16:魔物の狂暴化
アボット男爵令嬢のお誕生日会に出席してから、一週間ほどだった頃。私たちの許を突然、勇者ライナスが訪ねてきた。
どうやら外は小雨が降っていたらしい。しっとりと濡れた紺色の髪にタオルを差し出すよりも早く、全身を犬のように震わせた彼に、ジルヴァジオと顔を見合わせて笑った。
出会ったときからライナスは変わっていない。少し短絡的なところもあるけれど誰よりも真っすぐで、周りが思わず手を差し出してしまいたくなるような、そんな人物なのだ。
しかし久しぶりの再会に喜んだのもつかの間、彼は何やら厄介ごとを抱えているらしかった。
「魔物の狂暴化?」
「あぁ。アルビーン城付近で複数回兵士が魔物に襲われてる。この前はとうとう、魔物が警備の目を掻い潜って城内まで侵入したらしい」
ライナスは言葉と共に深いため息を吐き出した。
魔王を封印したものの、その配下とも言える魔物は完全に消滅したわけではない。しかし絶対的なリーダーを失ったことで弱体化し、人や街を襲うこともなくなり、今や野生動物のような存在になっていたはずだ。それなのに、城に襲撃をかけるほど狂暴な種が残っていたなんて。
魔王を倒してめでたしめでたし、で、その後末永く平和が続くとは思っていなかった。しかしこんなにも早く、魔物の脅威が人々に再び迫ることになるとも、思っていなかった。
「人に化けた魔物が城内に潜り込んで、手引きをしている可能性が高いって」
私の隣に座るジルヴァジオが息を飲んだ。
人間に化けることができる魔物はとても強い力を持っている。魔王から直接命令を受け魔物の軍を率いる、謂わば魔王軍の幹部のような存在だ。彼らは
もしかすると、魔王軍の幹部の中に生き残りがいたのかもしれない。その生き残りが魔王復活を企てる――なるほど、クリア後のストーリーとしては王道の展開と言える。
「アルビーン城は王都防衛の要。魔物の手に落ちれば大変なことになる。頼む、力を貸してくれ」
「嫌だ。面倒だ」
間髪入れずにジルヴァジオは断った。信じられない気持ちで彼を見ると、はぁ、と大きなため息がその口から零れる。
「――……と言いたいところだが、どうせ僕に拒否権はないんだろう。学会からの命令書がその鞄の中にしまわれているはずだ。ほら、よこしたまえ」
勇者ライナスは気まずい表情を浮かべ、鞄の中から封筒を取り出した。そこに刻まれている魔術師学会の紋章を見て、ジルヴァジオはがっくりと項垂れる。学会の呼び出しを無視し続けた彼でも、流石に正式な命令書まで無視することはできないのだろう。
気を落とすジルヴァジオに、苦笑するライナス。彼ら二人の様子を見て何も協力できない自分をもどかしく思った。
私に本当に預言の力があれば、魔物がどこに潜んでいるか分かったかもしれないのに。
「わりぃジルヴァジオ、あんたの力が必要なんだ。ただもう、魔物の目星はついてる。だからそんなに時間はかからないと思うぜ」
ライナスは強い意志を感じさせる瞳を和らげた。ジルヴァジオはソファに体を深く沈めて、上目遣いで尋ねる。
「目星?」
「城含め付近の領地を治めてる、アルビーン辺境伯の近衛騎士団・副団長。確か名前は……そう、チェスラフ殿」
個人まで絞りこめているなら、確かにライナスの言う通り魔物を追い詰めるまでそんなに時間はかからないかもしれない。
ジルヴァジオの濁った瞳に光が差す。ソファに埋もれていた体がゆっくりと起き上がった。
「魔物襲撃の際、彼の姿が見えないことが多々あったらしい。怪しく思った団員が本人を問い詰めたら、意識を失っていた……だってさ」
「お父様とのお約束を破った子どもの方がもう少しマシな嘘をつきそうだ」
ジルヴァジオは呆れたように肩を竦めた。
「それに複数名の団員が、奴の私室に怪しい影が入っていくのを目撃している」
もはや決定的ともいえる目撃情報だった。
ジルヴァジオは呆れすらも通り越して戸惑っているのか、真顔でライナスに問いかける。
「……僕が行く意味あるかい?」
「魔物と交戦することになったら、あんたの力が必要になるだろ」
頼むよ、とライナスに頭を下げられてなお、ジルヴァジオは頷かなかった。
顔を顰め、髪を搔きむしる。よほど嫌なようだ。
ジルヴァジオは魔物との闘いを好まない。魔王封印の旅の中でも、できるだけ戦闘を避けようと進行ルートを模索していた覚えがある。
魔物の対峙した際には誰よりも冷静に、かつ冷酷に手を下していたから、魔物が怖いわけではないだろう。ただ面倒なのか、彼にしか分からない深い訳があるのか、私には分からなかった。
しかしどうであれ、今回のライナスからの依頼は断ることができそうにない。
「はぁー、めんどくさい。勇者くん一人でなんとかしてくれよ」
そう愚痴をこぼしつつ彼は立ち上がりリビングを出ていく。おそらくは身支度をするため、自室に向かったのだろう。
その背中を見送ってから、ライナスは私に問いかけてきた。
「エスメラルダ、あんたはどうする?」
「私は留守番しています。預言の力はもうありませんし、魔物との戦いでは足手まといにしかなりませんから」
私には魔法の才能も剣術の才能もない。預言の神子として勇者一行の旅に同行していたときだって、戦闘時は常に後ろに隠れていた。
幸い、私が足を引っ張って仲間を危険に晒してしまう、といった局面は訪れなかったが、今回はついていく必要性が全くない。魔王封印の旅は少しでも早く預言を勇者に伝えるために、という理由があったから、足手まといを承知で同行していたのだ。
「分かった。なるべく早く戻すようにするから」
歯を見せて笑うライナスに、頼もしく成長したものだ、なんて母親のようなことを思う。出会ったときはまだまだ生意気な子どもで、突如として己の身に降りかかった運命に戸惑っていたというのに。旅の中で一回りも二回りも大きく成長したようだ。
やがてリビングに降りてきたジルヴァジオは、見慣れた黒のローブを身に着けていた。
「それじゃあ、行ってくるよ」
「はい。遠くからですが、皆さんのご無事をお祈りしています」
なんの役にも立てない自分をもどかしく感じながら、勇者と魔術師を見送った。
きっと彼らなら大丈夫だ。幾多の修羅場を潜り抜け、この世界を救ってくれた英雄なのだから。そう思うのに胸がざわめく。
どうか無事に帰ってきてほしいと青空を見上げ、そっと祈った。力を持たない元神子の祈りなど無意味であると分かりつつも、祈らずにはいられなかった。
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