21:夜明け前
副団長補佐・ヤン殿の弔いを終えた後、僕はエスメラルダに割り当てられた客室まで戻ってきていた。
そこで待っていたのは囮として十分に勤めを果たしてくれた使い魔・ぐーちゃんだ。魔物に強く嚙みついたせいか、若干口元の作りが歪んでいる。
「ご苦労様。助かったよ」
着せていた黒のローブを回収し、本来のぐーちゃんの姿へ戻すべく、その体をこねくり回す。
エスメラルダが描いた“想像上の生き物”を元に作られたぐーちゃんは、中々不思議な姿をしている。でっぷりとした胴に、短い四本の脚。立った耳は大きく、この世界の動物で例えるならば犬に一番似ているけれど、それにしては体が小さく鼻先が潰れているのだ。
記憶を頼りに絶妙な愛らしさを醸し出すぐーちゃんの姿を作り上げる。一通り整えたところで、僕はレディ・ジークリンデを呼んだ。
「レディ、エスメラルダを出してくれ」
『わかっていますわ』
闇の中からにゅっと現れたレディは、右の手に持っていたハンカチーフを伸ばすように広げていく。どんどん大きくなっていくハンカチをベッドの上に置き、ベッドを全て覆えるほどの大きさにまでなった瞬間、レディは素早い動きで自分の手元にハンカチを引き寄せた。
――影のハンカチがなくなったベッドの上には、一人の女性が横たわっている。
ブロンドの美しい髪。長い睫毛に縁取られた閉じた瞼。すぅすぅと安らかな寝息を立てる少女の名は、エスメラルダ。
彼女はレディ・ジークリンデの結界の中で、安眠を貪ってくれていたようだ。
『まったく、ずいぶんとのんきに寝ていますわね』
「それでいいのさ」
エスメラルダの体勢を整え、毛布を掛けてやる。
魔法で眠ってもらっているから、もう数時間は目を覚まさないだろう。
『ジル。小娘……エスメラルダの夢は、本当に預言でしたの?』
レディの問いに、僕は彼女の寝顔を見下ろしながら頷いた。
「おそらくはそうだろうと僕は思っているが……彼女本人はずいぶんと自信がなさそうだったからねぇ。夢と言っていたし、今までの預言とは何かが違ったんだろう」
僕自身としては彼女の夢が正しい預言であると確信し、強引な手に打って出た。実際彼女の夢は正しい預言であったけれど、当の本人は魔王封印の旅のときとは打って変わって、ずいぶんと自分の夢に自信が持てないようだった。
預言の力がどのような力なのか、エスメラルダ以外には誰も分からない。予知夢を視ることができる神子は度々現れるけれど、彼女のように正確かつ詳細に未来を視ることができる神子は他にはいないからだ。
エスメラルダ本人は預言の力を失ったと言っている。しかし世界で唯一と言っていいほど強大な力が、そんなにあっけなく失われるとは僕には思えない。確かに以前と比べて日常的に預言を授かることはなくなったのだろうけれど、まだ彼女の中に力は残っているのではないか――というのが僕の仮説だ。
だからこそ、今回の夢の話も正しい預言であると考えた。エスメラルダはまだ、預言の神子である、と。
――そしてそれ以上に、僕はきっとエスメラルダのことを信じたかったのだと思う。
『それでも、ジルは信じましたのね』
「そういう君こそ、エスメラルダの夢の話を聞いて、彼女の話を信じたからこそ僕のところまで連れてきたんだろう?」
逆に問いかければ、レディ・ジークリンデは意外にも素直に首肯した。
『そうですわね。自信はなさそうでしたけれど……嘘や冗談を言っているようには思えませんでしたから』
少し気難しい部分もあるけれど、レディは基本的には素直で他人を受け入れる器量のある淑女だ。僕に執着するのも恋心からでなく人間への行き過ぎた興味が故で、恋する自分という
人間と契約を結ぶような闇の住人は、一言で言えば好奇心が旺盛な物好きだ。向こうの世界では後ろ指を指されるような変わり者だろう。
闇の住人からしてみれば僕たち人間は力を持たぬ下等生物であり、自分たちの力を請う卑しい生き物。そんな奴らの願いに耳を貸し、ましてや力を貸すような闇の住人は例外中の例外だ。
だからこそ、黒魔術師はその数が少ない。正直黒魔術に関しては、才能があるかどうかより、力を貸してくれる闇の住人と出会えるかどうかの運が全てだ。
僕は運がよかった。レディ・ジークリンデに出会うことができたのだから。彼女と出会えていなければこの世界も、大切な人たちも守ることはできなかっただろう。
「ありがとう、レディ。君のおかげで助かったよ」
『小娘のことでジルヴァジオにお礼を言われるのは腹が立ちますわ』
「ははっ」
レディ・ジークリンデはフン、と鼻を鳴らすと闇の中へ滲むようにして消えた。
僕は改めてベッドの横に置かれた椅子に腰かけ、エスメラルダを見下ろす。
――人間とは不思議なもので、目の前で眠る女性を愛していると自覚した途端、今まで以上に相手が美しく見えてくる。好きな相手がキラキラ輝いて見える、とは通俗小説の
