第7話 ピットブルク捜査網(2)

 ピットブルクの下町は迷宮に向かう冒険者を目当てに集った人々の街なので、迷宮であぶく銭を掴んだ荒くれどもが欲する酒と女——あと博打——も当然揃っている。

 飲食店通りの裏には女性が酒の相手をする店の通りがあって、更に良い気分になった酔っ払いの袖を引いて路地を抜ければ、一晩中、灯りが煌々と焚かれた区画に出る。

 ピットブルクの色町だった。


 そういう場所を男女が連れ立って歩いているのは、連れ込み宿とか言われる艶っぽい用途の宿泊施設目当てが普通だが、当のアーヤとシェイマスの距離感だと、縁は遠そうだった。

 まぁ昼日中から早くも身を寄せ、手指を絡めて気分をあげて、いざご休憩という露骨なカップルも珍しいだろう。そもそも昼頃だと、色町は夜っぴて働いていた人々がようやく起きだし、街の掃除とか店の片付けとか、朝相当のルーチンワークが始まった時分だ。


 そういった作業に従事する飲食店の人々や、ポン引きらしき軽薄そうな若者に話を聞いてゆく。

 が、場所柄、酔漢がケンカなどは有り触れた光景だったので、いちいち覚えている者もいない。胡散臭そうな目を向けられたり、仕事を邪魔されて迷惑そうな顔をされたり。まして色町でのヤヴィエ警邏神官長の評判も悪い。


 なにしろこういう場所で日々の活計たつきを得ている人々は、人生裏街道な者も多い。脛に傷があったり、叩けばホコリが舞い上がったりするのを、隠して生きている。

 とかく一方的なヤヴィエ神官長はそれを犯罪者予備軍扱いするので、ここでの評判はすこぶる悪かった。

 なので彼の聞き込みで証言した人を探しても、関わり合いたくないのか、どうも手ごたえがなかった。争う声と水音、という情報の出どころは掴めないようだ。


 結局シェイマスの記憶を頼りに、当時の足取りを巡る事になる。多層建築の娼館が 壁のように並ぶ大通りから、いったん色町の入口へ戻る。

 途中、通りを清掃している人々を避けていったが、その中の一人、ポン引き風の男がアーヤたちの背中を睨みつけながら、通りの娼館へ足早に入っていった。


 そんな一幕があった事などつゆとも知らぬ二人は、下町との境にあたる通りに戻る。

 先ほどの大通りに並んでいたようなパステル調のドギツイ看板はなく、改めて見ると、下町の飲食店街と変わらないようにも見える。少なくとも、アーヤにはそう見えた。


「この辺りは花屋に、青果店、肉や濃い目の味付けが売りの飲食店……それに、案内所?商工街の通りと、あまり変わらない感じですね」


「変わらない……ああ、キミはこういう処の常識は知らないんだな」


「そりゃ風俗記事なんて扱ってませんよ!」


 思わずジト目になる。職業・種族に貴賤は無いというのは、多種族の寄り合いであるアメリア連合王国の国是であったが、色町について男性に常識を問われるのは、何ともモヤモヤが募るものだった。

 究極的には野郎の下半身事情への理解の度合いであり、その点ではアーヤもまったく乙女なのである。


 が、乙女に冷たい目を向けられるのは、男性としては自身のおっさん具合を直視されるようなもので、こちらはこちらで精神衛生上よろしくない。


「と、ともかく、ああいう店舗は夜の店への贈答品を扱っているんだ。飲食店は精が付きそうな料理を出して気合を——」


「気合、って……」


「声まで冷たくなった?!そ、それで、案内所というのは、こういう場所だと夜の店の案内とか、手配を——」


「手配、ですか……」


「夜の街の常識なんですー!無用ないさかいを避ける事にもなるんですー!」


「まぁ鉱石屋さんが何をしようと、わたしには関係ありませんしね」


 言うだけ言って一方的に切る面倒くさい振る舞いをしつつ、彼女は通りに見渡した。


「それで、どこのお姉さんがいる店に行ったんですか?」


 シェイマスは掛かる難事に口の中へぶつぶつ文句を飲み込みつつ、飲食店の間にある酒場を指さした。黒を基調とした店構えはソレっぽいが、個室が幾つもあるような娼館と比べると、いかにも手狭で『そういう営業』はしていないと思わせる。

