(9)
屋敷の中は、ひんやりと涼しかった。
汗だくの身体に鳥肌が立つほどに。
いくら丈夫さだけが取り柄とはいえ、さすがにこれは風邪を引くんじゃねぇのか?夏風邪って質が悪いって聞くしな――――――などと、らしくないことを考える。
というか、そんなどうでもいい日常あるあるを考えてしまうほど、目の前の状況は俺の日常から酷く現実離れしていた。
外観のおどろおどろしさから一転、幽霊屋敷の中は真新しい壁紙が貼られており、廊下には濃紺に金糸の刺繍が施された絨毯が惜しげもなく敷かれていた。
「靴のままでどうぞ」と言われても、正直気が引けてしまうくらい塵一つ落ちていなければ、シミ一つない。
俺は目利きではないため、廊下や階段の壁にかけられた絵画の価値なんてさっぱりわからないが、それでも俺の安月給では到底手が届かない代物だろうということだけはわかる。
なるほど…………蔦一つ取り払われている形跡がなかったあの補修だか、現状維持だかの工事は、すべて内装工事だったのか………と、背中に定規でも突っ込んでいるのかと確認したくなるほどに、まっすぐと伸びた執事の背中の後をついて行きながら俺は一人納得した。
そんなことを考えている間に、早々にある部屋の前に着いた。と同時に、この屋敷の執事である川上さんが俺へと振り返る。
「響様、大変申し訳ございませんが、こちらで少々お待ちくださいませ」
「あ、ああ……わかりました」
川上さんは俺の返事ににっこりと微笑むと、ノックもせずにその部屋へと入っていった。
その行動に一瞬驚きはしたが、そういえば、執事はノックをしなくてもいいと聞いたことがあるようなないような…………なんてことが脳裏を掠め、ま、俺にとってはどうでもいい話だけどな、と掠めた思考がそのまま流れていくのを見送った。
しかし、この川上さんの行動の答えは、至極単純なものだったようだ。
部屋から出てきた川上さんの白い手袋をはめた手には、白いタオルと、白のTシャツ。
それらを俺へと差し出しながら告げてきた。
「余計なお世話かもしれませんが、一度あちらにございます洗面室でお顔をお洗いになり、このタオルで汗を拭われてはいかかでしょうか。このTシャツは私の私物となりますが、もしよかったらお着替えくださいませ。そのままだと、風邪を引きかねませんので」
つまり、この部屋は執事川上さんの私室。そして俺のためにタオルとTシャツの替えを取って来てくれたらしい。
執事にTシャツ。それもまた妙な取り合わせに思えるが、執事であろうともオフタイムにはTシャツだって、パーカーだって着るだろうと、自分の偏見をかなぐり捨てる。
それにしても、さっきちょっと考えていた日常あるあるを、完全に読まれてしまったようで少々気恥ずかしく思うが、ここは有難く借りることにし、「すみません。助かります」と頭を下げた。
そう、馬鹿は風邪を引かないなんてことはないのだ。俺だって風邪くらいは引く!
そうして俺は、これまたどこぞの高級なホテルの洗面室かと見紛うほどの一室に手持ちの爆弾と一緒に入り、鏡面の前に設えらえた広い台の上に、慎重に慎重を重ねてまるでお供えでもするかの如く丁重に爆弾を置くと、身体中からすべての空気を吐き出す勢いで盛大にため息を吐いた。
時刻は11時57分。目の前の爆弾に関して言えば、まだ時間はある。
ここにあるらしいもう一つの爆弾についてはどうだか知らないが………………
とにかく風吹に手早くメールで現状を報告し、本部への連絡を頼んでから、俺は急ぎ顔を洗い汗を拭った。
「こちらの部屋になります」
有難く借りたTシャツへ着替え、案内された部屋。
当然のことだが、先程の川上さんの私室に比べれば、随分と佇まいが重々しくなった扉の前に立ちながら――――――鬼が出るか、蛇が出るか、と考える。
間違いなくこの扉を開ければ、お嬢様と爆弾犯が出てくることだけは確かなのだが、どちらが鬼で、どちらが蛇となるのやら………などと思ってしまうのは、先程この執事の川上さんから『現在当家のお嬢様が色々ともてなされておられる最中でございます』なんて台詞を、にこやかな笑み付きで聞いたせいもあるのだろう。
実際、この川上さんの態度に慌てる素振りは一切見えない。なんせ、悠長に着替えを勧めてきたくらいだ。どう見ても切羽詰まった感はまるでない。
