第5話 信仰

 顔を上げた神永先輩は、先生たちにアイコンタクトを送る。

 隣に立っている樋口先輩がなんだか不満そうな顔をしていることだけ気になったものの、僕はやっと解放されると安堵あんどの息を吐いた。それは他の新入生も同じだったようで、隣を盗み見ると青木くんもホッとした様子だった。

「皆さん、良い経験になったかと思います。今度こそ本当に解散です。お疲れ様でした」

 始まった時と同じ教師による解散の号令を受け、僕は立ち上がる。

 そして、我先にと教室を出て行く新入生の流れに押し出されるように廊下へ出た僕は、ポケットからスマホを取り出して時間を見る。

 現在の時刻は17時52分。あの教室に入ってからおよそ一時間半も経っていた。

「災難だったな……」

 青木くんが憔悴しょうすいした様子で呟く。

「まったくだね」

 僕は苦笑交じりで同意する。

「もう帰るよな?」

「もちろん」

 今すぐにでも家に帰りたい。そしてゲームでもして、今日のことを綺麗さっぱり忘れたい。正直な気持ちを伝えると、青木くんに笑われた。

 なんだか一気に日常に戻ってきたような感覚だ。

 二人並んで歩き出す。

 黙っているとさっきまでの光景がフラッシュバックするのだろう、道中は青木くんが終始明るい話題を提供し続けてくれた。それに相槌あいづちを打ちながら歩く。

 下駄箱前までやってきた。

 そのときだった。不意に心配が湧いてきて、僕は立ち止まる。

「どうした?」

 突然立ち止まった僕に、青木くんは不思議そうな顔を向けた。

 なるべく何気ない風を装いながら僕は言う。

「ごめん。用事を思い出した。一人で帰ってもらっていい?」

「構わないけど、用事って何だ?」

「まあ、ちょっとね……」

 意図的に濁す。きわめて個人的な事情なので説明するのは恥ずかしい。

 青木くんは違和感を覚えたようだったが、察してくれたのか、それ以上は追求しないでくれた。

「それじゃあな」

 青木くんは小さく手を上げてから去っていく。

 彼の姿が見えなくなると、僕は「……さて」と小さく呟いて思考を切り替える。

 不意に湧いてきた心配とはもちろん、樋口先輩からの例の脅迫のことである。

 SVH部の説明会に参加しなかった場合、学校中に僕がスケベ野郎だと言いふらすと彼女は言っていた。

 この話が結局どうなったのか、結局、僕は確かめていない。

 樋口先輩が参加者の中の僕に気付いてくれた場合、もしくは、あれが説明会に参加させるための方便だった場合なら構わないが、もしそうでなければ僕の高校生活は終わったも同然だ。変態のそしりを受けながら三年間過ごさなくてはならなくなる。

 普通に考えればパンモロ事件の時と、説明会の時に垣間見えた樋口先輩の人柄からして、彼女がそう簡単に言いふらすとは考えにくい。

 しかし、なにぶん相手側にはあの神永先輩がいる。

 もし仮にどこかで情報が漏れたとして。あの先輩の耳に入った場合、どうなるかを想像するだけで背筋が凍る。早急に樋口先輩に確認して口止めをしておかねば。

 そう決意した時には既に、僕の足は2年3組の教室へ向いていた。足早に向かう。


 到着し、扉の小窓から中を窺う。どうやら樋口先輩と神永先輩はまだ教室の中にいるようだ。二人は教室の片付けをしている。

 音を立てないようにそっと扉を少しだけ開ける。そして、耳を澄ますと二人の会話が聞こえてきた。

「……ねえ、よかったの?」

「何が?」

「何がじゃないわよ。せっかくの説明会だったのに、杏珠ったらSVH部の勧誘ろくにしてないじゃない。よかったの? 後輩できるの楽しみにしてたでしょ」

「いいのよ。カルトからは逃げろって言っておいて、こんな部に勧誘できないでしょ」

 片付けの手を止めず、神永先輩は答える。口調といい、話している内容といい、さっきまでの神永先輩とはまるで別人のように思えた。

 樋口先輩はわざとらしくため息をつく。

「だから言ったじゃん。断れば良かったのよ。あんな頼みなんて」

「そんなわけにはいかないわ。こんな部活を認可して貰った義理があるもの」

「こんなのいいように使われてるだけよ」

「……」

 神永先輩は黙り込むが、樋口先輩の追求は止まらない。さっきと立場が逆である。

「それに、杏珠のあの嫌味なキャラは何よ? まるで悪役じゃない?」

「……そりゃあ、憎まれ役がいた方が効果的でしょ」

「それにしたってもっとやり方があったと思うわよ。……杏珠はいつもそうよね。自分ばっかり泥を被って……」

 とても中に入れる雰囲気ではない。というか、そもそも僕はどうしてここに戻ってきたのだったか。冷静になって考えれば、あの脅迫が方便なことも、樋口先輩が簡単に他人の秘密を話さないことも容易に想像が付いた。だとしたら無駄足だったじゃないか。

