第8話 ピットブルク捜査網(3)
「どちら様って、そりゃ、見りゃあ判るだろ?」
小舟の先客はそう言うと、切れ込みのえげつない
「酒場でお酒の相手をする方ですよね。さすがに、船で酔い潰れるのは危ないですよ?」
「……ああ、なんて純真な反応!旦那、こんな”ねんね”を何処へ連れ込もうってんだい」
彼女は櫓を漕いでいるシェイマスへ、下から避難がましい目を向ける。そうすると柔肉の谷間が出来て、そこに野郎の視線が魅かれる事を知っていた。
シェイマスは誘惑に抵抗しつつ、彼女の全体に目を配る。男心、というか下半身に訴えかけるものを知悉した仕草に、凝脂の乗った女ざかりの肢体。ゆるやかに波打つ
「姐さんは”立ちんぼ”かい」
「おや、旦那は色々知ってるようだ。そうだね、あの辺は、そういう場所さ」
彼女は事も無げに答えた。
”立ちんぼ”と言うのは、夜の辻の、それも人気のないところに立つ、最下級の娼婦だ。娼館の世話になっていない私娼で、年齢、外見、病気、立場など、色々な問題を抱えたうえで、そういう商売しか選べない訳ありが多い。
小舟に敷かれたシーツは、そこが彼女の仕事場という事を伝えてくる。水路に係留された他の小舟も同様だろう。それに気付かないアーヤはシーツを畳んでやりながら、
「わざわざ布団まで持ち込んでるんですか……あぁ、もう水に濡れちゃってますよ」
「そ、そういうのは良いからさッ!」
女はいい加減いたたまれなくなり、シーツを取り返す。
「何なんだい、まったく、あんた等は。悪い男が羊を連れ込み宿に、って風情でもない」
「それはですね……」
アーヤは脈もなさそうな男女が二人、どうして色町のまわりを歩いているのか、掻い摘んで説明した。図らずも呉越同舟になった時間つぶしに、何とはなしに、話して聞かせた事だった。が、
「あ~~~~、あのいけ好かない警邏神官ね。証言したの、あたしだわ」
「ッ!そのお話、ぜひ詳しく!」
思わず小さく息を吸って、すぐさま飛びついたのはアーヤの方だった。そういう辺り、彼女は確かに記者だった。
当事者の筈のシェイマスは、一拍おいてから目の色を変えた。
「そいつは本当か?!言い争いの事とか、何でもいい、思い出せる事はないか!?」
「……って言ったって、ねぇ」
女はさも気のない顔で、小船の行く先に目を向ける。それから品の良いとは言えない仕草で首筋をポリポリと掻いた。
白い粉が黒々とした水路に舞うのを見ていると、ふいに良い事を思いついたのか、にやりと笑みをうかべた。
「あれだ、こっちは好い気分で寝てたのを叩き起こされたんだ。朝飯でもご馳走してくれたら、何か思い出すかも、ねぇ?」
情報料を要求する、という事だ。しかも機嫌次第になりそうだ。
こりゃあ面倒くさいのに捕まったか。シェイマスは口をへの字に曲げた。
「姐さん、あんまり貧乏冒険者の懐をアテにせんでくれないか」
「そのワリにゃ身綺麗にしてるじゃないか。食うや食わずの銅級じゃないんだろう?」
「そりゃ鉄級だがね。それだってピンからキリまで、稼ぎには差があるんだからな」
「なぁに、少なくとも鉄級になれば、”立ちんぼ”なんぞ買いにゃ来ないさ。屋根のある店に行くくらいは稼いでるよ」
そう言って女はふてぶてしい笑みを見せたが、一瞬、寂し気な顔も垣間見えた気がした。
擦れた男女が様子見に不毛なジャブを打ち合うなか、立ちんぼが未だに何か解っていないアーヤはと言うと、腰の
「……鉱石屋さん、取材費用ですから、わたしも払いますよ?」
領収書と言う仕組みは未だないので、必要経費は前払い的にどんぶり勘定で渡されている。
が、この場所、この局面で、そう素直な言葉が出てくるのは人格というか、世間知らずというか。擦れてる男女は顔を見合わせた。
「ちょっと旦那、ほんとうにこの娘、騙してるんじゃないだろうね!?」
「さっき自己紹介したでしょうが。王国週報の記者さんだよ。それに利用されて引き回されているのは俺の方だ」
