07:レディ・ジークリンデ
今夜ジルヴァジオは魔術師学会から呼び出しを食らって外出中だ。そのため久しぶりに一人で夕食を――と思いきや、使い魔であるぐーちゃんが隣の席に座ってくれた。
使い魔は食事を必要としないらしい。一度薄味の肉を出してみたのだが、それを見たジルヴァジオに大笑いされてしまった。どうやら空気中に漂っている魔素――魔力の源――を餌とするようだ。
だからいつも夕食時はどこかで眠っていることが多いぐーちゃんだが、ジルヴァジオが留守ということを分かっているのだろうか、どこからともなく現れて私の隣の椅子に飛び乗ってきた。利口で優しい子だ。
ぐーちゃんに他の人には話せない前世の思い出話や、ジルヴァジオの愚痴を聞いてもらったりして。――そんな楽しい夕食時に、私は“それ”を聞いた。
「……物音?」
二階から何かが落ちるような音がした。微かではあるものの、一階まで聞こえてきたのだからそかなり大きな音だろう。
思わず立ち上がる。すると私の服の裾をぐーちゃんが甘噛みした。
「どうしたの、ぐーちゃん」
ぐーちゃんは裾を離さない。まるで、私を二階に行かせまいと引き留めるような――
「遊びたいの?」
頷くようにぐーちゃんは目を伏せた。使い魔とは、どれぐらい人の言葉を理解できるのだろうか。
望まれた以上は応えないわけにはいかないので、夕食後にジルヴァジオが作ってくれたおもちゃで遊ぶことにした。彼はずいぶんと手先も器用なようで、木の枝から自由自在に形を切り抜いてしまうのだ。
――再び二階から物音が聞こえてきたのは、木のボールで遊んでいたときのこと。
「また物音……」
それも先ほどよりも明らかに大きい。
気にはなったものの、今夜はずいぶんとぐーちゃんが遊びたいと甘えてきたものだから、結局音の正体を確かめることはしなかった。きっと棚の上に置いていた荷物が何かの拍子で落ちてしまったのだろう、と適当に予想をつけて。
――三度目の音を聞いたのは、就寝するために二階の自室へ向かっていたときのこと。ただ前二回とは違い、三度目に聞こえてきたのは物音ではなく“声”だった。
『ダレカ……』
それは女性の声だった。その声は私の部屋の二つ隣、ジルヴァジオの自室から聞こえてくる。
ジルヴァジオの自室に入ったことはない。中を覗いたこともない。だから何が保管されているかは全く分からなかったが、女性の声が聞こえてくるのは流石に異常と言わざるを得ない。
私はジルヴァジオの自室の前に立った。そして中を覗くべきかどうか、扉の前で考える。
(何か変な黒魔術でもやったのかなぁ……)
失礼極まりない考えだが、このときの私は本気でそう考えていた。
黒魔術は普通の魔術とは若干毛色が異なる。闇の住人と契約を結び、彼らの力を借りるのだ。十数年前までは怪しく危険な魔術とされており、その存在が認められるようになったのはつい最近のこと。
闇の住人が一体どのような存在なのか、詳しく知らない。ゲーム内でも闇の住人としか説明されていないし、今世でも魔術の才能が皆無だったため調べたことすらない。だからこそ私は失礼極まりない妄想を巡らせてしまったのだ。
ジルヴァジオと契約を結んでいる闇の住人が、彼の自室で話しているのではないか、と。
『ダレカ……イナイノ……』
どうやらジルヴァジオの自室にいる“誰かさん”は人を探している様だった。探しているというより、呼びかけている、といった方が正しいか。
ここで名乗り出るのは簡単だが、いくら恋人といえど人の部屋に許可なく立ち入ることは憚られた。しかしこのまま放っておいて大丈夫なのか、という心配もある。
さてどうするべきかと扉の前で突っ立っていると、
私は足元を見やる。するとぐーちゃんが私をジルヴァジオの自室の前からどかそうと、必死に
「ぐーちゃん、どうしたの?」
その体を抱きあげる。するとぐーちゃんは私の頬に頭を摺りつけてきた。
使い魔は声帯を持たないのか、一度もぐーちゃんの鳴き声を聞いたことはないけれど、私の耳には「くぅん」という甘えるような鳴き声が聞こえるようで。
「……もう寝ましょうか」
結局ジルヴァジオの自室を覗くことはやめて、私は自室で眠りについたのだった。
