05:使い魔・ぐーちゃん



 私が望む“のんびり自由な暮らし”を実践しようと高らかに叫んだジルヴァジオは、そのまま家の外へと飛び出した。仕方なくその背中を追った私は、湖のほとりに設置されていたキャンバスの前で彼の姿を見つける。

 国王陛下から譲り受けた別荘には、一通りの画材と大量のキャンバスが揃っていた。それをここまで持ち出してきたのは私だ。

最初は目前に広がる景色を描こうと思ったのだが、前世でも今世でも絵の勉強なんてしてこなかった私は高級画材を持て余すばかりで、早々に飽きてしまった。その後も暇つぶしに何枚か描いてはみたのだが、元々絵心がないのもあって、ここ数日は全く手を付けていない。



「ふむ、なかなかいい景色だ」



 ジルヴァジオは大きく頷くと、私が適当に筆を走らせたキャンバスをイーゼルからどけ、真っ白なキャンバスをセットしなおした。そして迷いのない筆づかいで絵を描き始める。

 さすがの変人魔術師も、絵を描くときは集中して言葉少なになるらしい。目の前の景色をキャンバスに落とし込むことにすっかり熱中している横顔をしばらく眺めていたが、手持無沙汰になったので、そこらへんに転がしていたスケッチブックと鉛筆を手にとった。



(何を描こう……)



 風景画は初心者には難易度が高い。似顔絵も同様だ。さて何を題材に選ぼうと考え、脳裏に浮かんだのは前世の愛犬だった。

フレンチブルドッグの“ぐーちゃん”。この世界にも犬はいるけれど、十六年とちょっと生きてきて猟犬のように大きく逞しい犬種しか見たことがない。

 全身黒くて、でも顎下から胸元にかけては白かった。尻尾はどんな形だった? こちらを見上げる目は? 記憶を頼りに、紙の上に“ぐーちゃん”の姿を描いていく。

 鉛筆で黒の毛を塗り、一通り描き終えたことに満足感を得たときだった。



「これはなんだい?」


「うわっ!?」



 いつの間に作業を中断していたのか、ジルヴァジオが背後から私の手元を覗き込んでいた。

 驚きのあまり私はスケッチブックを足元に落としてしまう。ジルヴァジオは素早い動きでそれを拾い上げたかと思うと、首どころか上半身ごと右に傾げた。



「この生き物は……犬か? いや、こんなに鼻の潰れた犬は見たことがないし……君はもしかして相当絵が下手なのかな」



 憐れみの目線を向けられて、私は思わず反論する。



「し、失礼な! これは……夢の中で見た生き物です」



 前世飼っていた愛犬です、とは言えずにそう偽った。するとジルヴァジオは再び描かれた“ぐーちゃん”をじっくり眺める。スケッチブックをぐるぐると回して逆さまから見たり、鼻先を紙に押し付けて至近距離で見たり。

 どうやら私の描いた“ぐーちゃん”は、ジルヴァジオの興味を引いたようだ。



「ふぅん。君が作った想像上の生き物ってワケか」



 そしてぽつりと呟いたかと思うと、



「よし」



 どこからともなく取り出した黒い塊をこね始めた。

 その塊は大きな粘土のように見えた。かなり自由に形を作ることが可能なようで、やがて塊は四本足の何かに姿を変えていく。

 ジルヴァジオが何を作ろうとしているのか薄々分かっていたが、私は黙って彼の手元を眺めていた。

 彼はこねて作った四本足の何かを地面に置いた。瞬間、驚くべきことにその塊がぶるぶると大きく身を震わせたのだ! まるで、水に濡れた後の犬のように。

 驚く私をよそに、ジルヴァジオは白の絵の具で黒い塊を塗り始めた。――顎下から胸元にかけて。



「あぁっ、動くな! 鼻が白くなるだろ!」



 筆先がくすぐったいのか、黒い塊は逃げるようにあたりを歩き回る。その際予定外の部分を白く塗ってしまったようで、ジルヴァジオは慌てたように声を上げた。

 目の前で、黒い塊がどんどん知っている姿に変わっていく。潰れた鼻先、立った耳、こちらを見上げる黒い瞳――



「こんなもんかな」



 そう、ジルヴァジオがよくわからない黒い塊で作り上げたのは、紛れもなく私が描いた“ぐーちゃん”だった。

 若干記憶の中よりでっぷりとした体形で、やけに凛々しい顔立ちをしているが、私の絵心のなさが原因だろう。ジルヴァジオは私が描いた“ぐーちゃん”にできる限り寄せてくれたのだ。



「こ、この子は?」


「使い魔さ。君のね」



 ジルヴァジオは“ぐーちゃん”を抱き上げると、こちらに向かって差し出す。私は恐る恐るその黒い身体に触れた。

 驚くべきことに、きちんと毛並みがある。そして温かい。生きている。

 どうやら黒魔術師は自分の手で使い魔を作れてしまうらしい。その一部始終をこの目で見ていたはずなのに、あの粘土のような塊が自分の意志で動くようになる原理が全く分からなかった。