「はー、まったく、このガーネット姐さんじゃなきゃ、食い物にされちまうよ、そこのお嬢さんは……」
いいように毒気を抜かれた女–––先程のアーヤの事情説明の際に、ガーネットと名乗っていた–––は、前方の小さな船着き場を指さした。下町の外れにある、日当たりの悪い区画だった。
「そこに寄せてくれないか、家があるんだよ」
他の住人達の物か、粗末な桟橋に多数の小舟が係留されていた。どうにかこうにかシェイマスが桟橋の空きに寄せ、三人は陸に上がる。
下町より更に一回り小さな家々や、倉庫のような簡素な建て屋が横並びに続いていた。狭い区域に場所を争って建て込んだのだろう、日当たりなど考えられておらず、所々、日陰が出来ている。加えて水路から湿気と冷気が流れ込むせいで、全体的に肌寒かった。
先程の色町同様、起き抜けの人々が目立つ。日も高くなるが、朝の光景が今頃ひろがっていた。夜の人々の街なのだろうが、そこは色町の表通りと比べると、あまりにうらぶれていた。
『まるで貧民窟みたいな……』
アーヤはそうは思っても、礼儀として口にしない。が、ガーネットは住んでいるだけあり、気遣いもない。
「貧乏人どもばっかだろ。立ちんぼ、日雇い、色町の下働き。そういうのが寄せ集まってる」
そう言って彼女が先導したのは、ごみごみした街の通りの隅だった。
ぷんと、油の匂いが鼻をついた。
掘っ立て小屋の露店から漂ってくる。炭火にかけられた大鍋の中で油が煮立ち、ガラガラと盛大に音をたてて揚げ物をこさえていた。その匂いだ。
一口大に切った芋に鶏肉。同じ鍋からあがり、ほこほこと湯気を立てている。
一見して味が移らないかと不安になるが、炭も油も別に用意すれば、それなりに金が掛かる。こういう場所なら同じ鍋で揚げても、売値が安い方が文句が無いのだろう。
少なくとも空腹なアーヤだったが、濁った油の色から、食べてみたいとは思えなかった。
ガーネットは店の親父と軽く挨拶を交わすと、
「さ、今日はお大尽だ。そこの出来てるの、全部おくれな」
そう言って、揚げ物の山を大皿ごと持って行ってしまう。
「皿は明日に返すよ」
「えぇ、へいへい、毎度ぉ」
店の親父は慣れているのか、足下から新しい大皿を取り出し、また揚げ芋の山を積み始めた。
財布係のシェイマスには、それよりも値の方が気になる訳だが、芋を油から上げながら親父が口にしたのは、思っていたよりも大分安かった。銅貨を一握り、親父に手渡しして、ガーネットを追う。
どこに家があるのか、彼女が歩いてるうちには濃厚な匂いに釣られ、子供たちが寄って来ていた。下働きや下級娼婦といった低所得者の子供だろう、ボロをまとう、とまではゆかないが、あまり身綺麗でもない。
「姐さん、いっぱい持ってるじゃないか、分けておくれよぅ」
臆面もなく要求する子供たちへ、ガーネットは構わず揚げ物を分け与える。いつも腹を空かせているのか、彼らは口やら手やらをギトギトにして揚げ物に齧り付いていた。
「……すごい、勢いですね」
アーヤは呟かずにはおれなかったし、シェイマスも「あぁ」と首肯した。
それからガーネットは、日当たりの良い場所に陣取っている女の集まりに声を掛けた。何人か、顔や手に布を巻いている。彼女たちも飛びつくように大皿の料理を食べ始めた。
どういう人達だろう。興味を惹かれたアーヤだったが、シェイマスがそれを止めた。
「止めておくんだ。病に掛かって仕事が出来なくなった娼婦だろう」
「へ?」
「色町は”花散る町”って言ってな」
「はな、ちる?」
アーヤは言葉そのものを呟いて、それから揚げ物をがっついている女たちに目を向ける。
「ッ!?」
ひらりと一瞬ひるがえった布の下に、黒く変色した鼻が垣間見えて、彼女は思わず口元を手で押さえ、飛び出しそうになる声を飲み込む。
梅毒が進行し、末端が壊死している。”鼻、散る”であった。やがて脳が侵され、全身麻痺で死に至る。
