03:シロップ漬けのパンケーキ
新居の調度品はどれも一級品だ。元は王家が泊まる別荘だったのだから当然と言えるが、古い作りながらとてもしっかりとしていて、管理人である老夫婦が定期的に掃除をしてくれていたのか劣化も見られない。
特に各部屋に置かれているベッドはどれだけ寝返りを打とうと落ちそうにない大きさで、横になったら数分以内に眠ってしまうほどふかふかだ。新居に引っ越してからというもの、睡眠の質はぐっと上がり、睡眠時間もかなり伸びた。
今日も九時頃までぐっすりと寝た。そして流石にそろそろ朝食を作ろうと廊下に出たとき、その異変に気が付いたのだ。
――甘い匂いがする。
脳裏に浮かんだのは一人の男の顔。昨日突然訪ねてきて、私の恋人の座に納まった世界一の変人魔術師ジルヴァジオ・アッヘンバッハ。まさか彼が、朝食を――?
「おはよう」
「お……はようございます」
リビングに降りた私を出迎えてくれたのは、白シャツに黒ベスト、そして黒いズボンというシンプルな装いのジルヴァジオだった。見慣れた黒いローブは身に着けておらず、なんだか物足りなさを感じてしまう。
ジルヴァジオは木で出来た立派なテーブルの上に朝食を運んでいるところだった。
「申し訳ないが食糧を持参してこなかったのでね、厨房のものを勝手に拝借した。きちんと記録しておいたから、今度街に降りたときに調達するよ」
甘い香りの正体はジルヴァジオが作った朝食だったようだ。
私は香りに誘われるように席につく。目の前に置かれたお皿の中央には、分厚いパンケーキが一枚鎮座していた
ティーポットと二人分のティーカップを最後に、朝食のセッティングは完了したらしい。向かいの席にジルヴァジオが腰かけた。
「パンケーキですか?」
「甘いものはお好きかな?」
寝起きの頭で「はい」と頷く。
紅茶が注がれたティーカップを差し出されたので、私は反射的に受け取って口をつけた。どうやらミントティーだったらしく、鼻先まで抜けていく爽やかな後味に徐々に意識が覚醒していく。
ほぅ、と息をついたところで、今度はソーサーが目前に差し出された。先ほどと同じくそれを受け取って、机の上にティーカップとソーサーを置く。まさに至れり尽くせりだ。
昨日ジルヴァジオの提案に頷いた自分を、このときばかりは褒めたたえたい気分だった。
「僕も甘いモノが好きでね。寝起きでこの上なく重い頭を目覚めさせるには、これが一番効く」
ジルヴァジオはそう言いながら、すごい量のシロップをパンケーキにかけたものだからぎょっとした。皿の上にはシロップの海ができあがっている。
「シロップ、そんなにかけるんですか?」
「君もかけてみるといい。喉を焼くような甘さが癖になるからね!」
椅子から腰を浮かせて、ジルヴァジオはぐっと前のめりになった。そして長い腕を伸ばし、私のパンケーキにも勢いよくシロップをかける。
「あっ、ちょっと勝手に――!」
制止する暇もなく、あっという間にパンケーキがシロップの海に溺れてしまった。
シロップで表面がテラテラに光ったパンケーキを見下ろす。甘いものは確かに好きだが、これはどう見てもかけすぎだ。
「さぁ、どうぞ」
しかしジルヴァジオが作ってくれた以上、食べないのは失礼だろう。それにもしかしたらこの分厚いパンケーキは、これぐらいシロップをかけた方が美味しいのかもしれない――
嫌な予感とほのかな期待を胸にパンケーキを一口サイズに切り、目を瞑って口に放り込んだ。
瞬間、口内に広がる強烈な甘さ。だくだくのシロップは喉の方まで流れ込み、強すぎる甘味は喉にダメージを与えた。
「げほっ、ごほっ」
私は慌てて紅茶に手を伸ばす。そして一気に飲み干し、甘味の塊を喉奥に押し込んだ。
涙目で向かいに座るジルヴァジオをねめつける。朝食を作ってくれたことには感謝するが、この甘味地獄を作り上げたのもまた、彼だ。
「甘さで噎せたのは初めてです」
「あっはっは! 君のそんな表情を見たのも初めてだ!」
しかし当のジルヴァジオはどれだけ睨んでもどこ吹く風で、それどころか腹を抱えて笑った。
いくら強く責めてもジルヴァジオに一切響かないのは旅の道中で学習済みだ。彼の言動に腹を立てた仲間が、顔を真っ赤にして怒れば怒るほどジルヴァジオは大笑いしていた。他人の怒った顔が彼にとっては愉快なのか、謝るという選択肢が彼には存在しないのか。
どちらにしろ、ジルヴァジオには怒るだけ時間も体力も無駄だ。だからはぁ、とため息をついて――先ほどよりも頭がすっきりしていることに気が付いた。
重い頭を目覚めさせるにはこれが効く。それはその通りかもしれない。
「でも、確かに目は覚めたかもしれません。ここまで甘すぎなくてもいい気がしますが」
だからといって、目前に広がるシロップの量を許容することはできない。体にも悪いだろう。
しかしジルヴァジオは私が放った言葉から、自分に都合のいい部分だけを抜き取って大きく頷く。いつの間に食べ終えたのやら、彼の前の皿は空だった。
「そうだろう、そうだろう! よし、明日も作ってあげよう!」
「いえ、遠慮します」
――その後、私はシロップ漬けのパンケーキと死闘を繰り広げた。
いくら甘すぎるといっても作ってもらったものを残すのは心苦しくて、大量の紅茶を御供に、心を無にしてひたすら胃の中へ流し込んだ。なるべくパンケーキを舌に触れさせないように、なんて無駄な努力もしつつ、食べ終わる頃には舌も喉も地獄のような甘さに慣れてしまったのか、思いの他美味しく頂くことができた。
そんな私の様子を、ジルヴァジオは向かいの席で大笑いしながら眺めていたのだった。
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