二章

一話 言えない事

 謎の生物・地人が住む島。体の一部がまるで獣であるかのよう――それは魔物と化した人間もどきなのか。はたまた、人間に近づいた魔物の姿? 魔物ですらないのかも。


 それに加えて地図すらないこの世界。ここは地球上の世界ではないのだろう。海の向こうは今日も悪魔が微笑んでいる。


 いつ迫害にあってもおかしくない。そんな世界で息を潜めてひそひそ生活している少女がいた。


 いつまで続くんだろ……この生活。


 広すぎず狭すぎずなこの島。木々が生い茂っていない浜辺から見てやや左にポツリと建っている小屋のような家、通称不死川家。の前にある道を三、四十分歩いてある人気のない店。そこにいるコーヒーカップを拭きながら上の空でぼんやりしている少女。彼女こそが約二月前に島へと迷い込んだ内気ガール、ナナである。


 香花さんと会ってもう二ヶ月か……不安にしてたけどちょっとは仲良くなったかなぁ……。


 あの壮絶な初日から幾日か経った。が、しかし、疑問だらけの日々は変わらない。1つの納得が、また1つの謎を生む毎日。それに伴って不慣れなここの生活はナナのメンタルを削る。

 

 不安で一杯の中、香花はナナのことを娘のように慰めた。ほぼ毎日だ。そんなのだから、また情けなくなって感情がボロボロになっていく。もう世話になりっぱなしで次期に合わせる顔がなくなりそうだった。


『香花さん……私……この世界で生きていける自信ないです……』


『何泣き言、言ってんのよ、私が守ってあげるっていつも言ってるでしょ。大丈夫になるまで近くにいてあげるからちょっとは自信持ちなさい』


『でも……でも……』


『でもじゃないわよ。まったく、ほら、あんたが寝るまで付き添ってあげるから』


「………………」


 昨晩のこと思い出し、顔を隠しながら一人で悶絶するナナ。これじゃあ、赤子と母親だ。


 こんなことが毎日だからとっくに香花が自分に対して嫌気がさしてるのでは……とナナは時々考えてしまう。


 ネガティブな方向へ捉える自分にうんざりしつつも、手元の作業をこなす。今日はいまだに1人もお客さんが来ていなかった。時間をつぶすため、ナナは念入りにカップを磨いていた。自然に囲まれながら、レトロを思わせるこのカフェは今日も暇を持て余している。たった今、3つ目カップを拭き終えた。


 そう、ナナはこの店で働いているのだ。服装もエプロンを身につけている。


 初めはその初々しさにナナも少しは胸を躍らせたが、もちろん、この世界における客に地人もいる。その事実に働き出してから気がついたナナは、いつもプレッシャーで押し潰されそうになる。初の労働経験と危ない客との接待、ダブルパンチである。


 そのせいもあってか、香花に慰めてもらう時間が働き出してから増した。最近だと香花に抱きしめられながらではないと寝付けないようになっていた。


 他の人には口が裂けても言えない……。


 ここで働くことに早く慣れることが出来たら……と思う反面、慣れたくはないという気持ちもある。慣れからの油断で正体がばれ、痛い目に遭うというパターンをナナは恐れていたのだ。


 だが、今のような時間。がらりとしていて、客が来ないような時間だけ、ナナが羽を伸ばせる唯一のひと時であった。


 視界に映るカウンター席、円型で六人用のテーブル席、いい景色が見られるわけではないが、真近に自然を堪能できるカフェテラス。大人数で利用が可能な規模のカフェだけあって、こうも人気がないのは些か寂しく感じられる。


 ただただ、古ぼけたLPレコードからジャズが流れているだけだった。虚しさを誤魔化すように。


「ふう……」


 ナナは拭き終わったカップ一式を横長で大きい棚の右下に仕舞った。


 入れ終わるとすぐに壁へと寄った。カウンターからは隠れて見えないが、そこにはドアがあった。客からは視線が届かないこのスペースこそナナの小休憩場所であった。


 だが今回、用があるのはドアの向こう側だ。ナナはドアノブを捻り、前へと押した。


 ドアの向こうにはこじんまりとしたリビングがあった。そう、ここはカフェ兼住居だった。キッチンに別の個室が1つ、あとは風呂があるだけ。トイレはカフェに設置されているものを使っているのだろう。あまり広々とした場所ではないが、何1つ不自由はなく生活できる空間がそこにはあった。


 ナナはリビングの手前側にあるソファへと足を運ぶ。ソファにはナナよりも大きな女性がスヤスヤと気持ちよさそうにアイマスクをつけて眠っていた。この女性こそがカフェの店長であり、この家の持ち主だ。


