第16話 現地調査:ハードモード(1)

 西日が山肌に反射して強く輝くころ、乗合馬車は麓の宿場町へ到着した。


 強盗達は宿場町に配置されている王国の衛兵に突き出された。賞金が掛かった悪党という訳もなく、食い詰め者の犯行のようだった。お陰で金一封なんて景気の良い事もない。

 用心棒として乗り込んでいた二人の荷物は、戦利品として期待できそうだったが、こちらも衛兵に召し上げられていた。詮議されて余罪を洗い出されるのだろう。


 この日の料金だけは迷惑料として割引され、些少ながら返金があった。

 別れ際、難を逃れた中年男性と初老の商人はしきりに礼を述べていたが、その頃にはもうアーヤは宿場町の高札場に走っている。

 初老の商人は苦笑し、


「いや、記者さんと言うのは忙しない仕事なんですなぁ」


「どうも、そのようで」


 シェイマスも追従した。


「あっちこっちと飛んで行って、まるで狙いが定まらない魔法の飛礫つぶてですよ」


「ははは、淑女に使う言葉ではないですな」


 初老の商人は微笑むと、宿場町の奥から伸びる山道に目をやった。


「あのお嬢さんが王国週報さんという事は、昨今いろいろと取沙汰されとる、あの山里へ行くのですかな?」


「ええ……」


 商人が突然、突っ込んだ事を訊いて来たので、シェイマスは悟られぬように身構える。


「まぁ俺は山道の案内なので、詳しい事はなんとも」


「そうですかぁ……なんでもミスリルがあるとか、鉱水の毒で村に人が住めなくなったとか、色々と噂話が聞こえてきましてね。この辺りは行商の道すがら、知らない場所でもなし。少しでも商売につながれば、と考えたわけですが」


「そりゃあ、お耳が早い事で」


「たまたま、ですかねぇ。以前……そう、先の戦争の頃にも、そんな話があったものですから、今回はもしかしたら、とね」


「へ、へぇ……その時は、どんな話だったんです?」


 思わぬ当時の話に、シェイマスは興味を惹かれる。

 初老の商人は茜色の空に目をやり、記憶を掘り返していたが、途中で諦めて首を横に振った。


「……いや、歳ですな、細かなところは曖昧で。神託だ何だと、神殿の人達が大勢でやって来たのは覚えているのですが、いつの間にやら、ぷっつりと沙汰止みになりましてね……」


 いや、昼間は助かりました。

 話を打ち切って商人は頭を下げると、近くの少し値の張りそうな宿に入っていった。

 シェイマスも弾かれたように動き出す。既に夕刻。時間は有限だった。まずは自分たちの宿を探さねば。

 こういう時に手分けが出来れば良かったのだが、まぁ仕方ない。アーヤは先程、話にのぼった通り、日中に鉢合わせした強盗未遂事件をまとめて、王国週報の王都本局へと報告に行っていた。


 街道の各宿場町には魔術による情報伝達網”間の網”が通い、王国週報の配信する”風の声”というニュース放送が定期的に流されている。遠隔地への旅行がまだ気軽でない時代、この放送は人々が離れた土地や王都の流行を知る、数少ない情報源となっていた。

 そして王国週報の支局記者たちは、”間の網”に接触する事で王国内の何処からでも、本局へと情報ニュースを送ることが出来た。


 ”風の声”を放映する機器は高札場などの公共スペースに設置され、政府広報的な側面も持ち合わせている。ここ、山麓の宿場町は、町区の中程をやや外れた場所にある高札場にそれがあった。

 アーヤは高札場をきょろきょろと見渡すと、それの所在を確かめる。


 放送を”間の網”から投影するのは魔術師が水晶に手を加えた魔法の品であり、公共性の高いモニュメントに埋め込まれているのが大抵だ。

 ここの像は額冠を頂いた髭面で、肩掛け式の長衣を身にまとっている。神々の王である光明神の一般的なイメージだった。


『……そういえば、ここにも光明神』


 昨夜のシェイマスとの話を思い出すも、アーヤはひとまず情報の送信を優先する。

 腰の雑嚢ポーチから商売道具である【録音】と【記録】の小杖と、もう一本、【接続】と名付けられている小杖を抜き出す。例によって殆どデザインの変わらない簡素なステッキであるが、【接続】だけは一味違っていた。


