第3話 開会
あの先輩がSVH部の部長だったということは同時に、彼女が例の自称教祖であることも意味する。
「女っていうのは驚いたけど、なんか普通だな。拍子抜けだわ」
青木くんがボソリと呟き、僕は「そうだね」と同意する。しかし、何でもない風を装いつつも、自分の心臓が
もしかして、僕は動揺しているのか?
青木くんの話を聞いた時点で、彼女がこの場にいるのはある程度予想していた。さすがに教祖というのは想定外だったが、それでも少なくとも彼女が新興宗教の信者であることは想定の範囲内であった。……はずだった。
なのに、僕は今とても動揺している。
なぜだ? 自分に問いかける。
もしかしたら僕は、この期に及んで彼女をまともな人間だと思い込もうとしているのかもしれない。本当の彼女は所詮、新興宗教なんかを信じている頭のおかしい人間なのに、パンモロ事件のことでなまじ良い印象を持ってしまった。
だから、こうして自分の目で見て実感したことで、僕は認識と現実のギャップに戸惑っているのだ。……きっとそうだ。
そう自分に言い聞かせることで、僕はなんとか心の平静を取り戻した。
改めて前方へ視線を向ける。……大丈夫だ。もう動揺はない。
樋口先輩は既にSVH部についての説明を開始していた。
「えー、SVH部と聞いても、新入生の皆さんはピンとこないことでしょう。それもそのはず。このSVH部は日本でこの学校にしか存在しない部活動なのです。SVHとは、スーパー・ベリーベリー・ハッピーの頭文字。つまり、言葉では表すことが難しいほどの幸せを手に入れることがこの部活の目的です」
よどみなく語る樋口先輩。なんとなく、休み時間に話した時の彼女とは違う印象を受けた。あの時の先輩はもっと気安い印象だった気がする。
ふと横を見ると、青木くんが笑いを必死に堪えていた。
間抜けなネーミングをまじめな顔で口にする樋口先輩の姿が笑いのツボに入ったのだろう。時折、クックックと含み笑いが漏れている。
だが、そんなことなどつゆ知らず樋口先輩は続ける。
「具体的な活動として、地域のボランティアへの参加、部活外の生徒も参加できるレクリエーションの企画、外部の講師を招いての勉強会、などを行なっています。自分の幸せを追い求めることはもちろん大切ですが、それだけでは『真の幸せ』とは言えません。自分と周り、その両方が満たされていること。私たちはそれこそが『真の幸せ』だと考えています」
先輩の口調に次第に熱がこもり始める。
「昨今では、文明の発展によって生活が豊かになる一方、人々の心の貧しさが指摘されています。どれだけ便利な世の中になっても、心の貧しさだけは物質で満たすことが出来ません。社会的排除や人種差別などそれらの問題を解決し、互いの『幸せ』を得るためには、やはり人と人とのつながりが必要不可欠なのです」
樋口先輩の言葉は明瞭であると同時に、心に訴えかける力を持っていた。
周りを見回すと、うんうんと頷きながら真剣な目で聞き入っている生徒もいた。それほどまでに彼女の言葉は力を持っていた。
もし彼女の正体を事前に知らずにこの演説を聞いていれば、僕だってSVH部のことを素晴らしい活動をしている部活だと思い込んでいたことだろう。現に、樋口先輩の正体を知っていて、さっきまで笑っていた青木くんでさえ、今は彼女の話に引き込まれている様子だ。
いや、彼は流石にチョロすぎる気もするが……。
「国連が定めたSDGsの17の目標。その1つ目は『貧困をなくそう』です。ここで言う貧困とは、なにも所得や資源のことだけを指しているのではありません。先程言った心の貧しさもそれには含まれているのです。そして……」
「すいませーん。いいですかぁ?」
樋口先輩の演説を遮り、最前列に座っていた新入生の一人が手を上げた。癖っ毛の髪を二つに束ねた女子だった。
「何でしょう?」
遮られたことに気分を害した様子もなく、樋口先輩が訊ねる。
すると、新入生女子は律儀にその場で立ち上がった。身長は150センチくらいだろうか。小柄だ。僕の位置からでは後ろ姿しか見えないが、モコモコとした髪も相まって小動物のような印象を受けた。
小動物女子は空気の抜けたような声で投げかける。
「部長さんが新興宗教の教祖って話聞いたんですけど、それって本当ですかぁ?」
その瞬間、教室内の空気が凍ったのがわかった。
それまでの教室は、樋口先輩の言葉の熱に浮かされていた印象だった。しかし、それが彼女の一言によって壊され、良くも悪くも一気に現実に引き戻されてしまった。
教室の端で「うわっ、あいつ言ったよ」というヒソヒソ声が聞こえた。どうやら僕たち以外にも先輩とSVH部の正体を知る生徒がいたようだ。
しかし、当の先輩はというと、小動物女子の質問に眉を動かすことなく答える。
