【挿話】奪われたドールと捨てられた犬
(1)
今から十年前の春のあの日――――――――――
昨夜の大雨が嘘だったかのように晴れ渡ったその日。
俺は真新しい中学の制服を着て、これまた新品同様の学生鞄を持ち、桜の花弁が風と戯れる歩道を、一人呑気に歩いていた。
春爛漫。気分もそれなりに爽快。肌を撫でていく風は穏やかで、ぽかぽかとした陽気が眠気を誘う、とてものんびりとした麗らかな午後だった。
一緒に帰っていたダチとは一本前の通りで別れ、家までの最短コースとなる公園へと進路をとる。
すべり台とブランコ、そしてベンチしかないような小さな公園。
だが、その公園の一番の自慢は大きな桜の木で、「昨夜の雨で、結構散ったんだろうな」なんてことを考えつつ、俺は公園を通り抜けようとした。
たぶん、普段の俺なら何も思わなかったに違いない。
たとえそこにピカピカの赤いランドセルを背負った女の子が、桜の木を見上げるようにして立っていたとしても。
しかしその日の俺は違った。
昨日の大雨のせいで折れたあの枝が欲しいんだな…………と妙な察しをみせ、さらには、仕方ねぇから取ってやるか…………とまで思った。
今から思えば完全に天変地異の前触れだ。
だが、この時の俺はとてもご機嫌だったのか、それこそが虫の知らせというべきものだったのか、それとも逆らえぬ運命にただ呑み込まれただけなのか、ほとんど木の皮一枚でぶら下がっていた桜の枝を、少女のために取ってやった。
そしてあの台詞を聞くことになる。
『“桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿”って知らないの?』
このクソガキが!と思ったことは致し方ないことだと思う。
俺もまだ中学生だった。完全なる馬鹿呼ばわりの台詞に対し、寛容になれるほど大人でもない。というか、正真正銘のガキだ。だからこそ大人げなく、俺の腰ほどしかない少女相手に一言、二言、言い返してやろうと見下ろした。
が、次の瞬間―――――――――俺は用意していた言葉を完全に見失ってしまっていた。
そう、この少女のガラス玉のように澄んだ青い瞳に……
光に晒すと鳶色にも見える不思議な黒髪に……
白磁の陶磁器の如き真っ白な肌と、そこで淡く色付く柔らかそうな頬と唇に……
――――――――俺は完全に魅入られていた。
俺から見れば、まだ小学一年のガキでしかない少女相手に。
だけど、こんなにも綺麗な女の子が世の中にはいるんだな…………と、俺は柄にもなく思った。
ちなみに俺はロリコンの趣味はない。そこは断じてだ。
しかし、俺は言葉もなく少女を見つめた。
おそらくとんだ呆け顔だったと思う。
そんな間抜け面で無言となった俺を見上げ、その少女は『お兄ちゃんは桜を切るお馬鹿さんだけど、わたしが一番ほしいと思ったものをはじめてくれたとても優しいお馬鹿さんね。ありがとう、お兄ちゃん』と、嬉しそうに告げた。
俺が差し出した桜の枝を受け取りながら。
それから聞きもしねぇのに、『この花はね、わたしと同じ名前なの』と、面映ゆそうに教えてくれた。
『そうか、サクラっていうのか…………』と呟くように返せば、『そうなの。お気に入りなの』と頭上の桜が色褪せて見えてしまうほどの満開の笑顔を返してくれた。
それだけで、俺は不思議な満足感と幸福感に包まれていた。
桜舞う春真っ盛りである公園の、桜の木の下で。
風に踊る花片に、視界と心を薄紅色へと染め上げられながら…………
だがそれは――――――
一瞬にして真っ赤に塗り潰されることになる。
公園の前に止まった一台の黒い車。
今なら見ただけで車種がわかるが、その頃の俺の認識はただの黒い車だった。
そしてそこから降りてくる二人組の男。
黒いスーツ。ノーネクタイ。サングラス。俺の記憶に留まったのはその程度のこと。
ほんとお粗末すぎる記憶力だと、我ながら情けなくなる。
しかし、この時の俺はそれだけを覚えるだけでも必死だった。というより、目の前の光景を、我が身に降りかかったこの出来事を、信じられずにいた。
はらりと地面に落ちた桜の枝。大した抵抗もできず、連れ去れていく少女。それを咄嗟に阻止しようとした俺の腹に突き刺さったナイフ。
そう、この日はとても気分がいい春の日だったんだ。ほんの数分前までは――――――――
なのに、ぽとり、ぽとり、と俺の腹から垂れた真っ赤な鮮血が地面に水玉を作り、『ありがとう』と言ってくれた……自分の名前を教えてくれた………桜なんかよりももっと綺麗な満開の笑顔を見せてくれた少女が、今奪われようとしている。
意味がわからない。
こいつらが誰なのかも、その目的も何もわからない。
ただわかるのは、少女が俺の目の前で連れ去られようとしていることだけだ。
『そ、その子を離せ…………』
完全なる負け犬の遠吠えのような啖呵。
颯爽と公園を走り抜け、今にも少女を車に押し込めようとする奴らに蹴りの一発でもお見舞いしてやりたいのに、その場に立っているのがやっとの状態だ。
『お兄ちゃん、逃げて!』
遠のきそうになる意識の向こうで、少女の――――――サクラの声が聞こえた。
馬鹿か………こういう場合は『助けて』って言うんだよ………
だいたい逃げるのはお前の方だ………この馬鹿野郎が………
そんな言葉だけが頭の中で空回る。
ぼんやりと霞んでいく視界の中で、車のドアが閉まり、そのまま花片を巻き上げながら走り去っていく黒い車。
『行くな……馬鹿……………その子……を…………置いてい……け…………』
追いかけるために前へ出したはずの足は、そのままもう片方の足と縺れて、俺は地面に突っ伏した。
腹に刺さったナイフが痛い。
それよりもサクラを救えなかった心が痛い。
絶対、絶対、俺がサクラを助けるから。
必ず俺がサクラを見つけるから。
頼むから、本当にまじで頼むから、それまで必ず無事でいろ………
約束だ………………
俺の目に、最後に映った光景はサクラが落としていった桜の枝。
俺がサクラのために取ってやった一枝。
届かなったサクラへと手を伸ばすかのように、俺は薄れゆく意識の中でその枝に手を伸ばす。
その刹那―――――――――
その桜は、俺の記憶は、真っ赤な鮮血に染り、暗転した。
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