二話 そろばんの音

 ナナがこの世界に来てからひと月程、経過時のこと。


 当時、ナナはこの世界の情報を知る事でいっぱいいっぱいだった。現在も情報収集が必要な事に変わりはないが、あの頃より無知は改善されたと言って良い。


 しかし、二ヶ月経った今でも地球とこっちとの違いに驚かされることが幾ばくかある。というのも当時、ナナの情報源は香花からの話だけだったからだ。


 ナナは香花から一人での外出を禁じられていた。それもそのはず、この世界の常識も知らず、道も分からないナナだけでは外で生きていけるはずがない。


 しかし、此処で生きていく上で常識や文化を知ることは必須科目だった。だが、香花も一日中ナナに話をしていられるほど暇ではない。詳細は不明だが、仕事だって香花にはある。


 ギリギリでの生活を強いられてきたのであろう。全てはあの小さい一軒家が物語っていた。ただでさえ、そんな状況だったのにもう一人プラスで養うことは香花にとって荷が重すぎた。


 昼は働き、夜は無知であるナナに物事を教える。まるでシングルマザーのような……いや、赤ちゃんでさえ、日本では保育園などの施設があっただけ、シングルマザーの方がマシかもしれない。


 生活と知識……先行きの見えない不安は募るばかりだった。金銭面について訊くと香花は「まあ、余裕はないわねー……そのうち二人揃って餓死してるんじゃないかしら?」と冗談を吐いていたが、正直笑えなかった。


 それ以降、金銭の話題を香花には持ちかけていない。表面こそは無愛想だが、香花も根は優しかった。下手に心配をかけさせたくなかった。


 そして、事は起きた。晩のおかずが一品減った。ただ、それだけのこと。だが、そんなことがナナにとっては衝撃的だった。香花が買い物で買い忘れをしたところなど見た覚えがない。


「香花さん……今日は……その……少ないですね」


「何が?」


「えっと……おかずというか……なんというか」


「なによ、文句でもあるの? 居候のくせに」


「い、いえ! そんな……ただ何でかなって…………」


「別に、買い忘れただけよ。私だってミスくらいするわ」


 違う。ナナはそう感づいた。家計が苦しくなり始めたのだ。


 翌日の献立は数こそ揃っていたが、一品一品の量が少なく感じた。


 そうした食事の違和感を覚え始めてから三日目の夜、おやすみを交えてから三十分後、暗闇に目が慣れ始めた頃に確認したが、香花の布団はもぬけのからだった。


 トイレのドアから、灯りが漏れており、中からチッチッと弾くような音が聞こえた。そろばんの音だろう。


 ナナはそっとトイレへと近づき、ドアに耳をつけ、盗み聞きをした。


「…………うーん……やっぱりどう足掻いても来月厳しくなるわね」


 聞かれぬようにとボソボソっとした声がトイレから呟かれていた。もちろん、香花の声だ。


「…………仕事を増やすしかないか……あの子にはどう言えば良いかしら……最近、感づいているようだし上手く誤魔化さないと……」


 やはり、この家の生計は苦しかった。この話で想定は確信に変わった。


 香花さん、そうまでしてなんで……。


 香花の独り言を聞くまでナナの中には一抹の不安があった。それは香花がナナを手放そうと考えてるのではという不安だった。もうひと月も他人を支えて生活してきたのだ。そこまでする義理はない。むしろここまでよく面倒をみてきたものだとも捉えられる。


 だが、香花は違った。これ以上に重荷を背負おうと考えていたのだ。


 ナナは心底、不思議に思っていた。自分のために何故こうまでしてくれるのだろうか。少し前、香花に話の流れで尋ねたことがあった。その時は「私が助けたんだもの。そのまま、なにも出来ずに死なれちゃったら後味が悪いでしょ、だからよ」と、顔色ひとつ変えずに香花は答えていた。


 だけど、ナナは自分だけ特別、手厚く世話を見てもらっているように思えた。こっちに迷い込んだ人間は自分だけではない。他にも、急な展開でこの世界に降り立った人間は多からずともいるはずだ。香花が迷い込んだ人間に会うのも初めてではないだろう。なのに何故、ナナにはつきっきりで世話をしてくれるのだろうか。


「はぁ……どうしようかしら……」


 どっちにしろ、これ以上、世話をかけたくない。その時、ナナはある事を決意した。

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