――そして、四度目の音を聞いたのはそれから数時間後。東の空がうっすらと明るくなりだした明け方だった。
『タスケテ……ココカラ、ダシテ……』
元王家の別荘は作りが頑丈で壁が厚く、いつもであれば二つ隣の部屋の声なんて聞こえてこない。ジルヴァジオの大声も綺麗に遮断してくれる。
それなのに、私はその声を聴いたのだ。眠る前にジルヴァジオの自室から聞こえてきた、女性の声を。
異常なことがジルヴァジオの部屋で起きていることは明らかだった。しかし戦う力を持たない私が一人で異常に立ち向かう勇気はない。
ジルヴァジオが戻ってきたら声のことを報告しようと心に決め、再び眠るつもりで目を閉じた。しかし。
『サビシイ……サビシイ……』
やがて女性の声はすすり泣きに変わっていった。
数分眠ったふりをしてやり過ごしていたのだが、女性の声にすっかり目が覚めてしまった私は、ベッドを抜け出しジルヴァジオの自室へ向かった。悲痛極まりないすすり泣きをこれ以上聞き続けていては、気が滅入ってしまいそうだ。
私は扉の前でジルヴァジオに謝罪する。
(ごめんなさい、ジルヴァジオ)
正直に話して、きちんと叱られよう。とにかく今は、さめざめと泣いている女性の正体を確かめることを優先するべきだ。
私は意を決して扉を開けた。瞬間、小さく開いた扉の隙間から細長い影のようなものがにゅるりと出てきた。え、と思ったときにはその影に手首を絡めとられていて、強い力で部屋の中に引っ張り込まれる。
ジルヴァジオの自室には闇が広がっていた。暗いのではない。どこまでも落ちていけるような、底知れぬ闇だ。
その中央に二つの目があった。吊り上がった一対の瞳。
影に引き寄せられ、瞳に近づく。そのときに気が付いた。闇の中心に、真っ黒なご婦人が立っている、と。
彼女は
『あなたのせいで――』
ご婦人の美しい指先が私の首にかかった。その手はまるで氷のように冷たく、突き刺すような痛みに襲われる。
彼女が誰か分からない。ただ分かるのは、私に強い憎しみを抱いているということだけ。
『今日は決して扉を開けてはいけないよ』
鼓膜に蘇るジルヴァジオの声。
薄れゆく意識の中、後悔する。
あぁ、きちんと彼の話を聞いていればよかった――
「全く君は……。開けてほしいと請われたら、例え相手が悪党でも目の前の扉を開けそうで心配になるよ」
ふわり、と背後からぬくもりに包まれた。次いで、氷のような指先が喉元から離れていく。
刹那、目の前で闇が弾けた。――違う、部屋の明かりがついたのだ。
訳も分からず、とにかく背後のぬくもりの正体を確かめようと私は振り返った。そこに立っていたのは、黒ローブを身に纏った一人の青年。
「ジルヴァジオ!」
この屋敷に入ってきた時点で、彼以外ありえないと思っていた。けれど同時に、夕暮れ時に魔術師学会の呼び出しで出ていった彼が、夕食はいらないと言った彼が、こんなにも早く帰ってくるなんて顔を見た今でも信じられなくて。
しかし何よりも先に、ジルヴァジオの自室に許可なく入ってしまったことを謝るべきだろう。不法侵入、それも現行犯逮捕だ。
「お、おかえりなさい。部屋に勝手に入ってしまってすみません。どうも悲しそうな声があなたの部屋から聞こえたもので……」
「正確には悲しそうな声、ではなく、君の同情を引いて闇に引き摺り込もうと演技したレディ・ジークリンデの声が、だね」
ジルヴァジオは私を咎めることなく、耳慣れない名前を口にした。
「レディ・ジークリンデ?」
「僕が契約している淑女さ」
話がだんだんと見えてきた。
先ほど私の首に手をかけたご婦人の名前はレディ・ジークリンデ。おそらくジルヴァジオが契約している――闇の住人だ。
彼は部屋の隅を睨みつけた。そこにはシミのような小さな影が身を震わせている。
「レディ! 彼女に変なことをするなと言っただろう!」
部屋の隅で丸まっていた影は、ぶわっ爆発するような勢いで広がったかと思うと部屋を覆いつくす。あっという間にジルヴァジオの自室は、再び底知れぬ闇に包まれてしまった。
明かりの消えた部屋の中央に二つ、輝く瞳がある。その瞳を頼りに暗闇に目を凝らすと、ぼんやりとご婦人――レディ・ジークリンデの輪郭が浮かび上がってきた。
