第5話 「少女の形をした 魔」
ぱきり、ぽきり。
イグネイははっと体を起こした。
かすかな音が、聞こえていた。柔らかな下生えが震える感覚――足音だ。
頭を振り、意識をはっきりさせる。
まさか、自分が夜の森で熟睡できるとは思っていなかった。五年間の軍人生活は、高級貴族の公子ですら半野の人に変えるものらしい。
ゆっくりと音を立てずに起きあがる。あたりは塗りこめたような暗夜で、かすかな星明りしか頼りにできない。
ぼうっと、何かが近づいてくる。
イグネイはマントの中でナイフを握りしめ、一気に飛び出せるように準備を整えた。
かさり。さやり。
足音が近づいてくる。落ち葉を踏む音から計算すると、それほど大きな生き物ではないようだ。さらに言えば、四本足の足音ではない。足は二本。
イグネイは闇に目をこらした。
しゃさっ。きさささぅ。
音がとまった。イグネイのひそむ木々のすぐそばだ。
『番人』だろうか。
ああ、もう少し、明かりがあれば――。
イグネイが唇をかんだ時、ほんわりと、闇に浮かぶものがあった。
思わずナイフを持つ手に力がはいる。目を見張った。
かすかな緑色の光を発しているものは――少女の形をしていた。
簡素な服を着ているが、肩までの巻き毛を揺らして立つ姿は、宮廷育ちのイグネイが息をのむほどに美しい。
イグネイが呼吸すらひそめていると、魔物は木のうろに手を入れ、供物の入ったカゴを取り出した。中を見もしないで、そのまま歩き去る。
その動きの軽やかさ。
小さな足音だけが緑色の燐光を残して、遠ざかってゆく。
イグネイはうっとりと、その足音を聞いていた。足音すら、天井の音楽のようだ……。
おもわず微笑んだ時、かしゃん! という金属音ではっとした。
あろうことか、手にしていたナイフを落としてしまったのだ。落ちたナイフはイグネイの軍靴の金具にあたり、甲高い音を立てた。
金属がぶつかる耳ざわりな音。自然にない音は、暗い森の中でランタン以上に侵入者の存在を言い立てた。
魔物が、振りかえる。次の瞬間、俊敏なリスのように少女は走り出した。
「——くそ!」
イグネイは木の茂みから飛び出し、魔物の光る背中を追った。
月のない夜だ。暗い森の中で、かすかに光る緑の背中は目立った。歴戦の軍人であるイグネイは、たやすく跡を追った。それに、もう存在がバレている以上、隠密裏に追う必要はない。イグネイは邪魔をする木々を振り払いながら、突っ走った。
「とらえてやる」
つぶやくと、一気に速度を上げた。
しかし、さすがは魔物だ。
少女の姿を取りながらも、夜風と同じ速さで暗い森を駆け抜けていく。歴戦の戦士であるイグネイですら、ときおり見失う速さだ。
やはり魔物だ、とイグネイは思った。
だが、イグネイには有利な点が一つあった。
魔物はかすかに光っている。薄い薄い、蟷螂(かまきり)の羽根のような緑色が糸を引き、魔物の通った道に残っていた。姿を見失ったら、イグネイは立ち止まって、呼吸を整えながらかすかな緑色の痕跡を探せばよかった。
そして痕跡は、たいていイグネイの先、1ハロていどのところで見つかった。
夜の暗さと足元の悪さを計算に入れても、熟練の兵士なら三十秒ほどで追いつく距離だ。
緑に輝く不思議な生き物を追って、イグネイは次第に、暗い森の奥に入っていく。
後ろを確認していないので、自分がどれくらい修道院から離れてしまったのか、わからない。振りかえっても礼拝堂の尖塔すら見えないかもしれなかった。
何百年も人の手が入っていない『聖なる森』の木々は、それぞれ勝手に生い茂り、背を伸ばし、天を覆い隠すほどの高さに成長している。
イグネイは木々の迷路を、奥へ奥へと進んだ。
もはや後ろに下がることはできない。道はなくなっている。今はただひたすらに、魔のような少女のほの光る背中を追うしかない。
後を追うしかない、のに。
ふっと、緑の光が消えた。真っ黒な闇の中で、イグネイは首をめぐらせ、『番人』の姿を探した。
いない。
いない。
「くそ、見失った――どこだ、ここは?」
おちつけ、落ち着け、と声もなく言い続けながら、イグネイは短く切った髪を指で撫でつけた。汗が冷えていく。ぶるっと全身に震えが走った。
「まずい……迷ったな」
そう言った時、イグネイの耳は軽やかな音を聞きつけた。
ぱしゃ。
ひたひたひた。
ぴとり。
水の音だ。
イグネイは目を閉じ、嗅覚に集中した。
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