第2話 白井享子
享子は仕事が終わると抜け殻のようになる。
まして仕事が終わった翌日の学校などは、寝に行っているようなものだった。
もっとも、享子からすれば、学校に行くことだけで褒められる事だと思っていた。それほど体力と精神を消耗しているからだ。
だから教室では、講義などしていないかのように眠った。
実際死に直面した人間と向きあうというのは、自分の生気を抜き取られて行くように感じる。
仕事に徹すればするほど、享子の心は相手がクライアントというより、現実の恋人のように認識してゆく、たとえはじめは契約により恋人を演じていたとしても、いざ情が入ってしまえば、それは本当の恋人が死んでしまうのと何ら変わることがない。
だから亨子自身も大きなダメージを負う。
かといって事務的に演じればいいという、がさつな仕事でもない。
結局の所、人が死んで悲しいのは、身内だとか、友達だからではなく、いかに自分とその人の心がつながっているかだと、享子は思う。
だから本当に親兄弟でも心のつながりがなければ悲しくない。
逆に赤の他人でもその人との心のつながりがあれば、その悲しみは大きく膨らむ。
享子は本間孝夫の事など一ヶ月前まで知りもしなかった。
でもこの一ヶ月濃密に接することで、享子の中で本間孝夫が、心のつながりという意味ではは、本当に恋人になった。
だから演技を越えた状態で、身近な人の死を体感しなければならなかった。
でもそんなことに、誰一人気付いてくれない。
「白井さん、ご飯行こう」と享子は揺り起こされた。
いつの間にか横に高沢良江が座っていた。
享子は良江が、いつからいたんだと、ぼんやり考えた。
自分が教室に入って来たときはいなかったはずだ。
横に良江が座ったことにまったく気づかなかったということは、よほど享子は深く寝ていたということだ。
「何だ、いたんだ」と享子は片目をまぶしそうに開けロレツの回らない口調で言った。
「随分ね、ずーっと隣に座っていたのに」
「いつ来たの」
「講義が始まってすぐ」
「そうなの、全然気付かなかった」
「すごいね」
「なにが」
「だって机にうつぶした状態でそこまで深く寝られるってことが」
「あたし、そういうの大丈夫なのよね」
「いや全然褒めてないから」
「そうか」
享子が「最後の恋人」を始めて分ったことは、世間の温度差だった。
そういう状態にない人と、生と死の狭間を行き来する重病患者とその家族。そこにある温度差はあまりに大きい。
普通に歩いていて、信号で止まったとする、隣に立った人には何の悩み事もストレスもない。
なのに重病患者を抱える家族はその瞬間も、心の負担から解放されることはなく、たとえ目の前にとても楽しいことがあってもそれを楽しいと思うことが出来ない。
その中で仕事をする享子にとって、そこは修羅場の連続だった。
それに比べて大学の平和なこと。
取るに足らないことで一喜一憂している回りの人間が幼く、何も考えていないように感じる。
この温度差に嫌悪感すらある。
この仕事を始めて享子は数人の友達を失った。
嫌、正確には享子の方が付き合いきれなくなった。
そんな中で高沢良江はなんとなく気があった。
その言動と行動を考えると、一番先に離れてしまってもおかしくない娘だった。
享子は一度良江に尋ねたことがある。
「人の死に目に出会ったことはある」と。良江はあると答えた
「おばあちゃんが死んだとき。あのおばあちゃんが死ぬ一ヶ月間は家中が重く沈んでいた」そんなことがあってから、享子は良江を親友のように思っている。
「昨日は仕事だったの?」と学食のカレーを食べながら良江が話しかけてきた。
「うん」良江は享子がしている仕事のことは、具体的には知らない。
もっとも言えるような仕事でもない。
「でもさーいい加減教えてよ」良江は仕事が終わったときの享子の状態を知っている。
「言いたくない」
「なんかヤバい仕事?」
「人助けだよ」
「人助けで人に言えない仕事というと、一つしかないわね」
「何よ」
「だから風俗とか」
「なにそれ、そう言うのって、人助けって言わないでしょう」
「そんなことないわよ。モテない人のかりそめの恋人になってあげるんだから」
「そんな」と言って享子は思った、今自分がやっているのはそういうことだ。
やっていることはその物ズバリだ、ただ状況と方法が違うだけ。
そこまで言っておきながら、その先を根堀葉堀聞いてこないところが良江の良いところだ。
「仕事が終わったんなら、しばらく暇なんでしょう」
「うん」
「だったら渋谷付き合ってよ」
「何しに行くの」
「用事がないと行っちゃいけないの」
「そんな事ないけれど」
「山本君に映画誘われたんだ」山本君というのは亨子たちのクラスメイトの男の子で、もしかしたら良江に気があるのかもしれないと二人で言い合っていた子だった。
「えー、そうなの」
