第一章 わたしの友だち
いつの間にか、朝が来ていたことがわかった。
目を閉じていても、わかる。
ひたいにあたる日差しの暖かさ。ほほを撫でる風の柔らかさ。
既に、嵐は去ってしまったようだ。
疲労のために両目をあけることもかなわない。まず、脳が正常かどうか、動作確認をしようと思う。
わたしは
神奈川県横浜市の某所にある、保護猫カフェ「シルクハウス」の店員。
大学時代に動物ボランティアと出会い、卒業後に「シルクハウス」に入社。一年が経ち、仕事へのやりがいと充実感を実感できるようになったと思った矢先、昨夜のアクシデントに見舞われた。
目を閉じたまま、昨晩のことを思い出す。
急速に発達した台風十二号が関東地方に接近。わたしが働いているお店がある横浜にも被害の恐れが予想された。あいにく、店長が他県に出かけていたので、わたしが戸締りと猫たちの対策を済ませ、帰宅しようとした時、店の電話が鳴った。
商店街の片隅に子猫が取り残されている。
仲間のボランティアからの連絡だった。
横浜が暴風域に入るのは午後七時ごろ。電話が来たのは午後四時半。
なんとかギリで間に合う。
勢いを増した風の中を裂くようにスクーターを走らせ、わたしは商店街へと向かった。
到着した時には子猫はボランティア仲間に保護されていた。
近づく台風を感じていたのだろう。身体をぶるぶる震わせながらか細い声で鳴き続けていた。怯え竦んでいたためか、さして抵抗されることなく子猫をケージに収納し、わたしは再びお店への帰路を急いだ。風の強さは増すばかり。おそらく、強風域にはいりかけていたはずだ。
なんとか店に戻ると、わたしは新規のケージに子猫を移し、水とエサを準備した。本当は夜通し傍にいてあげたかったけど、自宅の台風対策をする必要があった。新しくやってきた子猫を含め、お店の猫たち一匹ずつに再度声掛けをし、わたしはお店の扉を厳重に戸締りした
さあ、これで家に帰れる。
わたしがスクーターに手をかけようとした時だった。
身体が、舞った。
みるみるうちに、スクーターが、いや、地上が遠くなる。
おそらく、台風がもたらした暴風だろう。
だが、わたしは何か巨大なものにくわえられ、連れ去られたような錯覚を覚えた。
思わず目を閉じたのと同時に、わたしの身体は中空で静止したかと思うと、一気に落下をしはじめた。当たり前だが、もはや目を開ける勇気は無い。身体全身で空気と重力の圧を感じながら、わたしは地面に叩きつけられるその時を待ち続けた。
そして。
わたしの意識は途切れた。
ひょっとしたら、激突の痛みで気を失ったのかもしれない。
それどころか、死んでしまったのかもしれない。
あの嵐の夜が嘘だったみたいに、わたしの身体と周囲の状況は穏やかだ。
そう。きっとここは、天国か極楽に違いない。
地獄だったらもっと熱くて痛い目にあっているはずだ。
わたしが眠っている間に、少ない期間ではあったものの、わたしが助けてきた猫たちが神様か閻魔様に口添えをしてくれたのだろう。
ありがとう、猫たち。おめでとう、わたし。
わたしはゆっくり目を開ける。
そこには美しい楽園の空が……。
「くるるるるるるるる」
広がっていなかった。
わたしの眼の前にあったのは、トカゲを思わせるような謎の生物の顔だった。
得体のしれない大型の爬虫類が、わたしをしげしげと覗き込んでいる。
これは夢か幻か。
状況が理解できず、わたしは眼を数回、ぱちぱちと瞬きした。
すると、わたしに合わせるかのように、巨大トカゲがぺちぺちと目を開け閉じする。
どうしよう。
明らかに、そこに大きなトカゲがいる。
顔しか見えないが、頭はちょうど猫ほどの大きさだ。想像するに、全身は数メートルに達する違いない。以前、テレビで見たコモドオオトカゲだろうか。すると、わたしは南の楽園コモド島まで飛ばされてしまったということになる。楽園は楽園でも、違う楽園に落ちてしまったようだ。
いや、待てよ。いくらなんでも、そんな遠くに運ばれるわけはない。となると、わたしは動物園に落下したのか?横浜市にコモドドラゴンがいる動物園なんて、あったっけ?