 ”間の網”を直接利用するために用いる特別な道具だけあり、柄の木材は磨き上げられ、染み込んだオイルで濡れたように赤い光沢を放っている。いかにも高級感のあるこの小杖を、神像を模した”間の網”の末端機器に近づけ、起動ワードを呟く。それはこれまでの手短な共通語でなく、


「アイ・エース・ディ・エーヌ」


 意味も解らぬ古代語だった。だが解らなくとも、機能はある。すぐに何種類かの高音が聞こえ、続いてそれらが共鳴したように同時に鳴り出し、正直なところ耳障りなくらいに響き始める。

 何度聞いても、これは慣れない。そう思って眉を寄せている間には”間の網”に触れていた。【接続】の小杖の先端にある水晶が淡い光を発している。


 そこに用意した二本の小杖を重ね合わせ、一緒に握り込む。そうすると小杖の中に残る音声と画像が、遠く離れた王都の本局へ送信されてゆく、という寸法だ。


 音声は強盗捕縛の顛末、画像は縛り上げられた強盗たちを映した物だった。こまかな指定は出来ない、送信だけの一方通行だ。だが幾つも狼煙をあげるより、幾人もの魔術師を連絡のためだけに待機させるより、はるかに省力が利く。戦争中の産物だけあり、安全確実に後方に必要な情報を送信出来るこの手段は、参謀やら将軍たちに熱烈に支持されたらしい。


 送信している情報ニュースの種が、本局で評価されて次回の”風の声”に採用されるのかは分からない。食い詰めた冒険者たちが野盗に成り下がる。実はまったくよくある話で、話題性は少なかった。

 農村などで土地を受け継げないあぶれ者たちが都市に流れ、体一つで何とか出来る仕事として冒険者という個人事業主になる。冒険者ギルドという人材派遣業者の差配こそあるが、健康維持、自己研鑽、設備投資、金銭管理、等々、長く仕事を続けて引退後までも考えるとなると、これはもう修行僧のごとき絶え間ない節制が必要だ。

 だがどうしても人間、易きに流れる。


 賭博や色街で日々の稼ぎを蕩尽したり、あぶく銭で身を持ち崩したり。一度崩れたバランスは中々戻らず、底まで崩れ落ちるのは一瞬だ。ベテラン冒険者は口を酸っぱくして忠告するが、迷宮近傍の街ではありふれた話だった。

