第8話:マノン式極楽マッサージ

 風呂上がりでポカポカと体が火照り、用意してもらった綺麗なパジャマに袖を通した私はいま、人生最大のピンチを迎えていた。


「奥方、これでトドメを刺してやろう」


 うつ伏せになった私にまたがり、マノンさんが……。マノンさんが……!


 ぷにぃ~ ぷにぃ~


 絶妙な力加減で腰をマッサージしてくるのだ! まるで、肉球で触れてくるみたいにして!


 いくら獣人とはいえ、マノンさんの手は普通の人間と変わらなかった。肉球など存在しない……にもかかわらず、プニプニと極上の感触が腰に走り続けている。


「風呂上がりに受けるマノン式肉球マッサージは、極楽へと誘う」

「はへぇ~……」


 情けない声しか出てこないが、本当に極楽なのだから、仕方ない。完全にマノンさんにペースを握られ、されるがままになっている。


 なぜこんなことになっているかというと、お風呂前に飲まされたドリンクが原因だった。


『仕事終わりには、マノン式ハチミツレモン水が一番だ』


 そんなことを言って、マノンさんがドリンクを渡してくれたのだ。


 せっかく用意していただいたのだからと、一口飲んだが最後。甘~いハチミツと絶妙な酸味の利いたハチミツレモン水が体に染みわたり、私は何も考えられなくなってしまう。


 疲れ果てた細胞が癒され、昇天しそうなほどおいしくて……、いつの間にか身を委ね続けていた。 


 お風呂で背中を流してもらい、頭も洗ってもらい、どんどんと快楽に溺れるだけの時間が増えていく。


 ようやく落ち着いたと思ったら、貴族令嬢らしいフリフリのパジャマを着せてもらい、ふわふわのベッドで極楽マッサージである。


 もうやめてほしい。これ以上の幸せ体験は、私をダメにする……!


 衣食住が充実した、のんびりスローライフの虜になってしまうではないか!!


「マノンさん、これくらいで勘弁してください。私はまだ、正式に妻として迎え入れられたわけでは……」

「気遣いは不要だ、奥方。侍女の仕事をまっとうする、それが私のライオン魂なのだから」

「少しは話を聞いて……クハァーッ!」


 今日一番の肉球マッサージが、極楽というツボに刺さった。


 もう……寝そう……。意識が朦朧としている……。


 自然とまぶたが落ちてきて、夢の中に向かおうとしたとき、プニッと強めの感触が腰に走った。


「奥方、聞いてはならないのかもしれないが、一つだけ質問したい」

「どうされましたか~……?」

「奥方は食事が嫌いか?」


 マノンさんの問いを聞いて、一気に目が覚める。しかし、私はすぐに答えられなかった。


 見た目だけならまだしも、直接体を触ったマノンさんは、あまり食べていないことに気づいているはず。でも、なんて答えればいいのかわからない。


 満足に食べさせてもらえなかったと素直に言うべきか、食が細いと偽るべきか、太らない体質だと誤魔化すべきか。


 どの答えもイマイチな気がして、正解がわからない。私はここに助けを求めてやってきたわけではないのだから。


 マーベリックさまの考えがわからない以上、あまり弱みを見せない方がいいのだけど……、そんな話を急にされても困る。


『ぐぅ~』


 人間というのは不思議なもので、食べ物の話をすると急激にお腹が空いてしまう。いや、忘れていた空腹を思い出す、と言った方が正しいのかもしれない。


 少なくとも私は、急速に空腹状態に陥り、お腹の音を止めることができなかった。


「奥方の体は正直で好きだ」

「私は今日ほど自分の体を恨んだことがありません」


 嫁いできたばかりで至れり尽くせりの厚遇を受けているのに、食事を催促するようにお腹を鳴らすとは。さすがにこれは恥ずかしい。


「でも、よかった。奥方は普通に食事が楽しめるのだな」

「……心配してくれてたんですか?」

「うん、少しだけ。一緒に食事を楽しまないと、家族になった気がしない」


 家族……か。ジャックスさんが身分や地位が関係ないと言っていたのは、こういうところなんだろう。


 同じ屋敷に住む者を家族として扱い、互いに思いやる。きっとここは、そういう優しい家系なのだ。


 あまり心配をかけない方がいいかもしれない。


「少し不作が続いて、満足に食べられなかっただけですよ。痩せていることに深い意味はありません」


 ようやく適度な嘘を思い付いた私は、マノンさんの極上マッサージの刺激に耐えきれず、重いまぶたを閉じる。


「奥方は頑張りすぎている。無茶はしない方がいい。さもないと、がおーーっとライオンの威厳に怯えることになってしまう」

「マノンさんがそう言うなら、気を付けないといけませんね」

「うむ。ちゃんと休むといい。今日の夜ごはんは、きっと肉だ」

「肉ですか……。いいですねー……」

「やはり、疲れた時は肉。疲れてない時も肉。絶対に肉は必要で――」


 あまりにもマノンさんが「肉」と言うから、肉ってどんな味だったっけ、なーんて考えながら、私は意識を手放してしまうのだった。

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