 帰ろうと思ったその時、教室の中の樋口先輩と目が合った。

「あれっ? 後輩くんじゃん。どうしたの?」

 見つかってしまったならしょうがない。僕は諦めて教室に入る。言い訳を考えるが、良いものが思いつかなかったので、正直に告げることにした。

「休み時間の件、どうなったのかと思って……」

「休み時間……? ああ。もしかして、あのこと? そんなこと気にしなくても良かったのに。始めからそんなつもりないわよ」

「そうですか、良かった……」

 言ってから、神永先輩の視線に気付いた。

 無言で探るような視線。そうだった。この人もいたんだった。

「……お、お邪魔しましたぁ……」

 何か小言を言われる前に退散しようと、僕は回れ右をする。しかし、歩き出す前に樋口先輩に捕まった。

「せっかく来たんだったら手伝ってよ。杏珠も助かるわよね」

「そうね」

 神永先輩も静かに同意する。邪見にあしらわれるものだと思っていたので、少し意外だった。

「私たちの話、聞いてたんでしょ。だったらまた演技するのも面倒だもの」

「……すみません」

「責めてないから謝らないで良いわよ。……それより、よろしくね」

 神永先輩が笑いながら手を差し出してきたので、僕は反射的にその手を握る。彼女の言葉からは責めるニュアンスが本当に一切感じられなかった。

 どうやら、こっちが本来の彼女のようだ。

「えっと、何をすれば良いですか?」

「んー、とりあえず床のビニールシートを剥がしてもらえる? それが終わったら机を並べてね」

「わかりました」

 それだけなら大して時間はかからないはずだ。ゴネずにさっさと終わらせるのが得策だろうと判断する。

「そういえば後輩くん。名前は?」

 樋口先輩が訊ねてくる。そういえば名乗っていなかった。

南田歩夢なんだあゆむです」

「南田くんね。……それで、今日はどうだった? 手応えはある?」

「……?」

 何のことだろうと少し考えて、はたと思い出す。

 そうだった。パンモロ事件の後、樋口先輩は「自分を変えたいなら」と言って、説明会に誘ってきたのだった。それなのに僕ときたら、他のことに気を取られて今の今までそれをすっかり忘れていた。

 思考している間にも樋口先輩は僕の答えを待ってくれていた。慌てて答える。

「……えっと……どうでしょう……ね? よくわかんないです」

 正直な感想だったのだが、口に出してから「しまった」と後悔した。いくら油断していたといっても、企画した本人たちに対してこの感想は失礼だろう。

 しかし、二人の反応は意外にも「まあそんなもんよね」といったものだった。

「一回聞いただけで人生が変わるって、それこそ詐欺よね」

「嘘くさいことこの上ないわ」

 樋口先輩はともかく、自称教祖の神永先輩がそれを言うのかと思ったが、言葉を飲み込む。ここで失言を重ねるほど僕は愚かではない。

「だったらさぁ、南田くんはどういう人間になりたいの?」

 樋口先輩が重ねて訊ねてくる。

「どういう人間に、ですか?」

「そう。何か変わりたいみたいな空気を感じたから私も誘ったんだけど」

「…………」

 僕は作業の手をいったん止めて、自分の心に問いかける。片手間で考えて適当に答えるのがなんだか失礼な気がした。

「ウチの部はお悩み相談とかもやってて、案外評判なのよ。騙されるつもりで試しに話してみたらどうかしら?」

 答えを渋っていると思われたのか、神永先輩がアシストする。先輩たちも作業の手を止めてくれていた。面倒見がいい先輩たちだ。

 ところで、今の神永先輩の台詞だが、正しくは「騙されたと思って」ではないだろうか? 言い間違えでなかった場合が怖いので追求はしないが……。

「それで、考えはまとまった?」

「そうですねぇ……」

 本題の頭に戻す。

 僕はいったいどんな人間になりたいんだろう? 