ボリュームのある巻き髪とドレスに大きなリボンがついた日傘、そしてハンカチーフを右手に持っている。すべてが
『この女がいなければ、ジルはずーっとあのジメジメした家に篭って、わたくしと二人っきりでしたのにぃー!』
レディ・ジークリンデは右手に持っていたハンカチを悔しそうに噛んだ。
どうやら彼女はジルヴァジオを好いているらしい。だから突然恋人の座に納まった私を快く思っていないことは理解したが、私がいなければジルヴァジオと二人きりで家に篭っていた、という言葉が引っかかる。心当たりがない。
「私がいなければ……?」
「忘れたのかい? 学会一の変わり者で嫌われ者の僕を、どれだけ周囲から反対されようと勇者一行に引っ張り込んだのは
私の疑問を拾い上げて答えてくれたのは、レディ・ジークリンデではなくジルヴァジオだった。
彼の答えに記憶を辿る。そこでようやくご婦人の怒りを理解した。
「あ、あぁ! そうでしたね」
前世――ゲームのジルヴァジオは仲間に引き入れるために随分と苦労させられた。最初は旅についていくことを断固として拒否していたからだ。
しかし恩師カウニッツが魔物に命を奪われるという悲劇的なイベントの後、ジルヴァジオは自ら勇者一行に加えてほしいと申し出る。恩師の仇を討つという目標を得たためだ。
このイベントはジルヴァジオだけでなく、プレイヤーにも大きな衝撃をもたらしたトラウマイベントとして名高い。カウニッツは物語序盤から魔術師学会の権威者として勇者たちに多大な協力をしてくれていたナイスミドルであったこと、殺される際の描写が生々しく許しを請うカウニッツの声に嫌なリアリティーがあったこと、また回想で何度か同じシーンを見せられたことがトラウマイベントと呼ばれる要因だった。
――が、しかし、今世ではカウニッツは生きている。
カウニッツが命を奪われたのは、ジルヴァジオの説得に向かう道中でのことだった。類まれなる魔術の才能を持ちながら、勇者一行に力を貸さない息子――のような存在――を説得するために一人彼の家を訪ねようとし、運悪く魔物に襲われてしまうのだ。
だからその悲劇を回避するため、私は出会って早々必死にジルヴァジオを“スカウト”した。カウニッツがジルヴァジオを説得する前に仲間に加入させてしまえば、あの悲劇的なイベントは回避できるはずだと思ったからだ。
実際、その予想は間違っていなかった。
私のしつこい勧誘に根負けしたジルヴァジオはその場で勇者一行に加わり、カウニッツは彼の説得をする必要がなくなった。その結果、死ぬはずだったカウニッツは今も生きている。
彼の命を救うことができただけでも、預言の神子になった甲斐があると思ったものだ。
「魔王討伐にはあなたの力が必要不可欠だと――」
「預言に出た?」
あの日と同じ瞳でジルヴァジオは尋ねてくる。
何度追い返しても帰ろうとしない預言の神子を前に、ジルヴァジオは問いかけてきた。預言にそう出ているのだろう、と。
その通りだ。しかし預言と口にする彼の表情が険しいことに気が付いて、私は言い回しをほんの少しだけ変えた。
「私自身が、そう感じました」
預言が、ではなく、私が。
主語を変えただけではあるが、嘘でもない。プレイヤーとして、彼の黒魔術は魔王封印に必要不可欠だと身をもって知っていた。幾度となく、彼の黒魔術に助けられてきたのだから。
あの日と同じように、ジルヴァジオはグリーンの瞳を細めた。
「……うん、あのときも君はそう言ってくれたね。僕のこの目を真正面から見て」
噛みしめるように彼は呟く。そして、
「結構、嬉しかったんだよ」
ジルヴァジオは笑った。眉尻を下げて、瞳を震わせて、まるで迷子になってしまった子どものように、今にも泣きだしそうな笑顔だった。
――どうしてそんな表情をしているの。
脳裏に浮かんだ疑問は、しかし口にすることはできなかった。初めて見るジルヴァジオの表情に驚き――見惚れてしまったから。
私はただ、向けられたグリーンの瞳を見つめ返すことしかできなくて。
『なーにイチャついてるんですの!?』
レディ・ジークリンデが声をあげるまで、私たちは見つめ合ったままだった。
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