「ええ、本当です。それを活かして悪いカルト宗教からこの学校の生徒を守るのも、SVH部の活動の一つですから」
小動物女子もおおかた、樋口先輩の鼻を明かすつもりで来たのだろう。しかし、先輩があまりにもあっさりとそのこと認めたので、自分の方がいたたまれなくなったようだ。彼女は慌てた様子で再びその場に座り込んだ。
それを横目に先輩は続ける。
「カルトは幸せの敵の一つです。人間関係を奪い、
「じゃあ、先輩はカルトじゃないんですかぁ」
教室のどこかで誰かがヤジを飛ばした。今回は発信源がわからない。さっきの小動物女子と違って、手を上げて意見したわけではなかったからだ。
そんなヤジにも樋口先輩は律儀に答える。
「カルトの定義にも寄りますが、私の信じる宗教も一般的にはカルト宗教と呼ばれるものです。しかし、だからこそ、私は皆さんにカルトから身を守るためのノウハウを教えることが出来るのです。……少しお話をしましょう。皆さんの中で、この説明会が新興宗教の教祖が開催したものだと知った上で参加した人はいますか? 良ければ手を上げてください」
ポツポツと手が上がる。こんなにいたのかと驚きつつ、僕と青木くんもつられて手を上げた。
すると、先輩はそれを見て大げさにため息をついた。
「これが本当の宗教勧誘であれば、皆さんはこの教室に足を踏み入れた時点でゲームオーバーです。手を上げた皆さんが本来取るべきだった対応は、宗教がらみだとわかった時点でこんな集まりには参加せず帰宅することでした。危ないとわかっているものには関わらず逃げる。これが鉄則です」
「騙されるわけないだろ」
誰かがすかさず呟くと、樋口先輩はそれにも耳ざとく食いついた。
「そうやって、自分だけは絶対に騙されないと高をくくっている人間こそ、カルトにとっては格好のカモです。自分の考えに絶対の自信がある人間は、一度信用させてしまえば自分の目の前にある道が正しいと勝手に思い込んでくれる。騙すのにこんな楽な相手は他にいません」
反論する者は誰もいなかった。樋口先輩の演説は次第にヒートアップしていく。
「いいですか。そもそも日本人は一般的に宗教に対する知識が不足しているのです。毎年クリスマスを祝い、正月は神社で
樋口先輩の熱弁が終わると、教室がしんと静まり込む。
流石の樋口先輩もしゃべり疲れたのだろう。彼女は自分のカバンから水の入ったペットボトルを取り出し、キャップを開けて一気に飲んだ。
喉が潤うと、樋口先輩はペットボトルをカバンにしまい、演説を再開しようと新入生を見回す。その時だった。
「……質問です。よろしいでしょうか?」
僕のななめ後ろから声が聞こえた。僕は振り向く。
ここで手を上げたのは、またしても女子だった。少しアッシュの混じった艶のある長い黒髪と、はっきりとした目鼻立ち。それと白い肌。間違いなく美人なのだが、隙がなさ過ぎてなんとなく近寄りがたい印象を受ける女子だった。
皆の視線が今度は彼女に集まる。
「どうぞ」
樋口先輩は余裕たっぷりの顔で促す。
美人女子はその場で立ち上がった。堂々とした立ち姿だ。
「先輩は先程、カルトに対しては逃げることが鉄則と言いました。しかし、カルトに対しては、信頼できる誰かに相談すること。頼ることも大切かと思います」
「そうですね。それも効果的な対処法です」
「では何故、さっきはそれを先に勧めなかったのですか? ここは高校です。同級生、先輩、教師など、気軽に頼ることの出来る人間が多くいる環境です。それに、逃げるという選択が取れるのは、そこが危ないとあらかじめわかっている場合だけです。カルト対策と言うなら、明らかにこちらの方が重要に思えるのですが……」
皆の視線が今度は樋口先輩に向く。
「それは……」
どんなヤジにも動じていなかった先輩がここに来て始めて焦りの表情を見せた。言葉が途切れる。
言葉の出ない樋口先輩とは対照的に美人女子は続ける。
「一つの居場所に依存させ、孤立させ、他の逃げ場を奪う。これこそカルトの典型的な手口です。先輩はそれを意識して逃避を先に提案したのではないですか?」
「……それ、は……違います」
樋口先輩が言葉を絞り出すが、美人女子の追求は止まらない。今度は資料のようなものを取り出し、読み上げる。
「こんなデータがあります。2018年の警察庁の統計によると、宗教勧誘の被害者で一番多いのが大学生で46.8%。次に多いのが六十代の28.5%。そこから七十代以上の26.9%。五十代の17.3%。四十代の5.1%。と続き、高校生に至っては0.7%です。宗教について学ぶことが、高校生にとって本当に必要なのでしょうか? 自分たちの教団に新入生を引き込みたいだけではないですか?」
スラスラと淀みのない指摘。あんな資料をたまたま持ち歩いていたとは思えないので、事前に準備していたのだと思うが、そうなると彼女は何者だ?