 もう些末事過ぎて、王都の本局には似たような事件が各支局から送り付けられている事だろう。が、アーヤが仕事をこなしている証にはなった。

 そうだ、あくまで証だ。給金を保証して貰う為のお勤め。


「……こんなやっつけ仕事送りつけて、何してるんだろうなぁ、わたし」


 そんな風に考えてしまうのは、夕日と駆け足のように足元に迫る宵の闇に、ふとアンニュイな気持ちになったからか。

 像の立つ台座の隅に腰かけ、街並みに目を向けながら転送が終わるのを待つ。

 店じまいをする人。家へ急ぐ人。炊事の匂い。夕刻の普通の生活の流れ。それを呆と眺めているのは、そういう普通が嫌で、山里から飛び出してきた跳ねっ返りが一人。


 仕事ひとつで見知らぬ地に出張する根無し草な生活には、まぁ覚悟は出来ていた。だがここのところ、何だかおかしな勢いに流されっ放しじゃないだろうか。

 そういう益体もない考えが浮かぶせいか、脳裏に人の悪い笑みを浮かべたシェイマスと、シルエットに哄笑だけが木霊する”しじまの神”が浮かぶ。


『……このまま地方局で便利使いされてて良いのかしら。王都の本局に突撃して、色んな人に迷惑……もとい、お世話になって、どうにかありついたお仕事だけど……』


 負のスパイラルに陥り掛けたのを、呼び鈴の音に引き戻される。転送が終わった事を告げる魔法の音だった。

 やっつけ気味にまとめた肉薄大捕り物だったが、送ったからには今更ジタバタしても始まらない。いささか不の方向性かも知れないが、腹をくくる。


「……よし!女は度胸ッ!!」


 とコニーが聞いたら嫌な顔をする決まり文句を口にして、膝を叩いて自分を鼓舞し、立ち上がる。すると微妙な顔をしたシェイマスと目が合った。


「……聞いてました?」


「うん、乙女的にはどうかと思うよ、俺は」


「わたし的には良いんです!」


「おぉ……元気良いね」


 思わぬ反応にシェイマスは仰け反り気味に気圧される。

 カラ元気だが、それでも会話していれば気分は上向いてくれた。そういう乙女の機微は察するべくもなく、シェイマスは怪訝そうな顔をしている。と、彼も指程のサイズの小瓶を持ってしきりに振るという奇矯な行動をしていたので、アーヤも結局は首を傾げて訝しむ事になった。


「……あの、何を振っているんです?」


「そこで汲んできた井戸水に、岩妖精ドワーフが鉱山で使う試薬を加えたものだよ。鉄や銅みたいな金属が溶け込んでいると、反応して色がつくんだが……」


 シェイマスは小瓶を日にかざしたが、西日の赤が強すぎて思ったように判別できない。


「反応したら薄っすらと赤紫に染まるんだがね。夕日の中じゃ判らんね。ま、無反応ってことで大丈夫だろ」


「大丈夫じゃないでしょう、それで太鼓判押しちゃ?!」


 アーヤはシェイマスの手首を押さえて、小瓶の水を目を細めて観察した。


「金属が反応するって、ミスリルの溶け込んでいる水が、カナル村から流れ込んでいないか調べているんですよねっ。強い魔力を帯びていて、カナル村の奇病の原因って言われてる……」


「お、鋭いね。確かに鉱毒被害の出る鉱山の水なんてのは、毒々しい赤に染まるもんだが……ま、そんな物は”在る”と解っていて試薬を入れるのだから、詐欺みたいなものだよ」


「詐欺って……そういう目に訴えるのが、一番、理解されるんじゃないですか?」


「視覚情報だけなら、今のように夕暮れの中で瓶を見せてやれば良い」

 そう言ってシェイマスが小瓶を西日の光に照らすと、中の液体は茜色を帯びた。

「ほら、こんな風に」


「それって陽の光を、水を通して見てるだけでしょう」


「うん、そうだね。でも、この色を数値化することは難しい。だから色の判断っていうのは主観が強くなる。さも詳しいという顔をした詐欺師が、この色は鉱毒のせいだと言えば、信じる人にはそう見えてしまう。同じように、神殿が闇の神々の仕業ですと言えばそうなるし、国王が聴衆の前で魔王侵攻の兆しであると言ったら、戦争の準備が始まるだろう。アーヤ君の言うとおり、目に訴えるってのは有効なんだ」


 そりゃ飛躍しすぎじゃ無いですか、とアーヤは文句の一つも言いたくなったが、思い当たるフシもあるので口をつぐんでしまう。


 カナル村の奇病が人の関心を得られたのは、神殿の床に敷き詰められるように寝かされた罹患者の記録画像の衝撃が強かったからだ。例えばあの日、彼女が目の当たりにした人々が、カナル村の総人口の何割で、老若男女の内訳はどうだった、と数字をハッキリさせたところで、画像の意味は変わらないし代わりにもならない。

 しかしそれに納得してしまうと、自分がたまたま一発当てただけに思えてしまい、なんだかモヤモヤする。


「……うぅん、じゃ、じゃあ見た目だけじゃ無くて、そこに説得力を持たせるものって、何でしょう?数値化って、なにか方法はあるんですか?」


「それだと何を計るかが決まっていないが、先にどうやって計るかでつまづくか……岩妖精ドワーフの職人に作らせた天秤を、知恵の神の神殿で保管して、高位の神官が定期的に器機を校正する。もちろん計測する前にも器機を調整して、計測結果に揺らぎが出ないように取り扱う。測りに掛ける試料は採取してから性質が変化しないように遮光、密封して、速やかに移送――」


