14:感謝のキス



 チョコレートケーキを食べ終えたジルヴァジオはぱっと顔を上げ、



「よし、帰ろう」


「え!?」



 突然そんなことを言い出した。

 ジルヴァジオは私の腕を引き、ホールを大股で横切る。私は腕を引かれるまま、前につんのめりそうになりながら、どうにか目線だけでアボット男爵とそのご息女にご挨拶をした。



「ギラギラチカチカした場所にこれ以上いたら蕁麻疹が出そうだ!」



 ホールの外に出たジルヴァジオは叫ぶ。ずっと我慢していたのだろう、乱暴な動きで蝶ネクタイを緩め、セットされた髪をぐしゃぐしゃに掻きむしった。

 しかし帰ると言ったって、今夜中に馬車を捕まえられるとは思えない。それに近場に帰るだけならともかく、丸二日間の馬車の旅だ。夜通し運転することに御者はいい顔をしないだろうし――来るときだって、夜は馬車から降りて宿屋に泊まっていた――街を発てるのは早くて明日の早朝になるだろう。



「こんな夜遅くに馬車を出してもらえるとは思えませんが……」


「だったら馬車以外の手段で帰ればいいだろう?」


「馬車以外の手段?」



 ジルヴァジオはにやっと笑った。そして素早く私を抱き上げる。



「例えば……魔法とか!」


「ひぇっ」



 その刹那、ぐるりと世界が回転した。――ジルヴァジオが私を抱えたまま、移動魔法テレポートを使ったのだ。

 次の瞬間、目の前に広がっていたのは星が輝く夜空と地平線。そして足元にぽつぽつと見える人工的な光は、おそらく先ほどまで私たちがいた街だ。

 びゅう、と風が頬を叩きつけるように吹きすさぶ。本能的な恐怖が背筋を駆け抜け、私はジルヴァジオに抱き着いた。

 どうやら私は今、街の遥か上空に連れて来られたらしい。



「たかっ、高い!」



 悲鳴を上げれば再び世界が回転する。かと思うと、頭上から水が降り注いできた。

 一瞬水の中に移動魔法テレポートしたのかと錯覚したが、閉じていた目を開けて理解する。どうやら私たちは大雨に打たれているようだ。



「雨っ! 雨っ!」



 三度目の回転。そして目の前に現れたのは、パンツ一丁の見知らぬ男性。

 ――今度はとあるご家庭にお邪魔してしまったらしい。



「ぎゃーっ!」


「おっと失礼」



 悲鳴を上げた男性にジルヴァジオは恭しく一礼してから再び移動魔法テレポートした。

 その後も世界は何度も回転し、時には馬車の上、森の中、街の裏路地、果ては恋人たちの間に割り込みながら、私たちはどうにか我が家に帰ってきた。その頃にはもうすっかり目が回っていて、私はソファにぐったりと倒れこむ。

 雨に打たれたこともあり、全身泥だらけだ。



「し、死ぬかと思った……」


移動魔法テレポートは移動できる距離がそう長くないのと、着地地点がどう頑張っても安定しないから、一般的な移動手段になるには程遠いだろうねぇ」



 けろりとした顔でジルヴァジオはのたまう。人一人抱えてあれだけ魔法を連発したにも拘らず、息一つ上がっていない彼はやはり優秀な魔術師なのだろう。

 ジルヴァジオは部屋の時計を見やった。私も彼の視線を追うようにして現在の時刻を確認する。

 時計の針は八時前を指していた。向こうを出た正確な時間は分からないが、おそらく一時間経っていないだろう。

 馬車を使えば丸二日。移動魔法テレポートを使えば一時間弱。比べるとその差は歴然だ。――しかし、次もまた移動魔法テレポートで移動したいかと問われれば、私は首を振るかもしれない。

 乗り物酔いをしたときのような気持ち悪さに襲われて、私は深く長いため息をつく。



「しかしやはり馬車とは比べものにならない速さだな。よし、夕食にしよう!」



 ジルヴァジオは夕食の準備のため、軽い足取りでリビングから出ていく――と思いきや、振り返ってソファに倒れこむ私の傍らに膝をついた。そして囁く。



「ありがとう。君のおかげで助かった」



 彼からのお礼に応える元気はなく、どうにか微笑むので精一杯だった。

 あぁ、もうこのまま眠ってしまいたい。けれどせめて泥だらけのドレスに着替えて――と、そのときにようやく思い至る。今私が着ているドレスもジルヴァジオが着ている燕尾服も、アボット男爵に準備して頂いたものだ!

 私は慌てて体を起こす。そしてびっしょりと濡れたドレスを見下ろして、絶望的な気分になった。

 ろくなご挨拶もせず着たまま帰宅してしまっただけでも失礼なのに、こんなに汚してしまった。もしかしたらドレスはアボット男爵令嬢のものだったかもしれないし、とにかく一刻も早く洗って汚れを落とさなければ。私のドレスだけでなく、ジルヴァジオが着ている燕尾服もだ。

 慌ててソファから起き上がる。――と、その瞬間、頬にぬくもりが触れた。



「これは感謝のキスだ」



 ジルヴァジオは照れくさそうに微笑んだ。

 ――頬に触れたぬくもりがジルヴァジオの唇だと気づいたのは、それから約五分後。突然キスを仕掛けてきた彼は夕食を作りにキッチンへ向かったのか、私が我に返ったときにはその姿はリビングになかった。

 ――通俗小説では、恋人からのキスはお礼になるらしい。

 いつぞやのジルヴァジオの言葉が脳裏にこだまする。

 感謝のキスだと言っていた。照れくさそうにはにかんで、グリーンの瞳はぎこちなく細めて。らしくない表情で、いつもより早口で。

 そっと頬に指先で触れる。ジルヴァジオの唇が触れたそこだけ、まるで熱を持っているかのように熱く感じた。

 ――結局ジルヴァジオが夕食を運んできてくれるまで、私はびしょ濡れのドレスを着たまま、放心状態でソファに座っていた。


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