 なのでアーヤも拍子抜けする。


「あら、普通のお店なんですね」


夜会服イブニングドレス程度の格好の女性に、酌をして貰いながら会話を楽しむ店だぞ」


 そんなの何が楽しいんです?と思わず口に出そうになり、アーヤは何とか引っ込める。シェイマスの頬の引きつりが見えた。根掘り葉掘り聞いてしまうのも、せっかくの協力者に礼を失するかも知れない。


「……このお店に移って、マーティン・マイルズ氏と飲んでいたのですよね」


「ああ。内容はさっき話した通り。ミスリル鉱石とか地質構造の話は出尽くした後だったから、こっちに来てからは道を違えた、とか言う同僚の愚痴が多かったな」


「ベーゼル・ヘイデン氏?」


 アーヤがメモの紙束から名前を拾うと、シェイマスは首肯した。


「そんな名前だったね。夜半前(10:00~12:00頃)には店が閉まるので追い出されて、そこで道を歩きながら……」


 シェイマスは通りの先へ目を向ける。人気のない方向ではあるが、


「……ま、昼だし、女連れでも大丈夫か。辿ってみようか」


「ええ、お願いします」


 日も既に真上に掛かっていた。こんな時分から街中で、それも人目をはばかる行為に精出す輩もいるまい。

 この辺りの人々もようやく起きて来たのだろう、欠伸を噛み殺しながら炊事の支度をしているのが窓から見えた。塩漬けベーコンを熱して脂をにじませ、それで卵を炒っている。やたらと香ばしい匂いが漂ってきた。


 寝過ごして朝食を抜いているアーヤには酷な香りだ。と同時に職探し以来、縁のなかった色町だったが、他の街区と変わらない営みがあるのだなぁ、と妙な関心があった。

 そう思えば、二階の窓から紐みたいな凄いデザインの下着が干してあるのも、


『いやいやいや、アレは駄目でしょう?!』


 うん、やっぱりこの辺りは見知らぬ世界なんだ。アーヤは今一度、気を引き締める。

 そうこうする内に十字路に出て、シェイマスの足が止まった。


「あの晩はここで別れたんだ。俺は左手に進んで商工街で、彼は直進して、官公街にある翠玉の塔の研究者寮へ戻る筈だった」


「でも実際はマイルズ氏は次の朝、下町の水路で溺死体となっていた」


 二人は示し合わせたように十字路の右手方向に顔を向ける。そちらは再び色町の外郭をなぞる様に路地が続いていた。


 ここまでの道のりに水路は見当たらなかった。官公街や商工街へ向かえばピットブルクを貫く河川に出るが、そこから下町の狭い水路へと遡りはしないだろう。であるならば、右手方向の分岐の先に、マイルズが落水した水路があるのではないか。

 頷き合い、二人は十字路を右手に曲がった。

 と、その後姿を、足音を忍ばせて追いかける影がある事に、彼女たちは気がつかなかった。


~ ~ ~ ~


 アーヤとシェイマスは色町の外郭の路地を歩いている。日当たりは悪く、人通りも少ない。当然、店は見当たらず、見るからに裏路地然とした雰囲気から、長居をしたい場所でもない。

 しかし痕跡探しは続けねばならず、足元に目を落し、口数少なく足だけは動かす。


 二人とも何かを探す事を生業にしてはいるが、この件に関しては素人なので、いまのところ成果はない。

 やがて水音が耳に入り、顔を上げる。路地の奥に水路が入り込んでいた。この辺りの街区を建築していた頃の、資材搬入経路だろうか。それとも迷宮から魔物が溢れた際に、迅速に対応するための旧い連絡路か。