「むー、珈々(ここ)さんまた寝てる」


 目覚まし代わりに怒りを込め、ナナは店長に甲高く発声した。


「珈々さーん! 食器洗い終わりましたよー!」


 一拍置いて店長は「んあっ……」と呟き、ハムスターのように顔をゴシゴシと擦った。アイマスクをつけたまま。


「んー? 真っ暗ねぇ、ナナちゃぁん、電気つけてぇ」


「アイマスクついたまんまですよ」


「あ、そうだったぁ」


 横になりながら、店長はアイマスクを外す。中からは、黒に若干の紫を帯びた瞳で、薄い眉に垂れた目があった。まるで美術室に飾られた油絵のような目だ。


 店長は寝たまま体を伸ばし、「よいしょっと」と口に出した後、軽やかに起き上がった。


 その直後、胸からぶら下げされた巨大なボールのようなモノが上下に大きく揺れた。同性であるナナもしばらく視線がそこに向いた。


「羨ましい……」


「んー? 何か言ったぁ?」


「い、いえっ! 何も!」


 取り乱すナナに、店長は首をかしげた。何を慌てているのか、店長本人には分からなかったのだ。


 彼女の名前は舌間珈々(したまここ)。かなりマイペースな性格で、嫌なことは絶対やらない主義のグラビアアイドル級スタイルの持ち主だ。瞳と同じ黒に近い紫色の髪を腰まで靡かせており、男性が彼女を目に入れると一瞬で虜になってしまうだろう。この世界で生活しているのがもったいない。


 ただ、容姿同様というか裏腹というか、珈々はかなりの面倒くさがり屋でワガママだった。ナナが食器洗いしていたのも「私は珈琲が入れたいのぉ。食器洗いはパスぅ」という発言からだった。働かせてもらう身なので雑用は当たり前であるが、基本そう言った雑務は行わない。


 私が来るまでどうやって経営してたんだろう。


 帰り際、珈々に呼び止められ、彼女の晩御飯を任されたこともナナは度々経験していた。店員というかもはやメイド扱いだ。


「行くよぉ」


 苦悩の日々を思い返しているうちに、珈々はさっさとナナが通ってきた道を戻っていた。


「あぁ、待ってくださいよー……」


 ナナもその後を追う。


 カフェに戻っても、店内は相変わらずのガラン状態だった。寂しさを紛らわせるジャズが流れているだけだった。


「いつも通りねぇ」


「珈々さん、お客さんがいない事をいつも通りっていうのやめましょうよ。仕舞いにこのお店経営出来なくなっちゃいますよ」


「このお店じゃあ利益なんてゼロに等しいわぁ」


「え、それってお金……生活費とか大丈夫なんですか? 私の給料もあるのに……」


「大丈夫ぅ、別の収入口があるからぁ」


「別の?」


「詳細はぁ、ヒ・ミ・ツ」


 知ってはいけない領域らしい。ナナはこれ以上言及するのをやめた。


 カラン。


 入り口のドアが開き、設置されていた鈴が鳴った。客が入店したようだ。


「あ、いらっしゃいま――」


 ナナが挨拶をして、目を配った。ボサボサに纏められた髪に、見覚えのある顔、そこには四八目の姿があった。


「四八目さん!」


「お、ナナじゃねぇか。ここで何してんだ?」


「働いてるんですよ、ここで」


「珈々の店で、か? やめとけやめとけ、あいつ人の扱い雑なんだぞ」


「雑で悪かったわねぇ」


「あ、珈々。珍しく起きてたのか。とりあえず、いつものな」


「はいはい、ナナちゃぁん、カップ出してぇ」


「はい!」


 先程、片付けた棚の中からカップを取り出し、珈々に渡した。


 四八目は鼻歌混じりに、手前の席から5つ目のイスに着席した。丁度、店内で中央に当たるカウンター席だ。


 カップを珈々に渡してからナナには仕事がなかった。飲み物を淹れる作業は珈々の仕事でナナはノータッチだった。珈々が起きていないときはナナが調理するが、メモを読みながらの作業で時間がかかり、出来もよろしくはなかった。どうにもナナは手先が器用ではないらしい。


「はぁー、暇だぁ、ナナ話し相手になってくれよぉ」


 性格上、じっとしていられないのだろう。横顔をカウンターにべっとりとつけ、四八目はやる気のない目をしていた。


「良いですよー、あ、1つ聞いて良いですか?」


「あぁん? なんだ?」


「四八目さんと珈々さんってお知り合いだったんですか?」


 ナナがこの店で四八目と会ったのは初めてだった。初対面の日以降、ちょくちょく顔を合わせることはあったが、どれも香花の家のみだった。なので、四八目が珈々と話しているところをナナは今日初めて目撃したのだ。


「知り合い……っつーか、古き良き仲というか」


「良きっていうのはないかなぁ、私は四八目と仲良いとは思ってないしぃ」


 準備をしながら、珈々は横槍を入れてきた。


「ちぇっ、なんだよ」


 ブーブーと文句を垂れる四八目。香花同様、互いを信用しているからこそのジョークととれる。


「おめえは何でこの店で働いてんだよ」


 率直な疑問が四八目から飛ぶ。


 ナナがこのカフェで働く事になったのは些細な出来事がきっかけだった。

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