「いやいやいや、そんなわざわざ面倒なことしなくてもですね……」


 アーヤの素朴な否定は、おそらく大多数の人も同様な反応をするだろうものだった。

 シェイマスもその戸惑いは判るので、水の入った小瓶を目線の高さに持ち上げ、


「この小瓶ひとつとっても、まったく同じ品は作れないんだ。まして細心の注意でもって作られるだろう天秤すら、職人が違って、測る者も違ったなら、同じものを計測しても結果は少し変わってしまう」


 それは幻想世界の工業力の限界だった。統一規格や共通の設計は稀で、種族ごとの情報共有も少ない。誰が使っても同じ結果になる計測器、という概念自体が存在しない。


「さっきのも正確な計量が出来ないなら、道具と測り手と用法を厳選して、結果の信頼性の根拠にする……という考えだっだが、ぶっちゃけ、殆どの人はそうやって出される数値なんて気にはしない」


「いやいやいやいや……」アーヤはまた同じような反応をしていた。「さ、さすがにそれは、侮りすぎじゃ……」


「ふむ……この小瓶の中身を薄く染める程度の鉄や鉛なんて、岩妖精ドワーフがガブ飲みしている麦酒エールのデカい木杯の中に、耳かきの先に乗せた金屑を混ぜ込んだ程度の量だ。その程度の量ですよ、と懇切丁寧に説明をしても、気の短い職人あたりなら、毎日工房で鼻から吸ってるわ、と笑われてしまうだろう」


「あ、そんなに少ないんですね」


「そう、微量だよ。だが岩妖精ドワーフが鉱山排水を流す基準にもしている。うっすらと色が付く程度なら、十倍に水で薄めて川に流せ、とね」


「そんなに薄めるんですかっ?!」


「そんなに薄めます。川に流して広がって、元々あるものと変わらなくなる程度に」


「……結局、どっちなんです?少ないのか、多いのか」


 また、からかわれているのだろうか。はぐらかされ、煙に巻かれたら、またぞろおかしな事に巻き込まれかねない。

 アーヤにジト目を向けられたシェイマスは、ふっと穏やかに笑った。


「では、この小瓶の中身に濃い色がついたのを、岩妖精ドワーフの基準の2倍です、と言ったらどうなるかな?」


「!! それ、恣意的です。それだと何だか判らないけれど、強烈なものに聞こえます……あーーーーッ」

 アーヤは気づいて、頓狂な声をあげた。

「人は気にしないって、そういう事ですか?」


「そ。排水管理なんて丁寧に説いて回っても、目に見えない微量で小さな世界の事だ、なかなか理解されない。関心もされない。記憶に残りやすいのは、何を指しているのかも判らない”基準の何倍”という、適当な数だけだよ」


「値段を変えずに値札に割引って加えたら、飛ぶように売れたって、アレみたいなものですか――」


「キミ、恐ろしい詐術ばかり知ってるね……」

 シェイマスの笑みが引きつった。

「最近の若い娘さんは数字に強いのか……まぁ、いいか。ともかく、身近な住環境に関わる問題ってのは、理屈じゃ解決してくれないのさ。住民は漠然とした不安を消すか、限りなく無に近づくように求めてくる。そこに根拠は要らないんだ……」


 疲れた調子で首を横に振るシェイマスだった。

 彼もピットブルクの鍛冶師ギルド長の使いとして、方々に出向いては頭を下げている。この件に関しての何処か諦念じみた反応は、そこから絞り出されているのだろう。

 何のかんのと頭を下げて回るのは、アーヤも同類であった。同情くらいは出来る。


「えぇと、あの……根拠って、わたし気になりますっ」


「……くっ、同情と分かっていても、若い娘さんの気遣いは嬉しく感じる。これが歳か……しかしねアーヤ君、その根拠をハッキリさせようとするとだね、この辺りの地下水流動を調査して、街の地下でどう流れているのかを明らかにした後、その上流と下流で採水した地下水……おそらく井戸水だろう、それらに試薬を使い、着色がない事を確かめ――」