といっても、この幻想世界に全く同じ病原菌があるのかは判らないし、医療が性病の原因を究明している訳でもない。少なくとも抗生物質は存在せず、性病の治療は魔法使いの霊薬や、高司祭の奇跡が担っている。いずれにせよ貴重であり、高額であり、貧民窟まがいに住む場末の娼婦が払える額ではない。
アーヤも女性であるからして、性病の恐ろしさは教え込まれている。が、知識として知っていても、いざ目の当たりにすると、衝撃が大きかった。”立ちんぼ”の意味も、ようやく察しが付く。
おそらく彼女たちは仕事も出来ないほどに病が進行し、ガーネットのような同業者の善意で、食べ物を都合をつけて貰っているのだろう。それも万全ではないので、あんな貪るような調子になる。
あまりの過酷さにアーヤは動揺し、言葉なく立ちすくんだ。見かねたシェイマスがその背に声を掛ける。
「そうそう気に病んでも身が持たないぞ。こういう私娼窟じゃ、ままある事だ。せめてまともな娼館で年季奉公していれば、店が気を付けるんだがなぁ」
「……そんな、言い方って」
整理し切れない感情が口をついて出た。シェイマスは困った顔で肩をすくめた。
「それこそ芝居や絵草子の台詞だ。”君に何ができる?”」
「う~~~~……」
「そこで憤れる分、キミは善良だよ」
そう言って彼も、堪えていた溜め息をつく。
「実を言えば、俺も驚いている。あの露店の料理、やけに安かったんだが、どうやって元を取っているのかと考えた」
「……善意でお手頃価格、じゃないんですかー」
「ないなぁ……ありゃあ、そうとう古くなって捨てられるような段階の食材を、二束三文で引き受けているんだろう」
「悪くなってませんか、それ?」
「だから高温の油で、じっくり揚げている。芯まで火が通れば、意外に食べられるもんだ。油で味も判らなくなってるしな」
アーヤは絶句した。まるで生ごみでも火を通せば、と言ってるようなものだ。栄養学の概念は進んでいなくとも、それが体に良いものとは思えなかった。
それでも日雇いの現金仕事でもこなせば、温かい食事にありつけると考えると、まだマシなのだろうか。
彼女が悩んでいるうちには、性病に罹患した元娼婦たちは揚げ物を綺麗に食べ尽くし、ガーネットがその最後の鶏肉をつまみながら帰って来る。
「こりゃ、ふるい油だねぇ……」
顔をしかめつつ、アーヤが黙していることに何かを察し、彼女はシェイマスの方へ声を掛けた。
「さぁて、それで、この前の晩の事だったね」
「姐さんの朝飯は?それで良かったのか」
「……あたしゃ美味いもんしか食べたくないね。でも、あっちの婆さん共にゃ、たまにゃ滋養のある肉でも食べないと、もたないからね。まったく、炭も買えない貧乏人ばかりさ。自分で鍋を振るうって考えもない。あそこの露店の親父みたいに、どこぞの残飯と油と火を用意すりゃ、ここじゃボロ儲けだ」
ま、あんたに愚痴っても仕方がない。ガーネットはあまり衣服の用は果たしていない夜会着の裾を直すと、事件のあった晩の事を話し始めた。
「––––と言っても、あたしも客を乗せて小舟で水の上に漕ぎ出して、仕事中に聞こえて来ただけだ。細かく覚えている訳でもないよ。男二人が声を潜めて話しながらやって来て、どこかで大声の言い合いに変わって、それからドボンだ。警邏神官に話した通りだね。で、こっからは朝飯代に、ちょっと思い出したやつ」
ガーネットはにやりとした。
「水音がしたときに、そっちを見たんだ。そしたら、走ってく影が一人いた。長い棒を持ってたよ」
「それで殴るなり、突き落とすなりしたのか……」
「ぶっ叩いたなら、もう少し痛そうな音や声でも、聞こえてきそうだけどね。静かなもんだったよ」
「それは……」アーヤが我に返り、話に加わって来る。「やはり翠玉の塔の魔術師じゃないでしょうか。長い棒が鈍器として使われた凶器なら、その場で水に沈めて証拠隠滅を図ると思います。でも魔術師の杖はおいそれと手放せません。使用者用に調整して、高価な魔力石も使っています。そして魔術の杖なら、別れ際に後ろから≪誘眠≫のような術を掛けて、意識を失って水路に崩れ落ちる……みたいな真似も出来ます」
