(2)

 ぼんやりと目を開ければ、そこは白く無機質な空間だった。

 身体はまったくといっていいほど動かず、頭も回らず、ただただ空虚だけがそこにあった。

 どうやら俺は生死を彷徨っていたらしい。

 しかし、時間というものは残酷で、ゆっくりと確実に現実を俺に突きつけてきた。

 白く無機質な空間と思われた場所は病院の個室で、俺の身体が動かないのは死にかけたせいで、頭が回らないのは投与されていた薬のせいもあるが、俺の心が受けた痛みに堪えきれず、ちょっとした自己防衛機能が働いたせいだった。

 それでも次第に身体は痛みを感じ始め、頭は残酷な記憶を再生し始める。

 そしてすべてを取り戻した俺はベッドの上で盛大に暴れた。身体に繋がるチューブやらコードやらを引きちぎる勢いで、思い出した現実に俺は発狂したように泣き喚いた。


 それは俺が目覚めてちょうど三日目のことだった――――――――――

 


『響 剣也くん、少しは落ち着いたかな?』

 散々暴れ倒した俺に、そう言って声をかけてきたのは、二十代後半といったくらいの若い刑事。

 長身で細身。けれど身体はそれなりに鍛えているらしく、スーツに着られている感はまるでない。

 そしてその容姿は、刑事にしておくのがもったいないほどにとても整っており、華やかさもある。

 逆に、彼になら捕まりたいという女性犯罪者が出てくるのではないかと、余計な心配をしてしまいそうなほどだ。

 とはいえ、目の前にどんなイケメンが現れようが、俺にとってはただの野郎の刑事。

 それにこの時の俺は、散々暴れたせいで開いた傷口を医者と看護師に押さえつけられながら処置され、その後念入りにチューブとコードで身体を繋ぎ直された挙句、ご丁寧に拘束具まで手首と足首に付けられてベッドに固定されていた。

 落ち着いたというより、ねじ伏せられたと言った方が正しい。

 そんな不服を俺は無言で返し、そっぽを向いた。といっても、俺にできる唯一の抵抗が、それしかなかったとも言えるのだが………………

 それでもその若い刑事は、俺の心情を察したらしい。俺の態度に怒り出すこともなく、こう続けた。

『君が自分を責める気持ちはわかる。たとえ中学生とはいえども男だからね。大事な子を目の前で奪われたとなっては、暴れたくもなるってものだ』

『……………………』

『でもさ、ここで暴れていても彼女は助からない。事件発生からもう一週間も経っている。一刻も早く彼女を助け出したいのは、我々も同じなんだ。だから協力してい欲しい。君は何を覚えてる?実際にあの公園で何があったのか話してくれ』

 俺は逸らしていた顔を若い刑事へと向けた。するとその刑事は、まるで人馴れしていない野生動物が、初めて人の手から餌を食べたかのような、感動と嬉しさを綯交ぜにした顔で俺を見ていた。

 そして、改めて警察手帳を取り出し告げてきた。

『私の名前は本宮もとみや まもる。しばらくは君の警護として傍にいる。だから仲良くやっていこう』

 ――――――――――俺を警護?

 そう思った時、俺はようやくこの状況の異様さに気が付いた。

 普通の中学のガキならば一番に思ってもおかしくことを、この瞬間までまったく考えもしなかった自分に呆れというか、薄情さまで感じてしまう。が、俺もまた普通ではなかったのだとここは早々に割り切ることにする。

 しかし一度気が付いてしまえば、今更それを見て見ぬフリなどできるわけがない。というより、中学生である俺にとって、その存在が当然のように傍にいることが日常であり、今の自分を保護する絶対的存在でもあるのだから―――――――