 ジルヴァジオから“ぐーちゃん”を受け取り、胸元で抱きしめた。凛々しい瞳がこちらを見上げる。じっと見つめ返していたら、ぺろりと黒い舌に頬をなめられた。



「あぁ、口の中を塗るのを忘れていた! そのまま!」



 私の背中越しにジルヴァジオが“ぐーちゃん”の口内を絵具で塗っていく。迷いのない筆運びで立派な牙と赤い舌が描かれていった。

 隅まで塗り終わった後、よし、とジルヴァジオは笑う。



「名前をつけてやるといい。君がご主人様だからね」



 名前はとっくの昔に決まっている。

 私は信じられない気持ちのまま、前世の愛犬の名前を久しぶりに口にした。



「ぐーちゃん……」



 呼びかけに応えるように、ぐーちゃんのかわいらしい舌が私の鼻先をぺろりと舐め上げる。



「いい名をもらったね、ぐーちゃん」



 ジルヴァジオの大きな手がぐーちゃんの頭を撫でた。気持ちよさそうに目を細めるその顔が前世の“ぐーちゃん”と重なって、懐かしいような寂しいような、不思議な気持ちになった。所謂ホームシックというやつになってしまったのかもしれない。

 じっとぐーちゃんを見つめていると、ふとジルヴァジオの気配が遠ざかっていった。顔を上げれば、彼はもう飽きてしまったのかこちらに背を向け、屋敷に向かって歩いている。

 私はその背に慌てて声をかけた。



「ジルヴァジオ、何かお礼を……! と言っても、私が差し上げられるものなんて、あまりないのですが……」



 ジルヴァジオの大きな背中が振り返った。そして考え込むように腕を組み、右の人差し指でリズミカルに二の腕を叩く。

 人の目前に突き付けたり己の二の腕を叩いたり、彼の人差し指はずいぶんと忙しそうだ。



「礼? 礼か……。あぁ、そうだ!」



 何か面白いことを閃いたらしい、大股で近寄ってきたジルヴァジオに嫌な予感がする。

 かなりあった私との身長差を埋めるように腰を大きく折った彼は、自分の右頬を人差し指で二度叩いた。そして、



「頬にキスしてくれ」


「キス!?」



 信じられない言葉を口にした。

 驚きのあまり大声を上げた私に、ジルヴァジオはさらりとのたまう。



「通俗小説によると、恋人からのキスはお礼になるらしい。僕は形から入るタチでね」



 それはなんとも、恋を知らない世界一の変人魔術師らしい言葉だった。

 反射的に否定してしまいそうになったが、私とジルヴァジオは紛れもない恋人関係であり、キスを拒否する方が不自然かつ不誠実だと思い直す。どんな経緯であれ、恋をしないかというジルヴァジオの提案に私は頷いたのだ。暇を持て余し、血迷っていたとはいえ!

 それにぐーちゃんという使い魔を贈ってもらった以上、お礼として彼の要望にはできるかぎり答えるべきだ。むしろ使い魔を作ってもらったお礼がキスなんて、安上がりにもほどがある。間違いなく、私は得をしている側だ。

 そう自分に言い聞かせて、私はジルヴァジオの右頬をじっと見つめた。そして標準を合わせ、



(ええい、ままよ!)



 目を瞑り一思いにキスをした。

 ――結果としてはキスというより、唇を押し当てたような、あまりに色気のないものになってしまったのだけれど。



「……うん、なんだ、少しくすぐったいな」



 瞼を開けた先、至近距離でぼやける頬がほんの少し、赤らんでいるように見えて。

 私が口を開くより早く、ジルヴァジオは踵を返した。そして早足で屋敷の中へ姿を消す。



(照れた? ……ううん、まさかね)



 すぐにその背を追う気にはなれず、私はぐーちゃんを抱きかかえたまま、湖の方へ視線をやった。そのとき、ジルヴァジオが描いていた絵が目に入ったのだ。

 彼の画力は確かなようで、湖畔の美しい景色がキャンバスに描かれていた。どこかの画廊に並べられていてもおかしくないほどで、絵画で賞を取ったことがあるというのも本当だろう。

 このまま外に置いておくのはもったいなく思えて、私は屋敷に持ち帰ろうとキャンバスを手に取った。――その瞬間、キャンバスの裏に更にもう一枚、別のキャンバスが隠すようにして置かれていたことに気が付く。



「……これ、私?」



 キャンバスには、鉛筆で私の姿が描かれていた。スケッチブックを膝に抱え、鉛筆を手に絵を描いている私の横顔が。

 どう考えても、先ほどジルヴァジオが描いたものだろう。おそらくさっさと風景画を完成させ、手持無沙汰になったから手近なものを絵の題材に選んだだけなのだろうけれど――



(少し、くすぐったいな)



 私は風景画の後ろに隠れていたもう一枚のキャンバスも回収して、軽い足取りで屋敷へ戻った。


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