戦っている通りとは真向いにある道だ。カフェからは左手側になる。

 左側の窓の向こうに、もう一頭の猟犬がいた。

 一頭だけじゃなかったのか?

 二頭目の猟犬はこちら側には、一切目もくれず、路上の何かをずっと見つめている。

 誰かが、いる。

「ダメだ!いろは君!」

 ハリスさんの言葉が響いたのは、すでにわたしが路上に出た後だった。

「シヨちゃん!!!」

 わたしの口から悲鳴が飛び出た。

 わたしと猟犬の視線の先には、シヨちゃんがうずくまっていた。

 がちがちと大きく震えていることが、遠目にもわかる。

 ジュケイヌに何とかしてもらう……いいや。

 間に合わない。

 そう、思った瞬間。

「やめろおおおおおおおおおおおおお!!!」

 絶叫しながら、わたしの足は既に走り出していた。

 一瞬、魔犬がこちらに気を取られた隙を見計らって、そのまま滑り込み、シヨちゃんを抱き寄せる。

 激しく震えるシヨちゃんの身体と心を、わたしは強く抱きしめながら、魔獣に向き合った。

「食べるんなら、わたしを先に喰いなさいよ!」

 私の叫びに、猟犬が大口を開ける。

 蒼い炎が、立ち上った。

 横目でジュケイヌとハリスさんが駆け寄ってくるのが見える。

 これで大丈夫だ。

 わたしが喰われている間に、二人が追いついてくれるはず。

 わたしは死ぬが、シヨちゃんは助かるだろう。

 これでいい。

 後は、お願い。

 両目から溢れた涙と一緒に、わたしの頭が猟犬の口の中に消えそうになった時だった。

 猟犬が左側に大きく吹き飛ばされた。

 凄まじい風圧が、わたしの涙すら吹き飛ばす。

 もんどりうってのたうちまわる猟犬の前に、小さな、黒い生きものが、こちらに背を向けてちょこんと座っている。

「あ……」

 シヨちゃんが軽く、声を上げた。

 あの子だ。

 わたしたちが探していた、黒い子竜。

 この子が、体当たりで猟犬を吹っ飛ばしてくれたのだろう。

 強烈な一撃を喰らい、頭を振りながら立ち上がろうとした猟犬の身体を、今度は三色の風が貫いた。

「いろは、いじめるな!やっちまえー!」

「こんなやろう、ぼこぼこにして、つぶしてしまえ!ふぁふはらんぼう!」

「……こあのほうが、ひどいとおもう」

 ファフ、コア、ヨル。

 赤、白、青のトリコロールが、黒い魔獣に全力突撃していく。

サンドバックのように竜たちの連続突撃を喰らいまくった猟犬は二秒と持たず、子犬のような虚しい悲鳴を上げて崩れ落ちた。

「なんだー!もう、おわりかー!たてー!」

「まだ、なぐりたりねーぞ!たてよ、こら!ふぁふはぼうりょうてき!」

「……こあのほうが、やばいとおもう」

 三頭のやりとりを見ていて、おもわず、笑い声が出てしまった。

 ハリスさんとジュケイヌはわたしたちの無事を確認した後、猟犬の方に向かい、様子を確認している。二人の落ち着いた表情を見るに、猟犬は完全にリタイヤしているようだ。

 わたしの腕の中の感触が柔らかくなっていく。

 シヨちゃんも、ようやく安心したらしい。

「ありがとう。お姉さん」

「わたしは大丈夫。それよりも、お礼はあの子に言って」

 わたしたちの前に、黒い子竜が顔を背けて座っている。

「助けてくれて、ありがとう」

 シヨちゃんが声をかけると、子竜は顔を背けたまま、視線だけこちらに返した。

「けが」

 ぽつり、と子竜がつぶやいた。

「けがさせて、ごめん」

 そう謝ると、子竜がわずかに俯く。

「そんなこと、いいよ。あたしを助けてくれたんでしょう?」

 立ち上がったシヨちゃんが、子竜の方に歩み寄っていく。また逃げるかと思ったが、今度は逃げる様子はない。

「あたし、あなたと仲良くなりたいな」

 シヨちゃんはゆっくりと子竜の頭に手を伸ばし、子竜の頭を優しくなでた。

 どうやら、二人は友人になれたようだ。

 ふと、わたしは周りに人だかりができていることに気がついた。

 わたしたちのことを、みんな、じっと眺めている。

 ひょっとしたら竜たちの戦いの所為で彼らを怖がらせてしまったのだろうか。

 思わず、身を固くしたわたしの耳に。

 ぱちぱちぱち。

 最初は所々から、次第に大きく、最後は集まった全員が拍手をしていた。

「よくやったな!たいしたもんだ!」

「怪我はない?大丈夫?立てますか?」

「竜ってのは可愛いもんだねえ!」

 温かい言葉が次々と投げかけられ、我知らず、私は赤面してしまった。

 どうやら、ようやく町の人たちに受け入れてもらえたようだ。

「お集まりの皆さん!」

 真っ赤になったわたしと周りを囲む人たちに、朗々とした声が届いた。

 ファフ、コア、ヨルを従えたハリスさんが、見たことがないような満面の笑みでこちらに歩いてくる。

「私はハリス・エグザイルズと申します。そして、そちらの黒い竜の傍らにいるのが、私の共同経営者、止来いろはです。我々はこの子竜たちと一緒にカフェを経営しております。店の名は……」

 カンヘル!!!