 だから聞いた。本宮刑事の質問などそっちのけで、まずはこの異様さを正すためにも。

『俺の………親はどうした?』

 本宮刑事は形のいい眉を下げて少し困った顔をしたが、ここで誤魔化すことは得策ではないと判断したのだろう。

 事実をありのまま、端的に答えてくれる。

『ここにはいない。そして君はしばらくご両親とも弟さんとも、お友達とも会えない』

 その返答にショックを受けることはなかった。だが、疑問だけはあった。だからそれをそのまま返す。

『どう……して?』

『君の巻き込まれた事件が、とても厄介な事件だからだよ」

『どんな風……に?』

 何度も言うが、生憎この頃の俺は中学のガキだった。大人の事情を察して、敢えて聞かないでおくという選択肢も持ち合わせていなければ、遠回しに聞くというというスキルも当然持っていない。オブラートがどこに売っているかも知らない。そもそもオブラートとは何ぞや?といった具合だ。

 理解できなければ、理解できるまで何度でも聞く――――――――――

 それがこの当時の俺が絶賛受けている教育方針だった。普段の授業でそれを実践したことはないが、今こそその教えに従うべきだろう。文句があるなら学校の先生どもに言え!とばかりに、質問を重ねた。

 本宮刑事は一度真っ白な天井を見上げ、それから空しか見えない窓へと視線をやり、それから俺に視線を戻した。

 告げるべき言葉を方々からかき集めたらしい本宮刑事は、殊更ゆっくりと慎重に言葉を選びながら話し始めた。

『連れ去られた少女の名前は、綾塔咲良あやとうさくら。現在六歳の小学一年生だ。そして彼女のお父さんはとても有名な物理学者であり大学教授でね、数々の研究論文を世に送り出している偉い先生なんだ。人類にとってとても役に立つものから、人類を破滅させる恐れのあるものまで幅広くね』

『それって………………』

『そう、綾塔教授はとても優秀なんだよ。そして悪いことを考える人間にとっては、とても貴重な人物とも言える」

『だからあいつらは……サクラを誘拐して……教授に言うことを聞かせる気……なんだな……』

 刺された腹の傷が痛むため、意気込んでは話せない。それでも中学生なりに辿り着いた答えに俺の鼻息が荒くなる。

 それに苦笑しつつも、『君は敏いな。ここで身代金目的ではなく、すぐに教授の頭脳が目的だと気付くのだから…………』と本宮刑事は俺の答えに及第点を付けた後で、再び言葉を探すように床へと視線を落とした。

 果たしてそこに探していた言葉が落ちていたのかは不明だが、本宮刑事は好奇心と罪悪感の塊となっている中学生相手に出し惜しんでも仕方がないと決断したようだった。

 徐に顔を上げて、俺を真っすぐに見つめると、本宮刑事は答えと問いかけを同時に口にした。

『犯人の目的は、教授がまだ表には出していない研究論文だ。それが咲良ちゃんとの交換条件となっている。教授はそれを渡してもいいと言っているが、この論文が犯人たちの手に渡れば、事は日本だけの問題では済まされなくなる。したがって我々はのらりくらりと理由をつけ、犯人からの要求を躱しているところだ。しかし、教授の話によれば、咲良ちゃん自身もまた、その論文の保管場所の鍵を握る一人でもあるという。今は犯人たちにそれをそれとなく匂わせて、咲良ちゃんの命を繋いでいる状況だが、それもいつまで持つかわからない。実際犯人からは、咲良ちゃんがそれらしきものを所持している様子はないという内容の連絡も来た。そこで質問だけど、君はあの時、咲良ちゃんが連れ去られる寸前に、彼女から何かを預かったり、聞いたりはしていないかな?』

『えっ………………』

 きょとんと呆け顔になった俺に、本宮刑事は慎重さの中にも焦燥を滲ませて、噛み砕くように告げた。

『君は今、警護対象者だ。その理由は、犯人たちが君を狙っている可能性があるからだよ。さぁ、よく思い出して。咲良ちゃんから君は何かを預かったりはしていないかな?論文の保管場所の鍵、もしくはそれに繋がるヒントとなる言葉を――――――』


 しかしこの時、本宮刑事の言葉を聞きながら、俺はまったく別の事を思っていた。



 だったら今すぐ俺を連れ去ればいい。

 そして、サクラのいる所まで連れて行ってくれ―――――――――と。

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