第7話 「やめろ……よせ」
目の前で、星が散った。これは痛みからくる衝撃の白い星だ。
「……がはっ!!」
イグネイは池の水を吐き出しながら、目を見ひらいた。よほど大量に水を飲んだのだろう、吐いても吐いても 水草のにおいがするものが出てきた。
それでもゼイゼイいいながら、呼吸をととのえはじめた。
「……助かった」
「ここ、水、すくない。しなない」
はっと隣を見る。あの輝くような美少女が金色の髪を波打たせて、イグネイをのぞき込んでいた。
「お前が、助けてくれたのか」
魔物は首を振り、スカートを持ち上げると立っている池のふちからゆっくりと水に入った。
「あぶない!」
イグネイが叫んでも、平気で水に入っていく。やがて、膝まで水が来たところで振りかえった。
池の中央部を指さす。次に、ほっそりした腰のあたりをしめす。
「水、ここまで。しなない」
「……え?」
しだいにはっきりしてくる意識の中で、イグネイはあたりを見回した。
小さな池。
まわりを囲む背の高い針葉樹。
自分が、もたれている岩。岩から少女までの距離はイグネイの足なら三歩ほど。池の中央までは二十歩も歩けば十分だろう。
ごくごく浅い池なのだ。
どさ、とイグネイは岩に体を預けた。
「は……バカみたいだな。そうか、お前はおぼれていたわけじゃないんだな」
魔物は言葉がわからない様子でしばらく頭を傾けていたが、やがて自分の手をひらひらさせた。
「ここを出る、かわかす」
「乾かす? なにを?」
魔物はもう一度だけ手をひらひらさせた。イグネイは目を閉じてぐったりとした。体が震えはじめている。いろいろなことが、もうどうでもよかった。
「とにかく、池からここに運んでくれたことは礼を言う。ありがとう」
魔物は何も言わず、池から上がって髪をしぼった。
夏の星は光が強い。金色の髪が一本ずつ輝きながら水滴をこぼす様子が浮かび上がっていた。
イグネイはただ、見とれた。理由もなく、理屈も必要としないほど、魂を奪われる美しさだった。
「——まさしく、魔だな」
視線をはずせずに、イグネイはつぶやいた。
目の前で起きていることが、現実なのか夢なのか、よくわからない。ただ耳の底から、さびたような老人の声がよみがえってきた。
『目の前にあるものを、そのまま受け入れます。それだけです』
俺を疑わないのか、とイグネイが尋ねた時の、修道院長の答えだ。だが今は、事情が違う。修道院長が見ていたのは生身のイグネイだし、イグネイが今見ているのは、明らかな魔物だった。
この世にありながら、この世にいないものだ。
「しかし……この世に、魔などあるのか」
迷ううちに、魔物はさっさとイグネイのマントと靴をひろいあげた。
こちらを見る。夏の宵のような鮮やかな青い瞳が、くっきりとこちらを見ていた。
しなやかな手が、イグネイを招いた。
「えっ?」
魔物はそのまま、すたすたと歩きはじめた。イグネイはしばらくぼんやりとその後姿を見ていたが、はっとして立ち上がった。
水から上がると、身体が一気に重さを増した。同時に、身体の奥からすさまじい寒気が襲ってきた。
目の前がぐらりとする。しかし止まるわけにはいかなかった。
魔が支配する不思議な森の奥で野垂れ死にしたくなければ、二度と魔物を見失わないように、ついていくしかない。
よろめきながら歩いていくと、ときどき魔物が止まってくれているのが分かった。こちらの速度に合わせているのだ。
次第につのる寒気と、熱の予兆を踏み倒しながら、イグネイは一歩一歩すすんでいく。
その先に――。
小さな石の家が建っていた。
『森の庵』。
二百年あるという、人々の秘密と罪を閉じ込めた小さな建物だ。
魔物が扉を開けた瞬間、その後を追って、どさりとイグネイが倒れこんだ。
ひんやりした手が、額にふれた。黒い黒い池の水と同じ温度の指先だ。
「あつい」
指先はそう言った。人を巻きとり沈める水と同じように、指先は機能的に動いてイグネイから衣類を引きはがしていく。
「やめろ……よせ」
魔物はイグネイにのしかかり、手ぎわよく上着とシャツを引っぺがしていく。つぎに下着類も――。
魔物に触れられたところが、ひんやりとする。他のところは熱っぽく、感覚が鋭敏になっている。冷たい指先で触れられるたびに、全身が飛び上がるような快楽を感じる。
「やめろ……よせ」
気が付くと、丸裸にされたイグネイが土床に転がされていた。
熱でうるみはじめている目を開くと、頭上で魔物がマントを広げているのが見えた。
「よせ……よせ」
黒いマントが、あやしい鳥の羽根のように広がった。
漆黒のとばりがイグネイの顔にかぶさってくる――。
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