第10話 「言って――あたしのために」
イグネイは魔物の手元に視線をやった。空になった瓶。瓶についていたリボンはくるくる巻かれて、魔物のほっそりした指にからまっている。
「そのリボンに、名前が書いてあるんだな? 『秘密』の持ち主の」
魔物は答えず、庵へ歩いていく。
ゆっくりと陽が沈み、気が付けばあたりには宵闇の青さばかりが層になっている。イグネイは魔物の後を追った。
「なあ、取引しよう。俺は、俺の母の『秘密』が欲しい。母の瓶をくれたら、変わりに何でも手に入れてやろう。お前の望みを言え――魔物でも、欲しいものくらいあるだろう?」
魔物は庵の扉の前に立ち、何度か瓶を振ってしずくを落とした。そのまま瓶を逆さにして伏せて、扉を開いた。
「——魔物!」
イグネイが叫ぶのを無視して、魔物は黄金の髪をゆすり、若木のような身体を扉の隙間にすべりこませた。
ばたん、と扉がしまる。イグネイは扉にとりつき、激しく取っ手をゆすった。
「開けろ! 俺には母の『秘密』が必要なのだ!」
がちゃがちゃと、乱れた音が宵闇の森に響く。一瞬だけ、鳥もウサギもリスも、池に住むカエルも小魚も静まった。
イグネイは狂ったように叫んだ。
「俺はトウィス・コンウォーリス・アルタモントの息子だ! だが、アルタモント侯爵の子とは、限らん。
俺はいったい誰の子供なのか。
それを、知りたいのだ!」
かたん、と最後の音が立った。叫びすぎたイグネイは息が乱れ、再びめまいに襲われた。
扉の取っ手にしがみつくようにして、ずるずると身体が崩れていく。
「俺は――都へ戻ったら王姪をめとらねばならん。陛下の命令なのだ――だが、どうだ。
もし俺が、陛下の弟、ダウド公爵の子供だとしたら。
王姪が俺の異父姉だとしたら……姉と弟がちぎる……おぞましい」
きい、とかすかに扉がきしんだ。細い細い隙間から、魔物の青い目が見つめていた。
イグネイは顔を上げ、宵闇より透明で、宵闇より深い色の瞳を見返した。
その透明すぎる瞳に、イグネイは疑惑をささやく。
「母は……俺の兄を産んでから、ダウド公爵のひそかな愛人だった」
扉がまた、もう少し開いた。魔物のすんなりした鼻があらわれる。
イグネイはそっと手を伸ばし、魔物の鼻に触れた。前夜、池でおぼれかけた時、夜の池底で見た貝とおなじ、ひんやりした、ほの白い鼻だった。
イグネイは息を続けるように、魔物の鼻を撫で続けた。上から下へ、下から上へ。その規則的な動きが、次の言葉を引っぱりだした。
「俺の――誇り高い母が、王弟の愛人でありたいと望んだのか、わからん。
あのころ父は異国で捕虜になっていた。父の身代金は莫大で、アルタモント侯爵家では払いきれなかった。
半年後、母は巨額の金を用意した。捕虜交換の交渉には、ダウド公爵が当たった。ダウド公爵は、異国の王とつながりがあったんだ」
きい、とふたたび扉が開いた。今度は、柔らかく、赤い唇が現れた。イグネイの指は、ためらいながら魔物の唇に触れる。
なんども。
なんども。
指の動きを追って、告解のようなイグネイの言葉がほそく続いた。
「捕虜交換が成功して、金が支払われ、父は帰国した――八か月後、俺が生まれた」
イグネイは恥じるようにささやいた。
「俺は、『月足らずの子』として生まれた――二カ月も早く生まれたのに、月満ちて生まれた子と同じ大きさ、同じ体をもって、生まれた。たぶん――」
言いよどんだ。
魔物が、唇を開く。
イグネイの指が吸い込まれていく。魔物は宵闇と同じ濃さの青い瞳でじっとイグネイを見つめたまま、口にふくんだ指をかんだ。
きゅ、と。
指をかんだ。
イグネイの長身が、びくりとする。
魔物はもう何も言わない。ただふっくらした唇と、唾液と体温で男をうながしていた。
『言って――貴方のために』
声にならない命令が指を伝ってイグネイの脳髄に伝わる。
イグネイはあらく息を吐く。もうすべての言葉は飾りを引きはがされているのに、イグネイの誇りが最後の壁となってあらがった。
だが、魔物はイグネイをたやすく操った。
きゅ、とかまれた指先から言葉が流れ込む。
『言って――あたしのために』
貴方のためではなく、あたしのために。
イグネイの壁は、崩落した。
彼は目を閉じ、震える唇でしゃべった。
「たぶん――父は分っていた。だから俺を、愛さなかった。
母はもちろん、何も言わなかった。
魔物よ、この世界で確実なものはたった一つしかない。
人がどの腹から生まれたのか、ということだ。
父親が分からずとも、子供が生まれた腹は、わかっている。
だから秘密は――俺の母だけが知っている」
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