11:アボット男爵からのお願い
丸二日間の馬車の旅によってカッチンコッチンに硬くなったお尻を気にしながら、私はジルヴァジオの隣で微笑んでいた。
ここは貴族・アボット男爵のお屋敷。目の前で滝のような汗をかきながら微笑み、黒いちょび髭をしきりに触っている男性こそ、この大きな屋敷の主人・アボット男爵だ。
「遠路はるばるようこそいらしてくださいました、ジルヴァジオ様」
「えぇ、全くです。二日もかかりました」
普通であれば形式的に否定するであろう労わりの言葉を、ジルヴァジオは大きく頷いて受け入れた。
笑顔こそ浮かべているものの、纏っている雰囲気はかなり刺々しい。
ジルヴァジオはよく言えば素直、悪く言えば取り繕うことをしないため、相手へ向ける感情が筒抜けなのだ。そのせいで旅の最中も何かとトラブルを起こしていたのだが、改める気は皆無らしい。
アボット男爵の瞳が盛大に泳ぐ。その際、ジルヴァジオの後ろに私の姿を見つけたのか、助けを請うような瞳を向けてきた。
「神子様! ……あぁ、本当に、お二人は親しいご関係だったのですね」
「流石の僕も、神子と恋仲であるなんて嘘はつきませんよ」
ははは、と普段よりおとなしく笑うジルヴァジオが不気味だ。アボット男爵に一切心を開こうとしていない。
同情的な目で見ているせいもあるだろうが、男爵はそこまで人が悪そうには見えなかった。大きな体のジルヴァジオに見下ろされて、挙動不審になっている彼を気の毒に思う。
「神子様にも大変失礼なお話であると重々承知の上で申し上げます。ジルヴァジオ様、かわいい娘のため、どうか今夜一晩だけでもお付き合いいただけませんか」
「今夜一晩?」
「我が娘の誕生日を祝うパーティーがあるのです。そこでジルヴァジオ様と踊らせて頂きたいと……最初で最後の思い出にして、綺麗さっぱり諦めるからと……そう申しているのでございます」
アボット男爵は体を縮こまらせながら、それでもジルヴァジオから目を逸らさずに言いきった。
その姿に素直に感心した。私の目には娘の願いを叶えてあげようと苦心する良い父親にしか見えない。権力や金を振りかざしてジルヴァジオに無理強いすることもなく、諦めるから最後に一晩付き合ってほしい、と “お願い”しているのだ。
ジルヴァジオは貴族に恨みでもあるのか、数日前声高に批判していたが、すっかり私の心は「一晩ぐらいなら」とアボット男爵側に傾き始めていた。しかし隣のジルヴァジオは彼らのささやかなお願いにも応える気はないようで、ため息交じりに口を開く。
「男爵。何度も申しております通り、ご息女のお気持ちは大変嬉しいのですが、私には既に心に決めた方がおります。私は偏屈で横柄な魔術師ですが、大切な人を悲しませることだけはしないよう心がけておりまして――」
「やはり、神子様が快く思わないのでしょうか?」
ちらり、とアボット男爵の瞳がこちらを向いた。小柄で小太りの彼は、マスコット的な可愛さがある。
――きっとここで頷くべきだったのだろう。そのために私は二日間の馬車の旅でお尻を犠牲にしてまでこの街にやってきたのだ。しかし慎ましやかで健気なアボット男爵とそのご令嬢に同情心を抱いていた私は、潤む男爵の瞳を見て気づけば首を振っていた。
「いいえ、私のことでしたらお気になさらず。どうぞお受けくださいませ、ジルヴァジオ様」
ジルヴァジオのグリーンの瞳が見開かれる。あ、と思ったときにはもう遅い。
アボット男爵は目尻に涙を浮かべて私の手を取った。そして輝かんばかりの笑顔で握った手を上下に振る。
「ありがとうございます、神子様!」
――かくして、私のせいでジルヴァジオはアボット男爵令嬢の誕生日パーティーに参加する運びとなってしまった。
娘に良い報告ができると浮足立ったアボット男爵が言うには、パーティーが催されるのは午後六時。およそ三時間後だ。
街の中心部に建てられたホールを貸し切り、舞踏会のように華やかに行われるらしい。そこでワルツを一曲一緒に踊って欲しいとのご要望だった。
それまでここでお待ちください、と案内されたのは屋敷の中の客室だ。広い部屋に必要最低限の家具しかなく、かなり広々としていた。
部屋に入るなりジルヴァジオは私を振り返る。
