第6話 「ここにきて思い出した 超重要なこと」
水の音。どこかに、水源があるのにちがいない。イグネイの鼻はしめった水のにおいを探しはじめた。
風上から、透明なにおいがただよってくる。イグネイが身体をむけたとき、ひときわ大きな水音が立った。
ばっしゃ! びたん、びきょっ!
「落ちたのか?」
思わず走り出した。水のにおいはますます強くなり、イグネイは灌木の茂みをかき分けて駆けつづけた。ときどき、鋭くしなう小枝が腕や顔に小さな傷をつけたが、止まっている時間が惜しかった。
大きなイバラの茂みを踏みつぶすように越えると、星空のもと、一気に視界が広がった。
「——池か」
イグネイはあわてて足を止めた。勢いのまま、暗い池に落ちるところだった。
星あかりに透かして見ると、池は底が知れぬほど黒く、邪悪に見えた。
「あぶなかったな……あれは……!」
黒い池のなかで、小さな金色の頭が浮き沈みしている。よく見ると、浮いている時間より沈んでいるほうが長そうだ。
つまり、おぼれている。魔物が。
イグネイはとっさにマントを脱ぎ、靴を脱ぎながら、黒い水の中で浮き沈みする金色の頭との距離を測った。
それほど遠くはない。せいぜい、半ハロほどの距離。
「よし!」
小さく叫ぶと、イグネイは黒い水に飛び込んだ。
あの魔のような少女を、助けねばならない。頭の中はそれでいっぱいだった。
「ぐは!」
池の水は、思った以上に冷たかった。そのうえ、水がひどく重い。
イグネイはたちまち、動きが取れなくなった。
よく考えたら――あれが二百年いきる『秘密の番人』で、魔のものだとしたら、イグネイごときが助けなくてもおぼれないだろう。
そういうまともな考えが浮かんできたのは、身体が水の冷たさにケイレンしはじめた後だった。
思うように身動きが取れず、身体がどんどん黒い水に沈みこむのを感じる。
――ここにきて、重要なことを、思い出した。
イグネイ・コンウォーリス・アルタモント。アルタモント侯爵の末子は――ろくに泳いだことがないのだった。
魔ものを助けるなど――笑止千万。
今おぼれているのは、俺だ。
うすれゆく意識の中で、イグネイは我が身をあざ笑った。
己の立ち位置を正しく掴んでいないから、こんなことになるんだ。
我が名すら確かめえないから、こんなところで死ぬんだ。
いや、いっそこのままおぼれ死んだほうがいいのかもしれない。なぜならイグネイは、この世にあって、この世にいない男だから――。
「母上。これは、秘密を探るなという思し召しですか……」
黒い水が、イグネイを引きずり込んでいく。最後に左手一本を水面にあげ、ゆっくりと意識を失った。
ほわ、と目の前に星空が浮かんだような気がした。金色の星を散らした、たぐいまれな美しい星空が、見えた気がした。
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