第9話  初めてのお見舞い

行動開始の当日、享子は赤いジャンパースカートに白いブラウスという出来るだけかわいらしい格好で決めた。

今日の段階では何も知らないと言うことになっているので、適当な大きさの花束と果物を持って聡の病室を訪れた。

享子は病室のドアをノックした。

「はい」という不機嫌そうな声が聞こえた。

「あたし」と言って享子は何の遠慮も無く病室入った。

聡は驚いて言葉を失っている。

「どうしたの、お見舞いにくるって言ったじゃない。全く迷っちゃったわよ、こっちの方の病棟は来たことがなかったから、元気そうじゃない、もしかして退院間近、明日来たらもういなかったとか」

「いやまだ当分」

「ふーんでも驚いた。個室なんだ、あたしはまた大部屋の隅っこにでもいるのかと思った」

「うちの親が気をつかってね」白血病は無菌室が原則なので、その対応が出来るようにだろう。

「えっなに、気を遣われるような病気なの」と楽しそうに言う享子の中で、ひどい葛藤が生まれていた。

白血病の患者に向かって言うことではない。

まして聡は自分の病気の事を知っている。

「まあね」と聡が気弱に言う。

聡の心は意外にもろいのかも知れない。


仕事の第一段は心を開かせることだ。

普通はこんな状態で誰かと新たに知り合いたいなんて思わない。

まして異性である、元々クライアントは彼女なんていない人間がほとんどだからなおさらだ。

なぜ今というこの時に出会えたんだろう、自分の不幸を呪うのが関の山だ。

心の底からこの女と人生の最後に出合えて良かったと思わせなければならない。

「大丈夫、大丈夫。あたしがお見舞いに来たかぎりは、すぐに良くなるよ。

この病院に入院していたあたしの叔父さんだって、予定の入院期間の三分の二で退院出来たんだから」今日の享子はとても明るい、元気な少女だった

おそらくこの天真爛漫な対応はもう出来ない。

ここから先は、病気のことを知った恋人である、悲しみを背負いながら、健気に対応する、そういう恋人を演じなければならない、だから白井享子が本当は明るい少女なんだという印象を与えることは今しか出来ない。

「なんか前とは別人みたいだな」

「前って」

「ほら、映画館で出会った時」

「ああ、あのときはね、ちょっと事情があってイライラしていたの」

「なに、彼氏とけんかしたとか」

「えー、なんでそんな事が分るの」

「この間、あいつに似ているって言っただろう、あえて聞かなかったけれどそれが彼氏ってことじゃないの」

「別に彼氏と言ったって、別にまだ何も始まっていなかったけれど、だから簡単に別れようなんて言えるんだわ」

「で、どうなったの」

「別れたわよ。あんなやつ。いや、そもそも。まだ何も始まっていなかったし、厳密に言えば。始まる前に、終わったって感じかな」

「じゃあ。さびしいね」

「全然。しばらくはこういうことはいいやって感じ。享子は、男なしでも、強く生きていける」

「何の、宣言だよ」

「自分を鼓舞する、儀式かな」

「じゃそのとばっちりを受けた、一番の被害者は俺と言うことになるな」

「そうかもね、その節はご愁傷様でした」

「何だ全然反省していないな」

「だってあたしが悪いわけじゃないもん、あなたは運が悪かったのよ」

「運が悪いか。そうだな俺は運が悪い」感情を殺したように聡が言う。

後ろ向きの言葉が随所にでて来る。

とにかく享子は何も知らない状態なので、少しでも明るく接する。

「大丈夫よ、あたしがここに来たと言うことは、あなたの運は好転するから」と言って享子はかわいい女の子を演じつつ、胸をたたいた。

その時ドアがノックされた。

聡は不機嫌そうに「はい」と言った。

中に入ってきたのは聡の母親だった。

城戸がどこまで伝えているか分からない、細かいことが聡の両親に伝わっていない可能性もある、だから享子が今日ここに来ることを知らない可能性もある。

享子は母親がうまく演技してくれることを願った。

「あら。どちら様」一応は分ったようだが、なんだかぎこちない。

仕方なく享子は先手を打つことにした。

享子は立ち上がると。

「初めまして」と頭を下げた。

「あっ、あなたは、えーと」母親は混乱していた。

享子が「最後の恋人」から来ている事は思い出してくれたようだが、自分がどう対処すれば良いか分らないようだった。

あからさまに狼狽して気の毒なくらいだった。

でもクライアントに同情している場合ではない。

「街で逢った聡君に、この病院で偶然に再会して、驚いてお見舞いにきました。突然すみません」何だか、説明的な言い方になってしまった、大丈夫か、と享子は思った。

「ああ、そうですか。知り合いが入院なさっているのかしら」せめて知り合いでも、と言ってくれないと、自分の事を知っているみたいじゃないか、と享子は思った。

ここはごまかすしかない。

「はい、叔父が」

「まあ、そうなのね」享子は聡の顔を見た。

表情には出ていないので、何とかこの場は切り抜けたかと享子は思った。

さてどうする、母親が享子の事を知っているような態度にでると、シナリオが狂ってしまう。

ここまで両親が非協力的なのも珍しい。

と言うより「最後の恋人」に依頼したことも忘れているのかもしれない。

「なんだよ、俺のところに女の子が来ている事がそんなに珍しいのかよ」聡が母親に神経質そうに怒鳴った。

「あっごめんなさい」その聡の言葉に母親は冷静を取り戻した。

どうも病気がなくても、こんな関係なのかなと享子は思った。


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