「君なぁ! これでは君を連れてきた意味がないだろう!」
「すみません……」
約束していた役目を果たせず、ジルヴァジオの期待を裏切ったのは事実のため静かに頭を下げる。するとジルヴァジオの怒りは見るからに納まったため、ここぞとばかりに私は続けた。
「お見合い話を事を荒立てずに断れるのですから、一曲ワルツを踊るぐらいは必要な手間だと考えてしまったのです。男爵のご息女もそれで諦めると仰っているようですし、相手側の顔を立てるという意味でも……」
彼の怒りはごもっともだが、誕生日パーティーへの参加まで下手に断って相手の不興を買うより、妥協条件を受け入れた方が賢明だろう。相手は有力貴族だ。良好な関係を築くに越したことはない。
パーティーで一曲踊るというのはジルヴァジオ側からしてみても良い落としどころだと思ったのだが――本人は全くそうは思わないらしい。癖毛を搔きむしりながら、広い部屋を早足で歩きまわる。
「いいや! 貴族のご令嬢がそんな殊勝なタマなものか! 一度踊ったら最後、偶然を装って僕の服に飲み物をこぼし、『まぁ大変! すぐに洗い落とさないと!』などと言葉巧みに部屋に連れ込まれるんだ! 使用人に洗わせるからこれでも飲んで待っていろと出されたワインには興奮剤! 息が上がる僕の様子ににんまりと真っ赤な口を裂くように笑い、『まぁ、具合が悪そうですわ……』とベッドの方へ誘導して――気づいたら責任を取らされているのさ! 僕の人生は終わりだ!」
「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。私も一緒に出席しますから」
悲痛な表情で叫ぶジルヴァジオは、なぜここまで貴族令嬢を恐れているのだろう。彼が読んだ通俗小説に恐ろしく計算高い貴族令嬢でも登場したのだろうか。
それにしても男爵令嬢に見初められて、ここまで乗り気ではない男性も珍しい。あけすけに言って逆玉の輿だ。普通であれば泣いて喜ぶだろうに。
「そもそも男爵家に婿入りなんて、名誉なことではありませんか? どうしてそこまで嫌がるのですか?」
軽い気持ちで聞いてみたのだが、ジルヴァジオはグリーンの瞳を吊り上げ、残灰を頭から被ったような髪の毛を振り乱し叫ぶ。
「この僕に貴族になれと!? そんなの地獄に堕ちろと言われているようなものだ! 毎日晩餐会で狂ったようにワルツを踊り、髭だけ立派な貴族連中に頭を下げ――」
どうやらジルヴァジオの貴族嫌いは想像以上に根深いらしい。一体何があったのか疑問ではあるが、私が何を言ってもパーティーに乗り気になることはなさそうだ。
「それより、ワルツは踊れるのですか?」
貴族のお屋敷の客間でこれ以上貴族の悪口を叫ぶのは良くないだろうと話を遮って問いかける。これだけ広く使用人も多いお屋敷だ、誰がどこで何を聞いているか分からない。
私の問いかけに対し、ジルヴァジオはわなわなと肩を震わせて、
「踊れると思うかい!? 僕を誰だと思っている!」
なぜか偉ぶるように胸を張って答えた。
室内の時計を確認する。現在は三時過ぎ。誕生日パーティーは六時からと聞いているから、着替えの時間も考えるとワルツの練習時間はあとせいぜい二時間ほどしかない。大勢の前でアボット男爵令嬢に恥をかかせるわけにはいかないし、この待機時間中に少しでもワルツの動きを身に着けた方がいいだろう。
「でしたら急いで練習しないと。あと三時間程度しかありませんよ」
「君は踊れるのかい?」
「一般教養程度であれば」
預言の神子になる前、元々私は学校に通うために王都に上京したのだが、そこは紳士淑女を育成するための所謂パブリック・スクールで、舞踏会での振る舞いも入学試験の項目の一つだった。そのためワルツステップは所謂“必修科目”だったのだ。――それももう一年以上昔の話で、記憶もだいぶ薄れているけれど。
「ワルツって一般教養なのか……」
驚いたように呟くジルヴァジオの手を取って、ワルツの記憶を必死に手繰り寄せる。
これから二時間、みっちり指導しなければ。
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