第8話 「これが――『秘密の瓶』か」
しかし、黒いマントは丁寧に、丁寧にイグネイの裸体に巻き付けられただけだった。まるで屍衣のような巻き方だ。きちりと隙間なく、丁寧だがすばやい作業。
「……あ」
イグネイの前に、木の椀に注いだ湯が出てきた。どこから湯が来たのかと見回すと、いつのまにか石小屋のなかの炉に火が入っていた。
おそるおそる椀を受け取る。
「一瞬で火がともる暖炉。一瞬で沸く湯……魔物の住みかだ……」
「マモノ?」
魔物は自分も湯をのみつつ、イグネイを見た。それからうなずく。
「マモノ、マモノ」
「いや、俺じゃない。そっちのことだ」
「おれじゃない、そっち。まもの」
もう一度繰り返すとほっそりした指で湯の入った椀を包み、ゆっくりと飲みはじめた。イグネイを見て、椀を指さす。飲めということらしい。
イグネイはびっちりと巻き付けられたマントの隙間から、苦労して手を出し、ゆっくりと湯を飲んだ。
熱が身体にしみいる。
ホッとした瞬間、イグネイは石小屋、『森の庵』の中が奇妙に明るい事に気付いた。
あたりを見回して、息をのむ。
「……これは……!」
小さな建物のすべての壁にはぎっしりと棚が作られ、棚には無数の瓶が並んでいた。
すべての瓶には、ほのかに緑色に光る不思議なものが入っている。それは瓶の内部で明るくなり暗くなり、不規則に明滅していた。
イグネイはうめいた。
「これが――『秘密の瓶』か」
椀を置き、ヨロりと立ち上がる。壁に近づいて瓶をなめるように見た。
けっして大きな瓶ではない。イグネイが片手で持てる程度の大きさだ。ガラスのような透明感のある瓶だ。
中には、ぽってりとした柔らかそうなものが入っている。乳白色をしているが、ほんのりと緑色に光っていた。光の強さは一瞬ごとに変わっていく。
「『秘密』は光るのか……」
イグネイが瓶をつかもうとすると、横から魔物が手を伸ばして止めた。
首を振る。
「触るな、ということか?」
「だいじなもの」
「いったい、どれくらいの数があるんだ。百か、二百か」
魔物はただ首を振った。百や二百では足りないということが言いたいのか、それとも、魔物だから数字の概念がないのか。
あやしい光の中で、それ以上に妖しく美しい少女の魔は唇を引き結んだまま、イグネイの手首を握りしめている。
「……なんという、美しさだ……」
イグネイは堪えかねてつぶやいた。
『秘密』のことではない。目の前の魔物のことだ。
柔らかそうな金色の巻き毛、すっと伸びた鼻、ふっくらした唇に、ふんわりした白い頬。緑色の眼はぱちりと開き、常に何かを言いたそうな色合いを持っている。
魔物は、何を言われているかわからないふうで、土床に置かれた椀を手に取り、イグネイの前に差し出した。
イグネイはゆっくりと身体を倒し、椀に口をつけた。
魔物の手が支える椀の湯は、どんな美姫と飲んだ酒よりも甘く、ふくよかな香りがした。
すべてを引き込む、魔の味だ。イグネイは魅入られたように湯をむさぼり飲んだ。
椀が空になると魔物は手を引き、イグネイに炉の前で眠るようにうながした。
「いや、ここは女性がいるべき場所だ。兵士はすみでいい……」
そういいながら、イグネイはめまいを感じた。
「――もしや、あの白湯に何か入っていたのか? まさか、お前が――」
言葉は、最後まで出てこなかった。
土床が勝手にイグネイのほうへ迫ってくる。
ちがう、俺が倒れているんだ、と思う。
とさりと倒れた土床の冷たさに、イグネイはうっとりした。
この床は、ひんやりしている。きもちいい。なぜおれの身体は、こんなに熱いんだ。
熱いのか?
いや――寒いのか?
高熱と悪寒に包まれて、イグネイはそのまま、気を失ってしまった。
ほんのりと緑に輝く妖しい光に、囲まれたまま。
この世にあってはならないほど美しい魔物に見下ろされたまま、呼吸だけが高く、低く続いていた。
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