僕は人間が抱く感情という目に見えない不確かな“何か”に、強い興味を抱いていた。通俗小説の中で感情は主人公の行動に大きな影響を及ぼし、時には強い感情が規格外の力を与えることもあった。
しかし僕自身は人との関わりが希薄で、自分にも他人にも強い感情を抱いたことはあまりない。だからこそ、わざとらしく声を上げて笑ったり大仰な身振り手振りをすることで、感度の低い己の感情を掻き立てようとした。因果関係を逆にしようとしたのだ。面白いから笑うのではなく、笑っているから面白いのだと脳に錯覚させようとした。
――しかし今はもう、そんな小細工は必要ない。
エスメラルダの姿を見た瞬間に瞳孔が開き、口元は緩み、鼓動が早くなる。彼女を愛おしく思う感情が、僕の体に異常を来す。
(眠っている君を前にしただけでこの調子なのだから、起きた君と対峙したらどうなってしまうのだろうね)
薄っすらと白んで朝の気配を漂わせる東の空を見つめながら、僕は小さくため息をついた。
エスメラルダが起きたら、僕は想いを伝えるつもりだ。きっと彼女は驚くだろう。困らせてしまうかもしれない。しかし恋という厄介な感情を吐き出すことなく一人で抱え続けるなんて高度な真似は、僕には到底できそうになかった。
嫌われてはいないはずだ。僕が刺される夢を見て、血相を変えて駆けつけてくれたのだから。しかし自分で言うのも悲しい話だが、ジルヴァジオ・アッヘンバッハという人物を恋人にするという判断は、相当に血迷っていなければ下せないだろう。それだけの蛮行を重ねてきた自覚がある。
「もう少しおとなしくしておくべきだったか……」
己の過去の振る舞いを反省したところで遅い。それに多少大袈裟に振る舞っていたとはいえ、己の感情を偽り芝居をしていたわけではないのだ。魔王封印の旅でエスメラルダが見てきたジルヴァジオ・アッヘンバッハも、恋人として生活を共にしたジルヴァジオ・アッヘンバッハも、全て本物の“僕”だ。好かれるための努力はもちろん惜しまないが、完全に己を偽るつもりもない。
このままの僕を、彼女が受け入れてくれるのなら――それはとてつもないわがままのように思えた。けれど、そう願ってしまう己の心を自覚した。
「好きだ、愛している、僕は君の恋の奴隷だ……?」
“通俗小説”で目にした告白の台詞を思い浮かべる。どれも僕の口には馴染まない言葉で、据わりが悪い。
あぁ、どうやってこの想いを伝えよう。どのような言葉を使えば、僕の想いを余すことなく伝えられるだろう。
美しく着飾らせた言葉を並べ立てて、大きな花束を捧げようか? 宝石のようだと褒められるこの瞳をくりぬいて、君のものだと傅こうか?
しかしどれもしっくりこない。想像の中のエスメラルダは困ったような顔をして、返事をはぐらかしてしまう。
眠るエスメラルダを見下ろす。そのまろやかな頬を手のひらで撫でるように包み込めば、ほわりと胸の奥からあたたかな何かが湧き上がってきた。
「…………」
椅子から腰を浮かせ、額にそっと口づけようとして――やめた。そのかわりに頬に寄せていた手のひらでエスメラルダのまあるいおでこを覆って、自分の手の甲に口づけを落とす。
差し出した僕の心を、彼女は受け取ってくれるだろうか。困ったような顔をされたらそのときは、いつもの冗談だと言ってはぐらかしてしまおう。僕はエスメラルダを困らせたいのではない、ただ笑っていて欲しいのだ。預言の神子としてではなく、ただ一人の少女として。
「僕がフられたら慰めてくれるかい? レディ、ぐーちゃん」
独り言のように呟けば、僕の影がゆらりと揺れた。仕方ないですわね、なんて呆れるような彼女の声が聞こえてくるようだ。
エスメラルダの足元で丸くなっていたぐーちゃんは、興味がないというようにぴるぴると耳を震わせた。どうやらぐーちゃんは生みの親である僕より、ご主人様であるエスメラルダの味方らしい。
「早く目を覚ましてくれよ、エスメラルダ」
眠るエスメラルダに声をかける。
そのときの声が自分でも驚くぐらい優しく、穏やかで、そして――甘くて。朝食に好んで食べるシロップ漬けのパンケーキを思い起こさせるような、そんな声だった。
自分自身のことなのにおかしくなって、喉奥で笑う。笑いを嚙み殺そうとするあまり一瞬咽そうになって、エスメラルダのことを思いだした。シロップの甘さに顔を歪め、時には盛大に咽ながら、ハーブティーを御供にパンケーキと格闘する、彼女の姿を。
――あぁ、そうだ。あの地獄のような甘さのパンケーキを完食したのは、エスメラルダが初めてだった。
窓の外を見やる。寝坊助な太陽はまだその姿を見せない。
エスメラルダが起きるまでここにいよう。そして目を覚ました彼女に誰よりも早く告げるのだ。おはよう、と。
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