 いずれにせよ、今は頻繁に使う用途も無いように思えるが、係留された小舟は整備されている。

 黒々とした水は底も見えない。辻の側溝が流入しているのか、川から水を引いているのか、わずかに流れが出来ているのが見えた。

 シェイマスが試しにその辺の綿埃を水面に蹴落とすと、けっこうな早さで流れてゆく。


「こりゃあ、人くらい流れそうな勢いだ」


「え?流れますか?人ってけっこう重たくないですか?」


 アーヤは耳を疑う。彼女には溺れる者はワラをも掴むの言葉通り、水に入れば沈むというイメージが強い。なお彼女は山育ちなので、浅い川で泳ぐのが精々の経験だ。


「いいや、人間は何もしなければ浮くように出来てる」


 シェイマスは綿埃をもう一つ蹴落しながら答えた。


「溺れて暴れるほど、浮く力は失われるんだ。体から力を抜き、水を飲まないようにして静かにしていれば、自然に浮かんでくる。意識がない程度なら水も飲まないし、溺れて我を失うこともないから、そうして浮かんだまま、けっこう流される事になる。もっとも、長いこと息が出来なければ窒息してしまうがね」


 主語はなかったが、彼は水死体となったマイルズの事を言っているようだった。

 それが事故なのか、事件なのか。アーヤは自分も水路に落ちないよう、薄暗くて覚束ない足下を注視する。


「マイルズ氏はこの辺りの水路で落ちたのでしょうか?」


「あの警邏神官長ヤヴィエが言うには、俺が酔って突き落とした、だがね。このまま、この水路を追ってみよう。発見現場につながっているなら、その可能性が高いだろう」


 例えば現代日本であるなら、水路の構造は役所の該当部署に行けば、図面を閲覧できるだろう。これがあまりに古い物だと資料が無かったりするし、埋設配管だと正確な経路が不明だったりもする。まして紙などの記録手段が高価な幻想世界の、おまけに都市計画から外れた下町の水路である。正確な記録の存在は期待できない。


 二人が行き当たりばったりな捜索になるのは仕方が無かった。都市の光明神々殿が治安維持を行えるのも、信者数という人海戦術で少ない情報量を補えるからだ。


 水路は色町の外郭をなぞる路地に沿って続いていた。道と水路、どちらかが先に出来て、それに合わせて作られたのだろう。


 人が滑り落ちた痕とか、凶器になったような石とか、大衆向けの絵草紙–––低質な紙が束ねられ、イラストに文章がついた娯楽物–––にあるようなベタな展開が残っているかも知れない。辺りに気を配りながら歩いていると、ふと、シェイマスが衝立のように続く建屋の壁を確かめながら、小さく息を呑むのが目に入る。


「……何かありました?」


 アーヤは問いながら、彼の視界の先を覗き込む。すると不意に「ちょっとすまない」と声を掛けられ、ぐっと身を寄せて来られた。


「いっ?!」


「静かに。目線だけ、来た道に向けてごらん」


 急に耳元で囁かれる形になり、必要以上に心音が上がる。こういうのは卑怯だと内心で文句を募らせながら、


「まさか追っ手とか大衆芝居みたいな展開ぃぃぃ–––」


 アーヤは変な声が出そうになるのを噛み殺す。

 男が三人いた。立ち止まっているアーヤたちに合わせたように、彼らも足を止めている。彼女たちは知るよしも無いが、色町の表通りで二人に鋭い眼光を向けていたポン引きが混じっていた。

 アーヤは顔色を悪い方に変える。


「ガラの悪い人たちがコッチ見てるんですけどっ?!」


「さっき気付いたんだが、まだいるんだ。こっちの足に合わせて様子を窺っているなぁ」


「強盗ですか!?」


「どうだろう。物取りなら、人通りもない路地だ、とうに仕掛けてくると思うんだが……」


 シェイマスの物騒な物言いに、アーヤを身を強張らせた。動くクリーピング・バインに襲われれば、火傷覚悟で魔法の小杖ステッキをブッ放した思い切りは、今や何処へやらだった。


 なにしろ相手は意思もあれば、悪意すら抱く人間である。

攻撃への精神的なハードルは魔物相手よりも高くなるし、逆に向こうはどんな危害を加える気なのか、女性の身で想像すするには、強い意志力が必要だろう。

アーヤの身をすくませたのは、そういう普通の発想だった。


 だからシェイマスが短く「任せておけ」と告げた後、くるりと振り返って彼らに声を掛けたのには、意表を突かれてあんぐりと口を開くしかなかった。


『この人、何してるのッ!?』


~ ~ ~ ~


 追跡者は三人。皆、歳は若い方で、一様に暴力に慣れた荒みがある。腰にナイフと呼ぶには大型な刃物の入った鞘を吊っているが、あれは市井で流行の護身用という名目で大ぶりにしたロングナイフだろう。