 漠然ばくぜんとしたイメージはあるものの、いざ言葉にして答えようとすると難しい。

 だから、パッと頭に浮かんだことをそのまま口にする。

「僕は、別にカルトに引っかからない人間よりも、パンチラしている女性に『パンツ見えてますよ』と躊躇ちゅうちょなく言える人間になりたいんです」

「パンツ?」

 事情を知らない神永先輩が面食らった顔で首を傾げる。今日初めて見る系統の表情だ。少し離れたところで樋口先輩は笑いをこらえていた。

「いや、あの……。パンツは一つの例でして……要するに、周りを気にせず堂々と行動できる人になりたいんです」

 しどろもどろになりながら答える。

 すると、なんとか意味を理解してもらえたようで、神永先輩は「なるほどね」と頷いた。そしてゆっくりと口を開く。

「私たち宗教者がよく使う言葉の中に『信仰しんこう』という言葉があるわ。神を信仰する。教団を信仰する。教祖を信仰する。そんな使われ方をすることが多い言葉だけれど、信仰とは必ずしも他人に頼ることだけを指す言葉じゃないのよ。自分の正義を信じること。それもまた信仰なの。だからね、あなただって本当は信仰を持っている。行動できなかったことを悔いる気持ちが湧いたと言うなら、それが一番の証拠なのよ」

「信仰ですか……」

「あなたの信仰はきっと、あなたが自分の行動に疑問を持ったとき、背中を押してくれる存在のはずよ。自分の信仰に従っていれば、例え失敗したとしても後悔することはないんじゃないかしら」

「……杏珠なんて、電車でお年寄りに席を譲ろうとして断られたら『私は私の神がささやく通りに行動しただけなんだから』なんて言ってごまかしてるもんね」

「うるさいわよ」

 良い感じで終わったところに茶々ちゃちゃを入れられ、神永先輩は真っ赤な顔で抗議する。

 しかし、そんなもの何処吹く風で樋口先輩は言葉を引き継いだ。

「まあ、あれよ。要するに、自分が正しいと思うことをすればいいんだよ。それで失敗したらその時になってから落ち込めばいい。まずは行動することが大事だよ」

「行動ですか」

「そう。使い古された言葉ではあるけど、勇気を持って一歩踏み出さないと何も始まらないからね」

「なるほど……」

 確かにその通りだ。思い返せば、これまでの僕は優柔不断だったかもしれない。アドバイスを聞いて少し心が軽くなった気がする。先輩たちに感謝だ。

「ありがとうございました」

「いいってことよ」

 そろそろ作業を再開する頃合いだろうと思い、神永先輩に視線を向ける。すると、何故か彼女はむくれていた。

「どうしたんですか?」

 訊ねると、神永先輩本人ではなく樋口先輩が先に答えた。

「ああ、私が良いとこ持っていったからすねてるのよ」

「すねてない!」

 そう言って一人で作業を再開する神永先輩。しかしよく見ると、彼女の頬は確かに膨らんでいた。視線もわざと外してこちらを見ないようにしているようだ。樋口先輩の言う通りなのだろうと推測できる。

 樋口先輩があきれ顔で肩をすくめた。その後、神永先輩に声をかけようと口を開きかけて、何を思ったのか途中でやめた。

 代わりに、先輩は僕に対してアイコンタクトを送ってくる。

 んっ? 何だ? 

 ……ああ、そういうことか。

 意図を察して、僕は無言で頷く。そして神永先輩の元に歩み寄る。

 机を並べているのを手伝いながら僕は話しかける。

「えっと……さっきはありがとうございました。先輩のアドバイス、すごくためになりました」

 すると、案の定、神永先輩は食いついた。

「ほんと?」

「本当です。これから頑張っていこうと思います」

「それならよかったわ」

 そう言って笑う神永先輩の頬からは空気が抜けていた。機嫌を直してくれたようだ。良かった。自分の正しさに従って行動したかいがあった。

 すると、そのやり取りを見ていた樋口先輩は何気ない調子で呟いた。

「……ねえ、南田くんさ。ウチに入部しない?」

「えっ? どういうことですか?」

 唐突な勧誘に面食らう。どういう流れだ。

 神永先輩も驚いた顔を浮かべているものの、止める気は無いようだ。

「言葉の通りよ。正直、困ってるの。今のところちゃんとした部員が二人しかいなくてさ。あんなことやった後に勧誘もしづらいし。だからさ、南田くん。ここらで試しに勇気出して一歩踏み出してみない? ……杏珠だって入部してほしいでしょ」

「そりゃあ、私だって彼が入ってくれたら嬉しいけど……でも、強制はしないわよ」

 そう言いつつ、期待しているのが視線からバレバレだ。何だか照れくさい。

「それに、入部したからってスーパー・ベリーベリー・ハッピー教に入信しないといけないってわけじゃないから。杏珠は確かに教祖だけど、ほとんど形だけみたいなものだから大丈夫。ぜんぜん怪しくないから。ねっ? ねっ?」

 樋口先輩の強引な勧誘に気圧されながら僕は考える。

 他に入りたい部活もないし、先輩たちはいい人そうだし、いったいどんな活動をするのかちょっぴり興味もある。それに、こんなにも必要とされているなら、ぜひ力になってあげたい。

 しかし、

「……えっと、考えときます」

 散々カルトについてレクチャーされた後では、さすがに安易に結論を下せなかった。

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