第14話  ばかだな

享子は大きな花束をもって病室に現れた。

享子の芝居はいつもと違う。

最新の注意をしなければならない。

享子は昨日、母親に最後に言った言葉を思い出していた。

「もし台詞を忘れたり、動きが止まったら、感情を爆発させてください。わめいて、私に罵声を浴びせてください。その方がうまくいきます」

とにかく今日は今までになく力を入れなければならない。

享子は聡の病室のドアをノックした。

予想どおり返事はなかった。

陽一のときもそうだった。

実際自分の生死に直面すると、他への気配りは出来なくなる。

享子はおそるおそる中を覗いた。

中では聡がベッドの上に座っている。

真正面を向いて微動だにしない姿はまるで人形のようだった。

ノックしたことも、享子が覗いた事にも気づいていないように見える。

でもそんなはずはない。

気づいてもそれをノックと認識していないだけだ、享子はゆっくり病室の中に入って行った。

享子がベッドのすぐ横に来たときになってやっと、聡は享子の気配に気づいたように見えた。

首だけで享子の方を向いた。

そして顔にゆっくり驚きの表情が浮かんだ。

「何しにきた」という聡の言葉に怒りはなかった。

いや何もなかった

「あたし。あたし。あたし」と行って享子は下を向いた。

聡が自分の事を見つめるのが分った。

そしてその時間は酷く長く感じた。

長く感じられた。

長く感じられた言とうことは、今の自分の思いは偽りではないと思った。

「亨子ちゃん、俺のこと忘れてくれたと思って安心していたのに」

「安心」

「そうさ、俺なんかの死に目に会ってしまえば、それなりにショックだろう。だったらその前に俺のことなんて忘れてくれれば良いと思って」

絶対にその言葉は嘘だと思った。

聡は今、享子がここに来たことをとても喜んでいることがわかっていた。

でもそのことを聡は必死になって隠そうとする。

「今からでも遅くない。帰るんだ、そして俺のことなんか忘れてくれ」

「私も忘れようと思った」その言葉に聡は反応した。

酷く寂しそうに見えた。

そして次の言葉が続く。

「ここに来ることはもうよそうと思った。段々元気が無くなって行く聡君を見ているのが辛かったの。でもだめだった。忘れられない。こんな形であなたと別れたら、あたしはきっと。いえ絶対に後悔する。なんで最後まで一緒にいなかったんだろうって」嘘ではない。

その時は本当にそう思っていた。

嘘でこんな演技が出来るわけがない。

自分は中倉聡に心を預けている。

と同時に演技もしている。

何をしているんだお母さん、そろそろ出てこい、と享子は思った。

「あら、あなた」と後ろから声がした。

やっと現れた。

「ご無沙汰しています」と言って享子は母親に頭を下げた。

「何しにきたの」その言葉は今の状況が理解できないかのように力のない言葉だった。

そういう演出はしていない。

でもより効果があるように思えた。

そしてつぎの瞬間その顔に怒りが込められた。

「今更、どんなつもりで、聡を見捨てて。ただの興味本位だったんでしょう。病気の人間はどんなだろうって。帰ってよ。帰りなさいよ。もう満足でしょう」

母親のテンションが段々と上がっていく、それはすでに演技ではなくなっている。

これは本気だよと享子は思った。

でもかえってこの方が良い。

これが演技なら完璧な演技だ。

でもきっと演技ではない。

享子は本心では、この母親からこう思われていたんだなと感じる。

人の生き死にで、お金を稼ぐ女。

死を目前とした人間を見て楽しんでいる。

心の底では、そう思われているから、決して感謝などされない。

そんな事は分っているのに辛いと感じた。

「ごめんなさい」と享子は小さく言うと聡のベッドの横に膝をついた。


そして聡のベッドにすがりついた。

「許してください。わたし、ここに来るのが怖くて、怖くて、段々足が遠のいて、でも、ここにこなくなると。

やっぱり怖くて、辛くて、でも聡君の事が忘れられない。

辛くって、いても立ってもいられなくて、お願いです、ここに、ここにいさせてください。お願いします」

泣きながら訴えかける享子の演技は圧巻だった。

いや演技などではなかった。

その時の享子は本当に中倉聡の恋人だったのだ。

「ふざけないでよ。そんな事言ってまた聡をすてるんでしょう」

「そんなことありません」享子は声を荒げる。

「出て行って、出て行きなさいよ。これ以上聡を振り回さないで。心をもてあそばないで」聡の母親は泣きながら、わめいた。演技とは思えない、演技ではない。

この母親は、享子のことをこう見ているのだ。

効果は抜群だが、享子の心は大きく傷つき、今までにないダメージをこうむっていた。

「母さん出て行ってくれ」二人の剣幕を遮るように聡が叫んだ。

そして次は静かに、

「二人だけにしてくれないか」と言った。

「ええ、分ったわ」母親は正気に戻ったように冷静な声で返事をすると病室を出て行った。

「馬鹿だな」と聡はいうと。

すがりつく享子の頭をかきむしった。

ボサボサになった髪の毛の間には聡を愛おしそうに見つめる享子の目があった。

その目は決して演技ではない。

今自分の前にいる少年は死にゆこうとしている。

あの時と全く同じだった。

陽一が死ぬときと感情的には寸分変わらない。

「逃げちゃいけないと思ったの。最後まで見届けよう。そうしなければ絶対に後悔する」

「でも亨子ちゃんもダメージを受ける」

「それでも、ここで逃げて後悔する方がダメージは大きいと思った。だから。だからもう逃げない。だからここにいさせて」聡は黙ったまま、享子を見つめた。

その沈黙がどれくらいだったか、分らなかった。

そして

「ばかだな」と聡はもう一度言って、さらに享子の頭をかきむしった。

明らかに聡が喜んでいるのが分る。

陽一が死ぬとき自分がいる事で、陽一は救われた。

また自分は同じことをしようとしている。


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