永遠の二月

帆尊歩

第1話  本当の恋人なら、何の問題もなかったのだろう

「たか君」と少女がベッドに横たわる少年に向かって言った。

「亨子ちゃん。この人生の最後に享子ちゃんに出会うことが出来て、本当によかった。これで心おきなく死んでゆける」

「そんなこと言わないで。今はちょっと苦しいかもしれないけれど。すぐよくなるよ」享子と呼ばれた少女は、神妙な面持ちで答えた。

その少女の引きつった顔は少年に自らの死を感じさせるには、十分だった。

この後に及んでも、自分に生きる希望を与えようとする少女のけなげさが、少年にはどうしようもなく愛おしかった。

初めて死にたくないという思いがわいた。

少年はもっと早くに少女に出会っていたら、と考えてすぐにその考えを打ち消した。

この自分の最後の瞬間に少女に出会えたことだけでも、本当に幸せだった。

そう思おうとしていた。

「いいんだ、分っている」

「ほら、約束したじゃない。バイクの後ろに乗せてくれるって、あの約束を破るの」

少女はすでに涙声になっていた。

「ごめん、その約束、守れそうにない」

「たか君」

そんなやりとりを少年の両親が見守る。

医師もその切羽詰まった状況に同情の意を禁じなかった。

全身に癌が広がってしまっている少年にとっては、薬を投与するしかその想像を絶する痛みから解放されるすべはなかった。

そしてそれは少年がそのまま昏睡の状態になり、数日を経て息を引き取ってゆく事を意味していた。

今が少年と会話が出来る、最後の局面だった。

そのとき少年の体に激痛が走った。

もうこれ以上は耐えられないだろう。

医師が薬を注射すると今までの痛みが嘘のように安らかに少年は眠りに陥っていった。

きっと少年はもう二度と目を覚ますことはないだろう。

これから数日の昏睡が続き、そのまま少年は逝ってしまう。

事実上白井享子の仕事は終わった。


少年の両親と享子は病院の待合室で向き合って座っていた。

「どうもありがとう」と父親が言う。

でもその言葉に本当の意味での感謝は含まれていない事は、享子には分かっていた。

「いえ」と享子は短く答える、そして出来るだけ感情を込めないようにする、それがプロだと思うから。

「あなたのおかげで孝夫も最後の瞬間幸せだったと思います」

「あのお父さん」享子のお父さんという言葉に、父親の顔が曇った。

お前にお父さん呼ばわりされるいわれはないと言うのが、ありありと顔に出ていた。

でも、そんな事をいちいち気にはしてはいられない。

孝夫の両親ほどではないにしろ、享子だって孝夫の最後に、相当な負担がかかっている。

「まだ、たか君は亡くなった訳ではないので。そういうのは」

享子にはなんとなく分った。

孝夫の父親は、すでに自分の息子の死を確信していて、諦めたように言い切る。

ここで自分の息子の死について、心の整理をつけようとしているのだろう。

その方がいざ本当に亡くなったときのショックが少なくていい。

少しでも早く心の整理をつけようとする遺族は確かに存在する。

「いいんですよ、そんなに気安く呼んでくれなくて。もうあなたの仕事は終わったのだから」ほんの少しだけ蔑んだようなイントネーションを享子は感じた。

いつものことだ。

自分で頼んでながら享子が完璧な仕事をすればするほど、その遺族は享子に対して言い知れぬ不快感を持つ。

本当の恋人なら何の問題もなかったのだろう、でも享子は違うのだ。

「いえ最後の瞬間まで終わっていません。一応お葬式までですけれど」

「別にそこまでついてくれなくて結構ですよ」

「いえ私の仕事ですから」

「そうか、それが最後の恋人なんですよね」

「はい」



部屋に帰ると享子は自分がひどく疲れていることに気づいた。

それはいつものことなのに一向に慣れることはない。

人の死に立ち会うことが、どれほどエネルギーを消耗するか。

医師や看護師は治療をするためのマシンに徹すればいい、徹すれば徹するほど医療行為は客観的、かつ正確になってゆく、しかし享子の仕事は自分の心に、患者への想いを移入して、それを患者にも移入する、患者の心を理解して、その悲しみや苦しみを分かち合って行かなければならない。

人が一生かかってもそう多くは経験しないことを生業としている。

享子は、ベッドに倒れ込んで目をつぶった。

一瞬寝てしまいそうになって、頭をあげた、横の時計が目に入った。

それはもうすぐ一月がおわることを告げていた。

そう、またあの二月がやってくる。



本間孝夫は女の子にもてるタイプではなかった。

丸顔で愛嬌があっても恋愛対象にはならないタイプだった。

だから今まで生まれて二十二年間、彼女という者が孝夫のそばにいたことはなかった。

それは両親も知っていて、付き合っている友達もすべて男だったし、家につれて来るのも、みんな男友達だった。

だから両親を含めて孝夫にガールフレンドの存在を想像することはひどく困難だった。

そんな孝夫が癌に犯された。

おとなしい性格で高校の時も家と学校を往復するだけの毎日だった。

両親はきっと息子には本当の意味で楽しい、生きていてよかったと思う出来事が彼の上には皆無だったと思った。

だから両親はそんな不憫な息子に夢を見せてやろうと考えた。

それが嘘でもいい、本当に自分のことを分ってくれて、心の支えになり、死んでゆくときに側にいる人、それが嘘でもこんな自分を愛してくれる女の子がいるということが大事なのだ。

そして享子が所属する「最後の恋人」に話がきた。

「最後の恋人」は孤独な人に最後に夢を見せることをビジネスとしている。


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