「うん」というと良江は心持ち下を向くと、頬を赤らめたように感じた。
こんな純粋なところが良江の良いところだと享子は思っていた。
「じゃ、新しいパンツ買いに行くんだ」
「白井さん下品」と良江がオバーに言う。
渋谷で服を選んでいると、享子は段々良江がかわいく見えてきた。
週末のデートを楽しみにしてウキウキと服を選んでいる姿はとても今時の女子大生には見えなかった。
まるで高校生のようだ。
「どうお、これ」と試着室から出てきた良江がポーズをとる。
「ちょっと地味かな」
「そうかな」と言ってまた試着室のカーテンを閉めた。
「白井さんも何か買えば良いのに」試着室の中から良江が享子に声をかけた。
「だって彼氏いないもん」と言って享子の胸が痛んだ。
(一ヶ月間だけ恋人がいた)
(死んでしまったけれど)
「自慢げに言うことじゃないわね」
「お客様とてもお美しいのに意外ですね」と、店員のお姉さんが、そんな二人の会話を聞いていて享子に話しかけた。
話に乗ってしまうと自分も服を買う羽目になりそうだった。
「お客様は鼻筋が通っていて、口元がキリッとしているので、かわいらしい物より、大人っぽい物が映えると思いますよ」
「ほらほら、そんなダサい格好をしているなってことよ」
「いえそういう意味では」とは良江の言葉にお姉さんがが過度の反応をした。
「本当に例えばこんな感じのイヤリングをするだけでも顔が引き締まって見えるんですよ」店員は話をそらすようにイヤリングを薦めた。
それは享子のKをかたどった物だった。
意外と享子は気に入ってしまった。
「かわいい」と言ったが最後享子はそれを買うことになった。
「ダサーい」試着室を出てきた良江は享子のイヤリングを見て言った。
「よく言うわね。母校に教育実習に来た女子大生みたいな格好して」
「それはお互い様」結局良江はその時に試着していた服を買った。
「ねえ、一つ聞いて良い」ケーキをつつきながら享子が言った。
「何」
「もしかしてデート初めて?」
「二人きりはね」
「そうなんだ」
「一度誘われたことはあったれど、何せ中学の頃だから真面目くさって断った。
今思うと、ひどいことしたなって思う」
「どうして」
「だって相手は悩んで、悩んで、意を決して、誘ってくれたわけでしょう、それを断ったんだもの」
「何も考えずに、勢いだけで誘ったのかもよ」
「そういう人ではなかった」
「ふーん」と言った時、享子は自分が恋人になってあげた人たちの事を思い出した。
そんな、勢いや、ノリで告白するような人はいなかった。
「なんか白井さんて、ウブなのか擦れているのか分らないね」
「なのよそれ、よく面と向かって言うわね」その時享子は笑って答えたが、ちょっとだけカチンときた。
「影で言うより良いでしょう」と良江は全然気にしていないように言った。
「そう言えば、さっきのイヤリング見せてよ」
「あのダサいやつのこと」
「やだなー、根に持っているのね、正直な感想を言っただけじゃない」
「もっと悪い」と言ったときの享子の中に、良江に対する怒りのような物は微塵も残っていなかった。
どこか良江は憎めないところがある。
享子はイヤリングを良江に渡した。
「よく見るとかわいいね」イヤリングはデザイン化したKの文字にハートのリングが二つついた物だった。
「珍しい形よね」
「それは認める」
「初めて意見が合いましたな」
「あっ、本当だ」
「で仕事と言うのは何」
「秘密」と言って、たいしておかしくもないのに二人して笑った。
笑ったが、やはり良江も気になっていると言うことだ。
でもとても「最後の恋人」の話をする気にはならない。
「最後の恋人」は考えようによってはエキストラの会社と言えなくもない。
エキストラの会社というのは最近出てきている。
結婚式の友人のエキストラ、会場を埋めるエキストラ、すごい物になると、孤独な人が疑似家族を招いて、ひとときを過ごす、要望はまちまちだ。
はじめから家族がいない人に家族がいたらどんな感じか、とか、家族はいる、もしくはいたという人が家族がいた頃を思い出すために呼ぶなど、そういう中にあって「最後の恋人」は一つのことに特化している。
それは孤独だった人が不治の病に犯されて、でも寄り添ってくれる人がいない。
最後に自分のために泣いてくれる恋人がいたらどんなに良いだろう。
はじめそんな事が商売になんてならないだろうと思われた。
ところがこれが意外と需要があった。
「最後の恋人」は死ぬことが決定している人に最後の恋人をあてがうことが仕事だった。
人の死を商売にしていると批判をされる事もしばしばではあったが、明らかに需要はあった。
でもこれから死にゆこうとする人をだますのだ。
でも需要はあったのだ。
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