 日用品をただ大きくしただけの粗悪品も多いが、れっきとした鍛冶師が鍛えた業物を振るう剣士もいるらしい。といっても、この三人からはそういう研ぎ澄まされた空気は感じない。


 オイ、コラ、テメェの定型句で、脅しを主な仕事にしている輩だろう。場所柄、小金を持った不用心な酔客も多い。そういう者をカモにするのだ。

 対するシェイマスは迷宮での装備も外しているし、山賊然としたヒゲも剃っているので、こちらは丸きり、餌食にされる普通の町人だ。


「わざわざ待っているようだが、何か用かい」


 シェイマスは話しかけた。足を肩幅に開き、右手は腰に手を当てている。女連れで格好をつけているようにも見えた。


「なんだぁ、テメェ……?!」

 

 案の定、後ろの一人が反応する。顎をカクカクと前後させ、斜め下から睨んで威嚇してきた。ストリートの仕草だろうか、アーヤは後でコニーに聞いてみようと、現実逃避気味に思った。


「おうおうおうお–––」


 威嚇しながら前に出てくるのを、あのポン引きの男が手で制する。


「やめとけ。その旦那は力んじゃいねぇ。お前ぇの頭の悪ぃ脅しは通じてねぇよ」


 そう言ってポン引きの男が代わりに前へ出て、わずかに腰をかがめると、窺うような姿勢をとる。


「旦那、あんたは……」


 男の目つきが刃物のように鋭くなる。とうてい水商売の労働者という顔つきではない。


「……光明神様んところの隠密神官かと思ったが、どうもそうじゃねぇ。えらく肝が据わってるが、何を調べていなさる?」


 隠密神官!アーヤは何とも興味を惹かれる言葉に、耳をそばだてていた。

思わず挙手して質問するような真似は、話の腰を折ってしまう。厳禁だ。細大漏らさず、聞き漏らさないようにしなければ。


 自分の背後で連れがヒートアップしてる事なんて気付くわけもないシェイマスであったが、こちらはこちらで、思わぬポン引きの物言いに苦笑を噛み殺すのに注力している。


「隠密って、そりゃ三文芝居の見過ぎじゃないか?俺はただの冒険者だよ」


「旦那、それこそ三文芝居の台詞せりふだ。手前ぇで只の冒険者って名乗る奴ぁ、信用しちゃいけねぇよ」


「冒険者を名乗る貧乏男爵家の三男坊が実は、か……たしか、アーバレン・ボゥ将軍?それとも王様風来坊 隠れ旅か?芝居の演目であったな」


「ですから、まぁ、そんなのが死んだ酔客のことを嗅ぎ回ってりゃ、何者だって話でさ」


「その酔客と一緒にいた男が、警邏神官にしょっ引かれたという話は聞いているか?」


「へぇ。いの一番に疑われたんでしょうな。運の悪い話で」


「その運の悪い男が俺だよ」


「ほほぉ」ポン引きは更に目を細め、笑ったようだった。「それでご自身で調べてなさる?お止めなせぇ、証拠を葬ってると思われるのがオチだ」


「そうは言っても、いつまでも嫌疑を掛けられているのも、身動きがとり辛くてな。ましてあの評判の悪い警邏神官長ヤヴィエだ。せめて、あの晩、言い争いがあったと証言した者に話を聞いてみたい。そうすれば俺も、身の振り方を考えられる」


 丁々発止と続いていた遣り取りが、そこでふつりと途切れた。

 ポン引きは窺うような姿勢のままピクリとも動かず、シェイマスも先程から微動だにしていない。


 ふと、アーヤはシェイマスの右手が、腰の裏に隠すように吊った短棒に指をかけているのに気付いた。それが何なのか判らないが、状況的に自分が魔法の小杖を用意しているのにも似ていると、思い至る。