「そりゃ、水に落ちても目が覚めないようなもんなのかい?」
ガーネットの素朴な疑問に、アーヤは首を縦にぶんぶんと振った。
「≪深い誘眠≫とか、意識を奪う事に強い効力を発揮する魔術もあります。それに、被害者はかなり酔っていた筈ですから」
「それでいきなり暗い夜の水の中にドボン、かい。あたしも気をつけよ」
「……事前情報と先入観がアリアリの見立てですけど」
窺う様にシェイマスに目をやると、彼も頷いた。
「俺たちは事件捜査の専門家じゃないからな、これだけ追いかけられたら上出来だろう。あの晩、マーティン・マイルズは俺と別れたあと、どういうわけか翠玉の塔へ戻らず、水路に面した路地に向かった。そこで同業者と会って、口論の末、水路に沈められた。意識が無かったため、下町の外れに流れ着く頃には溺死していた……少なくとも、俺が犯人扱いされる要素はないな」
シェイマスは手応えありという風に言っているが、アーヤはまだ首を傾げてしまう。状況証拠ばかりという事もあるし、なにより、官憲の側はあの一方的な
「……さて、それじゃあたしはお役御免でいいかい?」
ガーネットが日当たりの良いところで伸びをしながら言う。魔術師の杖らしき目撃情報ひとつのために、ここまで付き合わされた、と言ったらそれまでだが、支払った金額は確かに宣言通りの朝飯代だけだ。
「ああ、助かったよ」
礼を言ってシェイマスはガーネットの手を取り、握手を交わす。と、ガーネットの手のひらに金貨が一枚残り、彼女は目を見張る。
「待ちなって!?思い出したのはさっきので全部だよ、本当さ!」
「なに、姐さんの小舟のお陰で、こっちは最初に窮地を脱しているんだ。その分だよ」
「ふん……そうかい?それじゃ、貰っとこうか」
ガーネットは固持せず受け取ると、手を振って貧民窟の雑踏に消えた。
アーヤも彼女が見えなくなるまで手を振っていた。
「……気持ちのいい方でしたね」
「そうだな」
「でも金貨って、見栄張りすぎじゃないですか」
「そうだな」
「あ、けっこう痛手だったり……」
「うるさいよっ?!」
たまらず話を打ち切るシェイマスであったが、それは彼女の指摘が正しい事になるのだろう。思わず仏頂面になり、
「キミこそ、さっきから黙っていて、明らかに何か気にしてるようじゃないか?」
「え!?」
自身で気付いてなかったのか、アーヤは頬に手を当て、目を丸くする。
「あーーーー……でも、やっぱり、色々と衝撃だったんだと思います」
貧民窟の路地から、いつもの下町へと戻りながら、アーヤは呟いた。
「娼婦の方と、病気と、子供達と……知らなかった事に、圧倒されるばかりで。それに、さっきの辺り、”風の声”が全然聞こえてこないんです。とっくに放送時間だったのに。なんだか……」
アーヤはそれを口にしてしまう事を躊躇いながら、結局、力ない笑顔で言っていた。
「自分の仕事が、意味なかったように思えちゃって–––」
「さっきと同じ事を言うぞ。気に病んでも身が持たない。あそこの餓鬼どもだって、もう少し大きくなれば、どこかに奉公に出たりして家を離れるだろう。その時に、キミが初めて王国週報を目の当たりにして、目を焼かれたのと同じように、人生が変わる子が出るかも知れない」
シェイマスは間髪入れずに言った。励ましているような、突き放しているような、何とも判断がつかない調子に、取り合えずアーヤは苦笑する。
「あの、もう少し手加減を……」
「記者という職業は、もっと図太いと聞いていたがなぁ」
「わたしは繊細で丁寧なお仕事を心がけてますからっ!」
思わず頬を膨らます。
すこし元気が戻っていた。気を遣われたのだろうか。だとしても、あんまりな言いざまに礼を言うのは癪だから、アーヤは少し足を速めて抗議とした。
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