「だからっ、どうしてっ、そこまで面倒くさくなるんですかっ!」


 アーヤは一転、思わず拳を握り締めている。そこはシェイマスもまったく同意だった。


「どうどう」


「馬じゃないですからっ!だいたい、そういうのって翠玉の塔の調査団みたいに、魔術師に依頼してエイヤッ、じゃいけないんですか?」


「いかんでしょ。魔術とは万物の根源たるマナに働きかけて、意志の力で現実を改変する技術だよ。それこそ、魔術師の意志一つで、結果はどうでもなってしまうね」


「むむ……」


 言われてみれば、まったくその通りだった。

 おりしも忍び寄るように濃くなる夕闇の中、街の街頭へ【持続光】の魔術をかけてゆく、長い杖を持った魔術師の姿が目に入った。魔法の常夜灯は今や街では当たり前の設備だったが、その原動力は人力、つまりは人の意志だった。これで彼らが体調不良や、仕事をサボったりすれば、常夜灯の利便性は損なわれる。 


「……でも、魔術はもう社会の基盤ですよ?鉱石屋さんだって、いま、万物の根源たるマナって、言ったじゃないですか。そりゃ、五歳児あたりでも知ってる決まり文句ですけど」


「マナも魔術も、誰の目にも明らかな定量化が出来れば、異論は無いんだけどね……ま、さっきから俺が言ってるのは、非魔術師が大いなる世界の理の代わりを探して回って、ああでもない、こうでもないと喚き散らしてるようなものさ」


 そう言ってシェイマスは力なく笑った。

 態度に反し、まるで古代の魔法王国を滅ぼしたと言う、蛮族たちのように過激な志向だった。あるいは匠が多く、魔法には疎いドワーフたちの考えなのかもしれない。だが同時に、『誰が見てもわかる』という考え方に、アーヤは強い共感を覚えていた。


~ ~ ~ ~


 翌朝、太陽の登る前から二人は動き出した。

 宿にはあらかじめ伝えておいた。見送りもなく、町は未だ闇の中に沈んでいる。常夜灯の白い魔法の輝きが目に刺さるようだ。わずかに明かりが着いているのは、朝が早い面皰パン職人の家だろうか。

 宿場町は曲がりなりにも石畳だったが、カナル村への山道へ入ると踏み固められた土に変わった。小石が混ざっているのは、せめてもの強度の確保だろう。


 アーヤは欠伸を噛み殺しながら、短く持った二本の杖に重心を預けて上り坂を踏みしめる。地球で言うトレッキング・ポールだが、乾いた枝の先に革紐を巻いて輪にして、そこに手首を掛けただけの即席品だ。

 山歩きになると聞き、アーヤが昨夜のうちにしつらえた。膝に掛かる負担を分散する効果がある。そういう辺り、山育ちの経験が活きていた。


 しばらくは黙々と参道を登るのが続いた。山間から太陽が登って来た頃、シェイマスが羊皮紙の地図を確かめ、道脇の藪の方へと曲がった。よく見れば、下草が薄い。かつての道があった名残だろう。

 先の戦争の頃なら二十年以上前になるわけだが、それだけ自然に任せて荒れさせていても、どうも野生動物が獣道に使っているのか、目を凝らすと立木の枝の重なりも薄く、なんとなく道が見通せた。


 下草はブーツの高さくらいまで伸びていた。踏み入るとくるぶし丈の長スカートの中にまで届きそうで、乙女の柔肌がピンチに思われた。が、木綿の股引ドロワーズがブーツまでつながっているので、多少の藪くらい問題ない。

 街育ちのコニーなら必要ないのでドロワーズの丈も短く、肌の露出もあるだろうが、山出しのアーヤは今でも鉄壁だった。ただ気になるのは、


「蛭が出ませんように……蛭が出ませんように……蛭が出ませんようにッ……」


 これであった。

 わざわざ藪の中に踏み込むのだ。すると、あの吸血環形生物が待ち構えている危険性があった。


『……あいつらときたら、靴の中にまで気づいたら入り込んでくるから……!』


 身震いを覚えつつ、外套を頭から被る。蛭は頭上の枝からも降ってくる。

 ありがたいことにシェイマスが先に立ち、道を切り開いてくれる。あの魔法の鉈で枝に、蔓に、伸びた下草と、つぎつぎ切り払ってゆく。彼の言う通り、確かに山歩きではあちらの形の方が便利なようだ。