 もしや、一触即発な緊張の真っただ中なのでは。


 次の一瞬には何が起こっているのか。血で血を洗う乱闘、剣戟。どうして自分はそんな処に立っているのか。


『そりゃ、自分で聞き込みに行くなんて言ったからでしょ』


 心の何処かで、そう嘲笑う自分がいる。山出しの田舎娘が場違いな場所にやって来るから、こんな事に巻き込まれているんだ、と。


『……えぇい、うっさい!』


 自分自身を叱咤し、悪い考えを振り払う。それから腰の雑嚢ポーチに手を突っ込んで、魔法の小杖を一本、抜き出した。

 目についたのは、細工した二本線がすぐに目についた≪発火≫だった。自分の立ち位置からだと有効射程外だし、いざ当たれば火傷は免れない。


 それをやれるのか、自分が。


 どこかに迷いはあったが、口を引き結んで小杖を両手に握りしめ、先端の水晶–––大気中の万物の根源たるマナを貯めこみ、記録された魔術を発現させる発動体–––を前へ向ける。


 その姿がポン引きの男の目に留まった。それに後ろの手下達にも。

 手下二人は一斉に騒ぎ立てた。


「あぁっ!アイツ、抜いたっ!」


「抜きやがったよ、若頭ぁ!!」


 忠誠心なのか対抗心なのか、二人はポン引きの男より前へ踏み出し、こちらもロングナイフを抜く。ナイフをそのまま大きくしたような片刃が、暗がりの中でも何処からか差し込んだ陽の光で鈍く輝いていた。


 一気にエスカレートする事態に、困ったのは自分たちが主導していると思っていたポン引きとシェイマスだ。


「ば、バカ、お前等?!前へ出るんじゃねぇ!」


「カーソンさん!何してるか見えんが、早まるなよ!?」


 アーヤはもとより射程距離外なので、早まるも何もない。魔法のステッキの握りを確かめながら、


「大丈夫です!よく狙います!」


 と、これが悪かった。手下達は血走った目を彼女に向けてくる。


「おうおう!何を狙うッてんじゃ、このアマぁ!」


 手下の一人がロングナイフを、手首を返しながら振るようにして近づいてくる。

 アーヤは刃物と暴力の恐怖に堪え、まなじりも裂けんばかりに手下を睨み付けた。


 と、ここでシェイマスの右手が閃いた。指を掛けていた短棒を横に振りぬく。とたん、空気を裂く重い音がしたかと思うと、手下のロングナイフが半ばから折れていた。


「はぇ?」


 手下が急に軽くなった手を見て、変な声をあげる。

 何処から現れたのか、シェイマスは鉈を握りしめ、振りぬいていた。こちらもロングナイフのような生活用具の延長だが、分厚い刃には無言の威圧力がある。


 ポン引きの男は落着したナイフの刀身と、甲高い金属音に、思わず目を奪われた。

その一瞬のうちに、


「え?ひゃぁぁぁぁぁああぁあぁ!?」


 アーヤの悲鳴じみた声が、横方向へと遠ざかっていった。

 彼が顔を上げた時には、シェイマスが無理やりアーヤを抱えて飛び、係留してあった小舟に飛び乗っていた。流れるように鉈で舫い綱を断ち切り、櫓を漕ぎ出せば、元の流れもあって小舟は一気に勢いづいた。


 シェイマスは急速に遠ざかるポン引き–––手下が若頭と呼んだからには、色町のやくざ者の幹部だろう男へ手を振った。


「すまないな。こちらに害意は無いんだが、どうにも変な流れになってしまった」


 若頭は応えなかったが、早く消えろとばかりに、一度大きく手を振り返した。

 霧が晴れるように暴力の空気が薄れてゆく。


 揺れる小舟の上、ようやくアーヤは大きく息を吐いた。緊張が切れ、また空腹を思い出す。礼なり文句なり、何かシェイマスに言わねばならないだろう。何を言おうかと考えようとしたところで、小舟に敷いてあったシーツが揺れて、跳ね上がった。


「なんだい、客かい?」


 そう言って、ほとんど下着のようにも見える夜会着イブニングドレスを着た女性が、半身を起こした。

 この先客には全く気付けなかったアーヤとシェイマスは、思わず間の抜けた声を掛けることになった。


「「どちら様ですか?」」

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