「…………」
ここで樋口先輩はついに完全に黙り込んだ。教室中の視線が一斉に彼女に集まる。そのほとんどが非難の視線だ。
完全に決着はついたように見えた。あとは樋口先輩が何と答えるかだ。僕たちはその時を無言でじっと待つ。
すると長い沈黙の後、樋口先輩がやっと口を開いた。
「……そう思うのは自由です。それでは時間になりましたので終わります」
樋口先輩は無理やり議論を打ち切ると、そそくさと荷物をまとめて逃げるように教室から出て行ってしまった。
僕はそれを釈然としない気持ちで見送る。
要するに、樋口先輩は本当に僕たちを騙すつもりでこの説明会を開き、あの女子に見事撃退されたと。そういうことだろう。
論破した美人女子に再び視線を向けると、当然といった表情でたたずんでいた。
やがて彼女に対し、どこからともなく拍手が沸き起こる。僕も同調して手を叩いた。
「これでいいですか?」
拍手の中、美人女子はおもむろに後ろの扉に振り向くと、そこに立つ先生たちに問いかける。すると、三人の中で一番恰幅の良い中年の先生が口を開いた。
「充分です。ありがとうございます」
「それでは続きをしても?」
「もちろん」
「ありがとうございます」
先生の返事を聞き、満足そうに前方へ歩みを進める美人女子。
主催者である樋口先輩がいなくなったことで説明会は終了したはずなのに、僕たちは誰一人として立ち上がることができなかった。
そして、さっきまで樋口先輩が立っていた位置までやってきた美人女子は、僕たちを見回してから、ゆっくりと口を開く。
「皆さん、今回は危ないところでした。ああいった人たちは社会に出ればどこにでもいますので、何かあれば必ず誰かに相談をしてください。さっきはあのように言いましたが、もちろん、危ないと思ったらすぐに逃げることも本当に重要です」
さっきまでの詰問で出していた声とは違う、落ち着いた声音だった。雰囲気もさっきまでの隙の無い感じとは打って変わって、親しみやすさを感じられるようになっていた。元の顔が整っているので愛嬌があるだけで美人度十割増しである。
それにしても、彼女はいったいどこの誰なのだろうか? 制服を着ているが、彼女は本当に僕たちと同じ新入生なのだろうか? 先生とのやりとりも気になる。
悶々としていると、美人女子は朗らかに続けた。
「せっかくですし、ああいった人たちに騙されないための講義をここでこれから行ないましょう。もし良ければ残っていてください」
先生たちに視線を向けるが、止めようとする様子はない。どうやら折り込み済みのようだ。そうか。さっき言っていた「続き」とはこのことか。
「強制はしないので、帰る人はお気を付けて」
美人女子が手を振ると、新入生たちは周りを伺いながらまばらに立ち上がり始めた。そして、そのまま残る者と帰宅する者の二つに分かれる。
「おい、どうする?」
横にいた青木くんが訊ねてくる。
「せっかくだし聞いて帰ろうよ」
樋口先輩の言葉には力があり、納得できる発言も多かった。美人女子の助けが入らずにあのまま続けられていれば、正直、僕だって騙されなかったとは断言できないだろう。騙されないための講義をしてくれるというなら是非参加したい。
青木くんも同じ思いだったようで、僕の意見に賛同してくれた。
しばらくして人の流れが収まる。教室に残ったのは僕らを含めて16人だった。
「16人ね……」
僕らを見回した美人女子はボソリと呟き、ニヤリと笑った。
その瞬間、僕の背筋を冷たいものが走った。何だ? 今のは?
「それでは講義を始めようと思うのですが、その前に自己紹介を……」
そう言うと、美人女子は一呼吸置き、唇をペロリと小さく舐めた。僕たちの視線が彼女に集中する。
期待の目。
注目を集めることが心地良いのだろう。美人女子はやたらゆっくりと時間をかけて息を吸うと、心底楽しそうにこう宣言した。
「新入生の皆さん、初めまして。私こそが正真正銘。本物のSVH部の部長兼、スーパー・ベリーベリー・ハッピー教教祖。2年3組、
……んっ?
彼女の発言に対して咄嗟にリアクションを取れた新入生は僕も含めて一人もいなかった。皆一様に、期待に
「おつかれ。もういいわよ」
ぽかんと口を開け呆気にとられる僕らをよそに、美人女子もとい神永先輩は、教室前方の扉を開ける。すると、扉の隙間から、出て行ったはずの樋口先輩が申し訳なさそうにひょっこりと顔を覗かせた。
「ゴメンね~」
謝罪と共に教室に入ってきた樋口先輩は、神永先輩の元までやってきて立ち止まる。どうしてあの二人が並んでいるのか。
「なんで謝るのよ?」
「杏珠になわけないでしょ。かわいそうな後輩たちに」
「最初からそういうシナリオだったはずよ」
「そうだけどさぁ……」
二人の様子はなんだか親しげに見えた。
めまぐるしい展開に未だに理解が追いつかない。何が正しくて何が間違っているかでさえ、僕にはもうわからなくなっていた。
ただ、どうやら僕たちは騙されたようだということだけは冷静に理解できた。
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