いやいや、待て待て。
此処が何処かなんて、今はどうでもいい。
まず、この状況をどうにかしなければならない。
トカゲはわたしをじっと見つめたまま、微動だにしない。
わたしの経験上、猫であろうとなかろうと、動物は動くものに反応する。
わたしが動けば、まず間違いなく、トカゲも動くだろう。
だが、問題はその反応の結果である。
こちらの動きに対する動物の反応のパターンは、たった二つに分類される。
逃げるか。
襲ってくるか、だ。
逃げてくれるならしめたものだが、襲われるのは勘弁願いたい。この大きな口でやられたら、痛いじゃすまない。大けがとなる。
では、このまま静止したままでやり過ごすか。
だが、動物の中には死肉を漁るものも多い。動かないものは死体と考え、とりあえずガブリとくるパターンが殆どだ。
動くか、否か。
まさに、選択の時だ。
ふと、トカゲと目があった。
私は爬虫類の眼をまじまじと見たことはないから、彼らがどんな眼をしているか、詳しくはわからない。
だが、わたしを覗き込んでいるトカゲの眼は、まるで猫のように愛らしい。
そう思った瞬間、無意識に、わたしの右手が伸びていた。
右手はトカゲのひたいへと達し、まるで猫を撫でるかのように、優しく指を動かす。
ざらざらとした感触が指先から脳髄に達し、わたしの脳内は無意識状態から意識状態へとスイッチが切り替わった。
まずい。
噛みつかれる。
思わず、手を引こうかとした時だった。
「くるーるるるるるるるる」
トカゲはうっすらと目を細め、気持ちよさそうに頭を後ろに反らした。
まるで、猫の反応だ。
とりあえず、しばらく撫で続けてみる。撫でている間は噛みつかれないかもしれないからだ。
ふと、わたしは指先が何か突起物のようなものに当たることに気が付いた。
なんだろう?
わたしは右手の動きを止めることなく、ゆっくりと身体を起こした。
「……え?」
わたしの口から驚きの息が漏れる。
わたしの指先が感じ取っていた違和感。
それはツノだった。
トカゲの頭から二本のツノが生えている。
身を起こしたことで、ようやく、わたしはこの奇妙なトカゲ的生物の全身を認識することができた。
トカゲみたいな顔を見た時は体躯もトカゲのように胴長だと思っていたのだが、胴体は思いの外ずんぐりしている。尻尾の長さは体長と同じほどで、全体の大きさは大人の猫よりちょっと大きいくらい。何より目を引くのは、その背中だ。
折り畳んではいるものの、それは明らかに翼だった。蝙蝠を思わせるような二振りの翼が背中に生えている。逆光でわかりづらかったが、体色は炎のように真っ赤だ。こんな色のトカゲは見たことがない。
「竜……?」
見たままの感想を、私は思わずつぶやいた。
「そうだ。君の言うとおり、竜だよ」
「うわっ!?」
いきなり、背後から飛んできた女性の声にわたしは悲鳴を上げた。
となりのトカゲ風生物もビックリしたのか、びくんと身体を震わせたのが指の感覚からわかった。
「驚いたな。竜を手なずけることができるとは。何より、いきなり竜に触ろうとするなんて、なかなかの胆力じゃないか」
驚くのはこっちだ。今までまったく気配を感じなかった。竜と呼ばれた生物の頭を撫でる手を右手から左手にチェンジしつつ、ドキドキしながらわたしは声の方へと向き直る。
明らかに外国人と思しき女性が其処には立っていた。
身の丈は百七十センチ前後。長く伸ばした灰色の髪。健康的に色がついた肌。大きく怜悧な形をしているものの、何処か子供みたいな光を宿している鳶色の瞳。高く整った鼻と美しく弧を描く唇。
目が覚めるような美女だ。
服装はなんだか古めかしい装いで、一言で言うなら中世のヨーロッパ風である。髪の毛と同じ、灰色のマントで身を包んでいるが、厚ぼったい服の下からは女性的な魅力が溢れんばかりに漂ってくる。朝の光に、女性の左中指がキラリと煌めいた。美しい紅い鉱石が付いた指輪だった。
異様な装束と雰囲気に固まってしまったわたしに、得体のしれない女性がにこやかにほほ笑んだ。顔立ちは大人びているが、笑うと子供みたいな顔になる人だ。
「すまない。驚かせたのは私の方だったな。まあ、竜よりも私の方に驚くなんて、ちょっとがっかりしたけどね」
「す、すいません。あまりに唐突だったもので……あれ?」
「どうかしたか?」
「いや、あの。明らかに異国の方みたいですが、言葉がすんなり通じたもので。日本語、お上手なんですね」
わたしの言葉に、女性は困ったような笑みを返した。
「ニホンゴ?それはいったい何だい?」
「え?日本の言葉ですけど……」
「ニホン……」
「え、ええ。日本という国です。日本国の言語」
説明していて頭がゲシュタルト崩壊寸前になった。禅問答か?日本語をしゃべっているのに日本がわからない?そんなわけが……。
「私は旅人でこの世界のほとんどの国を廻ったが……ニホンという国は聞いたことがないよ。それに君が喋っているのは共通語のアルド語じゃないか。君のような人種はあまり本土では見かけないが、ずいぶん上手にアルド語を話せるようだ」
あ、あるど?