 見る間に自然の圧力が減ってゆき、古い道が意外に残っているのが露になってきた。獣が踏み固めて維持した土は石等の凹凸が少なく、杖の先に引っかかる障害もなくてアーヤも気軽に歩けた。

 あんまり快適なもので、シェイマスが背後から感じる勢いに苦笑するほどだった。


「おいおい、張り切り過ぎじゃないかい?」


「早く抜け出したいんですよ、蛭に着かれたくないですのでっ……」


「あぁ~……」

 鉈を振りながらシェイマスは妙に納得したような声を出す。

「塩、持ってきてるよ?」


 著名な対処療法だ。塩を振りかければ、立ちどころに蛭は絶命する。が、そのためには自分の肌に、あの足のないうねうねが張り付き、あまつさえ肌に牙を突き立てているところを確かめねばならなかった。

 アーヤも美的センスに関しては普通の乙女であるので、足がないとか、足がいっぱいとかを、好き好んで見ていたい人ではない。


 背後からの無言の圧が増した事でシェイマスも察した。鼻から一息つくと、鉈の回転速度を上げるのだった。

 お陰で藪の踏破が早くなったと言うべきか、シェイマスが無駄にくたびれたと言うべきか。ともかく暗がりの先に光が見えて、木々の密集地帯を抜けた。周囲の風景が一気に広がり、青空が目に染みる。

 アーヤは思わず声をあげた。


「わぁ……あぁ?」


 そして下がった。

 青空の下には延々と伸びる岩山の、荒涼とした光景が広がっていた。カナル村で見た、山村を囲うようにつき立っている岩壁のような山々の、その上に立っているようだ。


「こりゃあ、想像以上だな」


 シェイマスが足元の岩場をつま先で突つくと、所々がぐらついている。岩から砕けた礫がぶちまけられているらしい。相当足場が悪い事が予想された。

 彼がここまでに聞き集めた話によると、以前は岩山の稜線を歩いて光明神殿の修行場へと向かっていたらしい。それ自体が荒行や、贖罪の巡礼と看做されたのかも知れない。ところが一昔前に大きな山崩れがあってから、そういった人々の到来はピタリと止んでしまったようだ。


 シェイマスは山崩れとは方便であり、それを理由に修行場から人払いを行って、人の通わぬ山奥をミスリル密造の施設としていたのではないか、そう疑っていた。ところが目の前の尾根道の荒れ具合は、現実に利用を躊躇わせる程だった。

 風雨に曝されて脆くなった岩塊へと、何らかの力が加われば、脆いところから砕けて散乱する。それこそ山崩れの原因となるような力だ。


 地球の地学的な発想ならそれは地震だろう。が、地殻運動がない幻想世界では、大地が揺れる理由や特徴も違ってくる。

 そうなると主な原因は森妖精エルフ土妖精ノームの語るところの、大地の精霊のはたらきだろう。精霊は自然界に宿る不可視の存在であり、神々に遣わされて、自然現象を通じて世界の維持を行っている、らしい。

 時にそのはたらきが大きく作用し過ぎると、天候不順や災害に発展した。

 例えば大きな力を持つ土の精霊なら、岩山を隆起させ、局所的な地震も起こす。


『とは言え、そんなのがいる山ならアーヤ君が言ったように、霊山だ何だと名残が在りそうなもんだが……』


 シェイマスは腕組みして考えながら、足元の石を蹴って通り道を作ってみる。表層は岩屑が散乱して不安定だが、すぐ下には岩肌が残っているようだ。


「足元を確保しながら進むことになるか。思っていたより危ない道行きになりそうだが……」


 どうする?シェイマスは振り返って問うた。

 外套を脱いで蛭が付いていないか恐る恐る調べていたアーヤだったが、尾根道に目を向けると果敢にうなづいて見せた。


「行きましょう、せっかく、ここまで来たんですから」


「……こういう時は、引き返すのも勇気だと思うがね」


 シェイマスは小さくため息をついたが、それ以上をどうこう言うのは年寄り染みていたので止めた。

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