第三章

第9話 「『ひみつ』もしぬ」

 イグネイが目をさました時、あたりは不思議な明るさに満ちていた。ゆっくりと身体を起こした。

 ここはどこだ? 混乱している。王宮にある豪華なアルタモント侯爵家の一室ではなく、駐屯しているはずの石造りの修道院でもない。

 手の下に、ざらりとする土の感触がある。

 赤茶色の土床を見て、イグネイは昨日の記憶を呼び覚ました。


 母の『秘密』を手に入れるため、修道院長をおどして『番人』と会おうとしたこと。

『番人』を追ううちに、『聖なる森』の奥深くへ入ってしまったこと。

 水音を聞いて『番人』がおぼれたのではないかと思い、とっさに池に入ってしまったこと(自分が泳げないのに……)。

 そして今、無数の『秘密』に囲まれていること――。


 ようやくイグネイは、自分が『森の庵』にいて、薄緑色に光る『秘密』をおさめたガラス瓶に囲まれていることを思い出した。

 そして全身が、ひどく痛むこと。

 まだ熱があるらしく、力が入らないことも。


「いったい、今は朝か昼か……」

 ゆるりと立ち上がり、イグネイは小さな庵の扉を目指した。この庵には、窓がない。しかし木で作られた扉の隙間からは、うっすらと外の光が感じ取れた。

 暖かいような橙色が漏れている。


 よろよろと歩いて、扉にもたれかかるようにして開ける。

 外は、すでに夜の青と夕日の橙がせめぎあっている色をしていた。


「夕暮れか……俺は一日眠っていたのか?」


 意識を失っていたのは、はたして一日なのか、二日なのか。イグネイにはそれもわからない。ただ、目の前にある池が夕日にきらめき、宵の青さを飲み込みつつあることだけが、わかった。


「とにかく、夕方だな」


 黒いマントを体に巻き付けたまま、イグネイはふらふらと歩き始めた。まだ熱の残る身体に宵風がここちよい。だが池までたどり着けず、草の上にしゃがみ込んだ。

 森の香りが、満ちている。

 木々のにおい、透明な油をまとっているような常緑樹のにおい、新芽のにおい――夏の終わりのにおいだ。


「ここは――どこだ」


 鳥が鳴き、小さな生き物たちが食料を探している世界。木々の先が良い闇で黒ずみはじめている世界は、信じられないほどに美しかった。


「ほんとうに『聖なる森』の中なのか。俺は、もっと妙なところに迷い込んでいるのか」

「おきた?」

 ぼんやりと池を眺めていると、背後から声がした。イグネイがぎょっとして振り返る。


「——ああ。魔物」


 夕間暮れにあらわれるという美しすぎる少女のような魔物が、立っていた。

 手に何か、持っている。ガラス瓶だ。


「それは――『秘密』の入っている瓶か?」


 イグネイが尋ねると、魔物はちょっと首をかしげた。


「もう、ちがう」


 手にしたガラス瓶をかかげて見せる。イグネイはじっと魔物の手元を見た。


「『秘密』が光っていないな……色が、変わっている」


 さっきまでイグネイがいた『庵』にずらりと並んでいた瓶の中には、薄緑色に光る『秘密』があり、あやしい緑色の光を放っていた。しかし今、魔物が手にしている瓶の中身は赤茶けていた。

 ガラス越しでも、『秘密』が固くしぼみ、干からびているのが分かった。


「なぜ、色が変わる?」


 イグネイが尋ねる。魔物は池のほとりでしゃがみこむと瓶に結ばれていたリボンをほどき、しずかに瓶の封印をはがした。


 ひきゃり……というかすかな音が、聞こえた。魔物はその音をたしかめてから、瓶を水面におろした。


「——何をしている?」

「しんだ。すてる。あらう」


 魔物の小さな手が無駄なく動き、ガラス瓶を池の中につけた。

 軽く揺すると赤茶けた『秘密』はもう何も言わず、乾ききった砂のカケラのようにサラサラと池の水に溶けてしまった。あっというまに見えなくなる。

 魔物は何度もていねいに瓶を洗うと立ち上がった。ゆらりと金色の髪が夕やみに光った。

 イグネイは陽が沈むとともに、黒く変わる池をじっと見た。


「『秘密』は――死ぬのか」


 魔物は不思議そうにイグネイを見た。


「しぬ。なんでもしぬ」

「『秘密』は生き物じゃないだろう。死ぬはずがない」


 イグネイの言葉を聞いて、魔物は軽くうなずいた。意味が分かったというように。


「『ひみつ』もしぬ。『ひみつ』の人がしねば、しぬ」

「ああ、なるほど――告解した本人が死ねば、秘密も消えるのか。もう守る必要がないから」


 魔物は何も言わない。

 イグネイはゆっくりと立ち上がった。めまいがしないか、確かめる。ほんの少し、視界がぐらついた気がするがもう大丈夫だろう。熱の名残はあるが、動けないほどではない。

 イグネイは後頭部をトントンとたたいた。頭をはっきりさせたい。

 母の秘密を『庵』から盗む前に。

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