なにそれ?
「きるるるるるるるる」
わたしの脳細胞が完全にフリーズした所為か、わたしの手まで止まってしまった。
竜と思しき生物がもっと撫でろと目と鳴き声で催促している。
頭の動きは止めたままで、わたしは再び左手を動かし竜の頭を撫で始めた。
「それにしても、人種はもちろんのこと、見たことがない服装だな。随分と軽装だ。それがニホンという場所の伝統衣装なのかね?」
わたしの服装はカジュアルな半袖シャツとデニムである。伝統衣装どころかバリバリの洋服だが、そもそも日本がわからない人に日本の衣装を説明しても意味がない。和服にはたいへん申し訳ないが、わたしはぶんぶんと首を縦に振った。
わたしの衣装はともかくとして、まずはわたしの疑問点を解消させてもらいたい。
「あの……。わたしが撫でてるこの生物を竜だと言いましたけど、本当なんですか?」
「ああ。まだ子供だが、間違いなく竜だ。子竜だな。実は子供の竜が古代遺跡をうろついているという報告があってね」
遺跡……。確かに、周囲を見渡したところ、わたしたちは石造りの舞台のような場所で会話をしている。ここが、その遺跡なのか。
待て。
竜。
意味不明な登場人物。
ゲームやアニメの中のような、不可解な世界観。
これって、あの異世界とかいうやつだろうか。
学生の時に深夜アニメで視たことがある。主人公が現代日本から別の世界に飛ばされて、何だか知らないが凄い力でその世界を救うという話が殆どだったはずだ。ということは、わたしもこの異世界で無敵の能力が付与されて……いるようには、とうてい見えない。
何処からどう見ても、元いた世界の止来いろはのままだ。
「きろろろろろろろろ」
ごめん、ごめん。指が止まってた。今から撫でるから……うん?
今の鳴き声、ちょっと違ってなかったか?
しかも、声がしたのは右側から……。ということは、まさか。
おそるおそる右手の方を見ると、やっぱり、いた。
もう一匹の竜だ。
こちらは体格が少々小ぶりで、色も白い。
やっぱり猫みたいな目をしていて、こちらも撫でろと目で訴えかけている。
こうなっては仕方がない。両手持ちならぬ、両手撫でである。
わたしの様子がよっぽど可笑しかったのか、女性がけらけらと笑い始めた。
「ずいぶん好かれたなあ。一度に三匹とは」
さ、三匹!?いったい何処に?
わたしの表情から心中の驚きを悟ったのだろう。女性がすっとわたしの背後を指さした。
両手を使いながら振り返るのは文字通り骨が折れるが、なんとか身体をひねって後方へと振り返る。
いた。
わたしの背後にもう一匹、青色の子が座っている。こちらは赤い子よりも身体が一回り大きいものの、翼は小さめで尻尾は長め。近づく様子はなく、じっとりとした目でこちらを眺めている。わたしと目が合うと目をそらすが、しばらくすると、チラリと視線でこちらを窺う。こちらも、ほぼ猫みたいな習性だ。
「目撃例は三個体。全て、この場に集結したな。おかげで手間が省けるかもしれない」
「手間……ですか?」
「ああ。私は子竜の調査の依頼を受けてこの遺跡にやって来たが、場合によっては討伐されたしという要請も受けている」
「討伐!?」
わたしの声に、傍らの竜がびくんと背中を震わせた。
「討伐って、殺すという意味ですか!?」
「そうだ」
事も無げに、美しい顔でさらりと怖ろしいことを言ってのけた。
「どうしてですか!?こんなに可愛いくて人懐っこいのに!」
「まだ子竜だが、成長して大型化すると、当然のことながら人間にとって脅威となる。成長した竜はブレスを吐き、知恵を付け、鱗も厚くなり、魔法すら使う。無敵の生物へと成長するんだ。手を打つなら、今しかない」
「ダメです!!!」
思いの外、大きな声がわたしの口から飛び出した。
「まだ子供じゃないですか!大人になって悪さをするとは限りません!良い竜だっているはずです!」
「確かに、伝承によっては人間の味方をした竜もいる。だが、その大半は人間にとって畏ろしい敵となった。いずれ訪れる災厄を、未然に消すことは悪いことではないだろう」
