08:髪への口づけ



『ほらっ! さっさとジルヴァジオから離れなさいな! 出てけっ、このっ、小娘めがっ!』



 ジルヴァジオと私の間に割り込んだレディ・ジークリンデがげしげしと足蹴にしてくる。ヒールの踵が中々な攻撃力で、とても淑女とは思えない行動だ。



「レディ、落ち着いて。それ以上彼女に強くあたるようなら流石の僕も怒るよ」



 ジルヴァジオの言葉にレディは驚いた猫のようにぴゃっと体を飛び上がらせ、部屋の隅へ逃げていった。

 一秒前は淑女の姿を形作っていたシルエットは手のひらサイズのおまんじゅうに似たまんまる姿に変わり、プルプルとその身を震わせている。ジルヴァジオを見上げる潤んだ瞳は、マスコットキャラクターのような愛らしさを思わせた。



『えぇ~ん! どうしてそんな怖い顔をするんですの!? わたくしはただ、前みたいにジルと一緒に過ごしたかっただけなのに……! ひどいですわ~!』



 部屋の隅でわんわん声を上げて泣くレディに庇護欲が掻き立てられてしまった。そのおまんじゅうのような丸々とした姿に惑わされている部分もあるだろうが、それにしても彼女はただジルヴァジオを私に取られたような気がして、嫉妬していただけなのだ。

 かわいい嫉妬――というにはいささか度が過ぎていたように思うけれど、結果として私は一切怪我をしていないし、これ以上レディを責める気にはならなかった。

 もちろん怪我をしていないのは駆けつけてくれたジルヴァジオのおかげであるから、私自身としても、あまり強く出ることはできないけれど。



「ジルヴァジオ、私はなんとも思っていませんから、そんなに怒らないでください。彼女の気持ちも……その、理解できますし」



 レディを睨みつけるジルヴァジオの肩にそっと触れる。――と、



『あなたなんかに理解してもらいたくはありませんわー!』



 私が口を挟んだことで彼女の怒りに触れてしまったのか、手のひらサイズで震えていた影がぶわっと一気に膨れ上がり、



「レディ!」


『びぇ~ん!』



 再びジルヴァジオが声を上げたことで、今度はベッドの下に逃げ込んだ。

 ジルヴァジオはベッドの下を覗き込むまではしなかったが、ベッドの傍らに片膝をついて、人差し指の背で床をリズミカルに叩く。まるでペットを呼ぶような仕草だが、レディ・ジークリンデは一向に姿を現さなかった。



『ごめんなさい、ジルヴァジオ。どうか許してくださいまし。ほんの出来心でしたの……』



 ベッドの下からすすり泣く声が聞こえてくる。

 しかしジルヴァジオは絆されることなく、毅然とした態度で応えた。



「謝る相手は僕じゃないだろう」



 どうやらジルヴァジオは、私に謝るようレディ・ジークリンデを諭しているようだ。

 彼の言葉を最後に部屋の中に数秒の沈黙が訪れる。そして、



『申し訳ありませんデシタワ』



 片言の謝罪が飛んできた。

 ジルヴァジオは立ち上がるとベッドを見下ろしたまま、小さなため息をつく。普段は他人を振り回してばかりの彼が振り回される側に回っていることがとても新鮮だったが、それを指摘する暇はなく、とにかくこの場を丸く収めようと口を開いた。



「だ、大丈夫です。お気になさらないでください、レディ・ジークリンデ」



 意識して穏やかな声で彼女の名を呼んだのだが、



『フンッ!』



 レディ側にこれ以上歩み寄る気はないらしく、それ以上声が聞こえてくることはなかった。

 怪我はなく、一応の謝罪も得た。レディの態度が気にならない訳ではなかったが、これ以上事を大きくするべきではないだろう。

 そう思い笑顔を浮かべてジルヴァジオを見やれば、彼は依然納得していないような、苦虫を嚙み潰したような表情をしていた。



「……すまない。レディにはしっかり言っておくから」


「いえ、助けてくれてありがとうございました」



 謝罪はしたが、まだお礼はしていなかったことを思い出して頭を下げる。するとますますジルヴァジオの表情が険しくなった。

 ――おそらくは、だけれど、今回の騒動に対してジルヴァジオ自身も責任を感じているのだと思う。レディ・ジークリンデの動機は私に対するやきもちだ。もっと自分がうまく立ち回っていれば、避けられた騒動だとジルヴァジオは感じているのではないだろうか。



「あまり、強く叱らないであげてくださいね。私は本当に気にしていませんから」



 過ぎた真似だとは自覚しつつ、ついつい釘を刺すように口にすれば、ジルヴァジオは苦笑する。

 レディ・ジークリンデはもちろん、ジルヴァジオ自身のことも、強く叱らないであげてほしかった。――なんて、そんなことを言えばそれこそ助けてもらった身でありながら何様だ、という話になってしまうから心の中で思うだけに留めたけれど。