そのためか、今から爆弾犯と対峙するというのに、俺自身の闘争心というか、やる気というか、本来なけなしの正義感から湧き出してくるべき卑劣な犯人への怒り…………みたいなものが何一つとして奮い立ってこない。
むしろ…………守るべきはずのお嬢様が爆弾犯以上に鬼だったら目も当てられねぇな――――――なんてことを考えてしまう始末だ。
いやいやこれも暑さにやられ過ぎたせいだと自分を正当化して、俺は川上さんに小さく頷いてみせた。
「お嬢さま、ご用命通りお客様をお連れいたしました」
やはりノックなしで部屋の扉を開け、部屋の中に入っていった川上さんの声が微かに聞こえてくる。
それに応答する声はとてもか細く、何を言っているかは定かではないが、すぐに扉が開いたところをみると、あっさりと入室許可が下りたらしい。
「響様、どうぞお入りください」
そう招かれるままに入った部屋の中。
そこはまるで西洋のお姫様の部屋のようで、壁紙から家具に至るまですべてクリーム色に統一された、とても愛らしい部屋だった。
だが、その広さは全然愛らしさの欠片もなく、俺のアパートの部屋の四つ分は優にある。
そしてその部屋の中央に設えられた応接セットには、この部屋の内装とは不釣り合いな、色褪せた黒のTシャツと黒のズボンを履いた男が畏まるようにして座っている。
年頃は三十代後半。中肉中背で短髪。目は糸のように細く、鼻は丸く、唇は薄い。
どうやらこいつが
執事川上さんが言っていた通り、この爆弾犯はしっかりとおもてなしを受けている最中のようで、テーブルの上には高級そうな紅茶と、お洒落なケーキスタンドに並べられた色とりどりの洋菓子と一口サイズのサンドウィッチ。その横には生クリームたっぷりのホールケーキで置かれており―――――――
これは立派なお茶会だな…………と、呆れすら感じてしまう。
だが、この一見楽しそうなお茶会にも、違和感ともいえる異様さはそこかしこにあり、男が妙に畏まって行儀よく座っているように見えたのは、奴の手首と足首がしっかり結束バンドで固定させているからだとわかる。
さらにはテーブルの上を彩る洋菓子の横に堂々と置かれた大きな菓子箱は、俺の持っているコレと同等のものらしく、長い筒状のものと導線らしきものがチラリと顔を覗かせている。
しかし、そんなものよりもずっと俺の目に異様に映ったものは、この爆弾犯をおもてなし中だという白いワンピース姿のお嬢様自身。
僅かに開けられた窓の傍に立ち、おそらくそこから俺のことを覗いていただろうことは見て取れる。
身長は小さく、155センチ程でかなりの細身。俺が外から見た子供のような人影は、このお嬢様で間違いないだろう。
だがしかしだ。これはどう判断すればいいのだろう。
外の光に照らされた部分の髪が、綺麗な鳶色にも見える不思議な漆黒の長い髪。
それが彼女の顔にまで、まるで黒いベールのように覆いかぶさっており、ぶっちゃけこっちを向いているんだか、後ろを向いているんだかわかりゃしない。
昔、こんな幽霊が出てくる映画のDVDを観たよな。うん、まさしく幽霊屋敷。これはこれで十分にホラーだ………………
そんな感想が漏れ出してくるほどに、そのお嬢様の髪型というかスタイルは、斬新を通り越して奇抜だった。
とはいえ、綺麗に梳かれた髪は光に淡く輝き、まったくと言っていいほど、あの映画のようなおどろおどろしい感じはしない。
それでも異様であることに変わりはなく、俺は一瞬どう声をかけようかと迷った。
が、その刹那――――――――――
薄く開けられた窓から入り込んだ悪戯好きな風。
その風はレースカーテンを気ままに躍らせ、お嬢様の長い髪をもふわりと宙へと舞い上がらせた。
不意に曝け出されたお嬢様の素顔。
瞬時、重なり合った目と目。
それは僅か数秒の出来事。
しかしこの俺が見間違えるはずがない。
ガラス玉のように澄んだ青色の瞳――――――――
俺があの日から探し続けたあの瞳――――――――
真っ赤な鮮血に染まったあの日の記憶が、一気に呼び起こされる。
あぁ、彼女がいた…………
俺の目の前に、生きて…いた………
今、運命の歯車が回り始める音を――――聞いた気がした。
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