 わたしたちの間を通り過ぎ、カフェの扉の前で軽やかにターンしてこちらに向き直ったハリスさんが、高らかに叫んだ。なんだか舞台の一場面でも観ているかのようだが、ハリスさんの言動はその一つ一つが堂に入っている。実際、市民の皆さんの視線はハリスさんにくぎ付けだ。所々から、感嘆の声も聞こえてくる。

「先ほど市中を騒がせた魔獣を倒した頼もしくも愛らしい子竜たち。彼らが美味しいお茶とお菓子と一緒にあなた方をお待ちしております。子竜と思う存分戯れるもよし、お茶を楽しみながら眺めるもよし。お気に召すまま、思うまま、竜たちとの時間をお楽しみください!心より、お待ち申し上げます!」

 仰々しい動作で一礼したハリスさんに、割れんばかりの拍手と歓声が上がった。

 正直、マジで恥ずかしい。わたしの顔の赤さが、より熱をましたことがわかる。

 だが、営業活動としては申し分ない。これで、少しはお客が来てくれるようになるだろう。

「一応、これでいったん手打ちですわね」

 騎士たちに後片付けの指示を出し終えたジュケイヌが、ようやくわたしたちと合流した。

 いったん、という言葉が少しひっかかるが、身体も頭も疲労がたまりすぎて、そこまで行きつかない。はやくお風呂に入ってベッドに飛び込みたい気持ちにかられるが、わたしにはもうひとつ、重要な仕事が残っている。

「ねえ、黒い子竜さん」

 わたしはシヨちゃんの傍らにずっと寄り添っている子竜の隣に膝をつけた。

「わたしのお店で暮らさない?」

 シヨちゃんの顔が、ぱっと明るくなった。

「あたしからも、お願い。竜さん、お姉ちゃんといっしょにいて」

 子竜は、しばらく無言で目を閉じていたが、ぽつりと、静かに答えた。

「……いいよ。わかった。よろしく」


「というわけで、新しい子がやってきました!名前はティアです!みんな、仲良くね!」

「てぃあ!おもだちか!」

「ともだち!ふぁふはらんざつ」

「……よろしく。ごはん、たべる?」

 竜たちのそれぞれのあいさつに、ティアはぺこりと頭を下げて答えた。

 あたりはすっかり夜になり、昼間の喧騒が嘘みたいに静けさを取り戻している。

 一階のフロアで、わたし、ハリスさん、そして竜たちは輪になって座りながら、ティアの歓迎会を行っていた。竜たちには特上の干し肉と新鮮な果物を御馳走し、わたしとハリスさんは、ハリスさんお手製の羊肉のローストを味わっている。ハリスさんが何処からか調達してきたワイン付きだ。こんなに美味しいディナーはこちらに来て初めてかもしれない。

 わたしもハリスさんもお風呂で汗を流した所為か、いくらか心身の疲れを落とせた感じだ。やはり、風呂は偉大である。そこに上質なワインの酔いも手伝って、わたしは至極、ご機嫌だ。

「それにしても、ハリスさん。演技、とっても上手でしたね。びっくりしました」

「昔、役者をしていたことがある。その経験が役に立った」

 どうりで演技に後光がさしていたわけだ。なんでもやってるんだな、この人。料理だって上手だし。

「私のことはともかく、いろは君の勇気と行動力には驚かされた。君はりっぱな女性だ」

「そ、そんな。ハリスさんと比べたら、わたしなんて」

 あまりに普通だ。

「昨日も言った通り、わたしはただのカフェの店員です。猫と仲良しだっただけの」

「だから、それがすごいんだよ」

「え?」

「特別な力など無くても、君は竜たちと一緒に街の人たちを救った。よくやったな、いろは君」

「すげーよ!いろは!」

「りっぱです!いろは!ふぁふはざつ」

「……よかったね、いろは」

「しよをたすけてくれて、ありがとう。あなたは、すごいよ」

 やばい。泣きそうだ。ていうか、もう泣いてる。

「いろは、ないてるのかー?」

「なかないで、いろは。ふぁふはきをつかえ」

「……どこか、いたいの?」

「かなしくてないてるんじゃ、ないみたいだよ」

 そう。ティアのいうとおりだ。

「人間はね。嬉しくても泣くの。ありがとう。あなたたちと出会えてほんとうによかった」

 わたしは勇者でも、魔王でもない。伝説の武器も、魔法も使えない。

 でも、わたしは街の人たちを、そして、ティアを救うことができたんだ。

 涙を流すわたしの肩を、ハリスさんが優しく抱き留める。

「これからはたくさんの人たちと出会うようになるだろうな。さて。どうする?君も疲れているだろう?明日は臨時休業にするかい?」 

 わたしは首を横に振った。

「いいえ。明日もお店を開けます。どうしても、最初にお出迎えしたいお客さんがいるんです」


 翌朝。

 わたしはいつも通りの時間に起き、支度をすませ、開店の準備を整えた。

 ハリスさんも竜たちも、昨日の疲れなど無かったかのように元気に動き回っている。

 午前十時。

 店が開く時間だ。

 時計の針が十時の場所から動くか動かないかうちに。

 からん。

 お店の扉を開ける音がした。

 おさげ髪の可愛い女の子が、こちらに顔を覗かせている。

「いらっしゃい、シヨちゃん!カンヘルへようこそ!」

 さあ。

 今度こそ。

 新しい世界の始まりだ。

 胸を高鳴らせながら、わたしは笑顔でシヨちゃんを迎え入れた。


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