 未だどこか気詰まりな周りの空気を変えるためにも、意識して明るい声で新たな話題を振る。



「それにしても闇の住人の方って、とても感情豊かなんですね。少し意外でした」



 それは素直な感想だった。

 闇の住人について知っていることはほとんどない。だからこそ余計に“闇の住人”という単語から、冷酷非情で感情を表に出すことのない存在だと勝手なイメージを抱いていた。それが実際は私のような小娘に嫉妬し、わんわんと声を上げて泣き出す、ひどいことをされようとどうも憎みきれない淑女レディだったなんて――

 私が提供した話題に、ジルヴァジオの眉間からようやく皺が消えた。



「レディは例外さ。その性格も、秘めた力の強さも」



 ジルヴァジオの力の強さはイコール、レディ・ジークリンデの力の強さ、と考えてよいのだろうか。だとしたら彼女は世界一の強さを誇る闇の住人と言っても過言ではない。そんな彼女に目をつけられていたことを考えると――ジルヴァジオが駆け付けてくれてよかったと改めて思う。

 不意にジルヴァジオがはぁー、と大きなため息を五秒、長々と吐き出した。がっくりと俯いたことで濃いグレーの旋毛が目の前に現れる。毛先に行くにつれて色が抜けていく彼の髪色に、つくづく不思議な髪だなと思った。私のブロンドの髪とは大違いだ。ブロンドなんてこの世界にはありふれていて、街を歩けば似たような髪色の人を大勢見る。

 ぼんやり旋毛を眺めていると、ばっと勢いよく顔を上げたジルヴァジオ。顔を上げた彼は、すっかりいつものジルヴァジオ・アッヘンバッハだった。



「さて、今日で少しは君も分かっただろう。僕の言うことを聞くべきだ、とね」


「……そうですね。反省します」



 私が素直に首肯したのが予想外だったのか、ジルヴァジオは若干目を丸くしていた。

 今回のことは私も反省したのだ。いくら普段彼が変なことを言っていても、その言葉を全て聞き流すのではなく、一度しっかり聞いた上で聞き流していい言葉か受け入れるべき言葉か判断するべきだった、と。

 そうはいっても、今回の「扉を開けてはいけないよ」なんてよく分からないアドバイスは、今後も聞き流してしまう可能性があるけれど――

 そこでふと、魔術師学会からの呼び出しのことを思いだした。今ここにいるジルヴァジオは、今日の夕方呼び出しを受けて家を発ったばかりだったのだ。



「ところで、魔術師学会からの呼び出しは大丈夫だったのですか?」


「あぁ。心の底からくだらないことだったからね」



 吐き捨てるような物言いに、実際大事ではなかったのだろうと判断する。しかしそうだったとしてもこの帰宅の速さは、宣言通り顔だけ出して三秒で帰路についたのかもしれない。

 ふと、ジルヴァジオが私の髪を掬い上げるように一房掴んだ。それによって気づく。――ブロンドの髪が、毛先だけ黒く染まっている。もしかするとレディ・ジークリンデの力によるものなのかもしれなかった。

 黒くなった毛先を無言でじっと見つめるジルヴァジオの顔があまりに真剣で、私は思わず声をかけた。



「あの、ジルヴァジオ?」



 ちらり、とグリーンの瞳がこちらを一瞥したかと思うと、ジルヴァジオは毛先にそっと唇を寄せた。主人の手の甲に忠誠の口づけを落とす騎士のような洗礼された動作に、驚いたのと同時に見惚れてしまう。

 綺麗なジルヴァジオの顔ばかり見ていたせいで“その瞬間”を見逃してしまったのだが、気づいたときには黒かった毛先はすっかり元に戻っていた。どういう原理かは分からないものの、彼の口づけがレディ・ジークリンデの力を中和、もしくは打ち消してくれたようだ。

 ブロンドに戻った毛先を確認して、ジルヴァジオは安心したように微笑んだ。そして、



「今日は本当にすまなかった。朝までまだ時間があるから、もうひと眠りするといい。……おやすみ」



 そっと囁くように告げた。

 すっかりジルヴァジオに見惚れていた私ははっと我に返り、彼の自室から退室しようと扉に駆け寄る。そしてドアノブに手をかけたとき、返事をし損ねていたことに気が付いた。

 勢いよく振り返り、ベッドの下を見つめる横顔に声をかけた。



「おやすみなさい。今日は本当にありがとう」



 廊下に出て、自室へと向かう。廊下の窓から見える空はうっすらと明るくなってきていた。

 気づかないうちに、私はジルヴァジオが口づけた毛先を手に取っていた。そして何度か確かめるように指先で触れる。

 明日の朝は、お礼も込めて私が朝食を作ろう。彼が好む胸も喉も焼けるぐらい甘い、シロップ漬けのパンケーキを――

 ジルヴァジオが座る前にパンケーキを置いたとき、彼はどんな表情をするだろう。驚くだろうか、それとも。

 喜んでくれたらいいな、と思った。


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