何時抜いたのか、女性の右手には剣が握られていた。そもそも、剣を携えていたことすら気づかなかった。眩しい朝の光を銀色の刀身が冷たく照り返している。
「巨竜の討伐は一国の総軍すら必要とする。だが、まだ鱗も柔らかく、思い通りにブレスも出せない子竜なら倒すのはたやすい。私一人でも十分だ」
「……ます」
「?」
「わたしが育てます!!!」
今まで出した大声の中でも最大音量の叫び声を上げ、わたしは両手を大きく広げて、女性の前に立ちはだかった。
「この子たちはわたしが責任をもって保護し、預かります!人間と仲良く暮らせるよう、わたしが育てあげます!!!」
風が止み、草木は音を立てるのをやめ、周囲に静寂が満ちる。
聞こえてくるのはわたしの荒い吐息、そして、竜たちの喉を鳴らす声だけだ。
わたしの左足には赤い子竜、右足には白い子竜、足の間には知らないうちに近づいていた青い子竜がべったりと身を寄せている。
かちゃり。
女性の右手から軽い音が上がった。剣を握りしめた音だ。
「育てる、と言ったな。では問おう。君は今まで竜を育てたことがあるのか?」
「ありません。でも、猫たちといっしょに暮らしてきました」
「猫?」
女性の形のいい両眉がくしゃりと歪む。
「猫は竜とは違う」
「人間だって……」
「なに?」
「人間だって猫とは違います!でも!人間と猫は仲良くなれました!だったら……!」
人間と竜とだって、お友だちになれるはずです!!!
言い切った。言いたいことを、全て言えた。
わたしはゆっくりと腰を下ろし、竜たちを抱き寄せた。
「くるるるるるるるる」
「きるるるるるるるる」
「けるるるるるるるる」
三匹の子竜たちの鳴き声を胸の中で感じながら、しっかりと抱きしめる。
がちゃり。
荒々しい金属音が女性の右手から響き、わたしは思わず目を閉じた。
死ぬ?
殺される?
わたしが倒れたら、この子たちはどうなるの?いっしょに殺されちゃうの?
閉じた目から一筋の温かい雫が流れ落ちた時だった。
きん。
静かで、穏やかな、鈴のような音色が響いた。
おそるおそる、瞳を開ける。
涙で淀み、浸水した両目の先で、女性が剣を鞘に収め、ベルトの位置を直していた。
ふう、と軽く溜息をつき、女性が苦々しい笑みを浮かべる。
「わかったよ。討伐はヤメだ。君の勇気と意志に感じ入った。見事だ」
「あ、ありがとうございます」
そう答えながら、力と緊張が抜けたわたしはへなへなと地面に崩れ落ちた。
身の安全を確信し安心したのか、傍らの子竜たちがゴシゴシと頭を擦り付け、気が抜けてタコのようにぐにゃぐにゃになったわたしの身体があちこちに揺れている。
その様子を面白そうに眺めていた女性がわたしに近寄り、右手を差し出した。
「ハリスだ」
「え?」
「ハリス・エグザイルズ。以後、よろしく」
「と、止来いろはといいます。よ、よろしくお願いします」
しどろもどろで名乗りながら、わたしはハリスさんの右手を握り返した。
「いろは、か。良い名だな。響きがいい」
そう言うと、ハリスさんは、あの子供のような笑顔でにっこりとほほ笑んだ。
美女の笑顔が眩しすぎて、わたしは思わず俯いてしまう。
ふと、眼下の竜たちが口をもごもごさせていることに気が付いた。
「くぃるるろろおうあああるうう」
「きううううおおおおうううらら」
「けぃろろろるううらららあああ」
な、何ごとだ?
三匹とも変な鳴き声を上げ始めた。猫とカエルとセミの大合唱に包まれたような気分だ。
くうううぅぅぅぅぅ。
その可笑しな混声合唱団の中にわたしのお腹の音がソプラノとして加わった。
聞かれたのは竜たちとハリスさんだけだが、無意識に顔が真っ赤になる。
「竜を育てる前に、まずは自分の胃を慰めないとな」
ハリスさんが悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
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