第2話 「身に耐えかねるからこそ、秘密を手放すのです」
「——修道士をおどすとは、天を恐れぬ所業ですな」
ひんやりした修道院の中で、ぽたり、と汗を垂らしながら老人は言った。見上げているイグネイは、ただにやりと笑うだけだ。
「いまさら、俺に失うものはない。あの秘密が手に入らなければ、俺は、自分が誰なのか、わからないんだ。
神は、己の名を知らぬ生きものに情けをくれるか?」
「神は万物に宿り、万物にしろしめす。その温かさは太陽のごとく、あまねく世界に降りたもう」
くくくっと、イグネイは笑った。身体を引き、木の椅子にもたれて笑い続ける。
「明日、同じ言葉を、家を焼き尽くされた村人にいってみるんだな。この取引を飲まなければ、明日から地獄絵図を目の前で見ることになるぜ。
強奪、略奪、子殺し、強姦。俺の兵士は天の軍勢にも、悪の軍勢にもなりうる。
あんたの、言葉ひとつだ」
ととっ、ととっという足音が扉越しに聞こえてきた。あの修道士が戻ってきたのだ。
もう時間がない。
イグネイが銀のゴブレットを傾けると、押し出されるように修道院長がささやいた。
「『秘密の番人』は、修道院内にはおらぬ」
「ほお……では、どこに?」
「『聖なる森』のなかだ……修道院の北にある……それ以上のことは、しらん」
「ふうん」
足音が止まる。がちゃがちゃと、金属のゴブレットが扉にぶつかる音がする。
修道院長は真っ青な顔でつぶやいた。
「今宵――」
「ああ、今宵」
「真夜中に、礼拝堂の裏で」
「礼拝堂の裏」
イグネイがつぶやく。がちゃりと扉の取っ手が回る。古い蝶番がきしむ。修道院長がささやく。
「礼拝堂の裏だ。明かりは、もってくるな――」
ぎぎぎっ、と大きな音がして扉が開いた。巨体の修道士が金のゴブレットをもって立っている。修道院長の蒼白な顔を見て、じろり、とイグネイをにらんだ。
「修道院長、ゴブレットをお持ちしました」
「ごくろうでした」
ごとり、とゴブレットがおかれた。繊細な細工をした美しいものだ。銀のゴブレットの上で、金で作った少女おどっている。
「たいしたものだ。略奪して、宮廷へもっていけば、王が喜ばれるな」
イグネイはにやりと笑って、ワインをついだ。自分のゴブレットをふたりに掲げ、
「安寧な駐屯に。修道院と村に、神の守護が得られるよう」
修道院長はにがにがしい表情でゴブレットを手に取った。
「天は、なにごとも力で解決しようとはなさいません。互いの尊敬と、慈しみに――」
修道院長がワインを飲むのを、イグネイはひんやりした微笑で見守った。
「どうです、なかなかうまいワインでしょう。我が父、アルタモント侯爵の領地は良いブドウが獲れることで有名なんです。なにしろ――」
とイグネイは言葉を切り、石壁に作られた窓から外を見た。目に染みるほどの蒼天。ギラギラと照り付ける夏の太陽は中天にあり、やがてゆっくりと沈んでくる。
みずからの道を知り尽くし、月に座を明け渡すために。
イグネイは白っぽい顔でつぶやいた。
「なにしろ土壌がいい。数百年にわたって、無数の血と死体を飲み込んできた大地ですからね」
立ち上がると、持参のゴブレットのしずくを切り、テーブルに置いた。
「私のゴブレットは、あずけておきましょう。またここに来ることになるでしょうからな」
扉を開き、石の廊下を歩きはじめる。
背後から、乾燥しきった枯れ枝のような足音が追ってきた。イグネイはくるりと振り返ると、
「修道院長、いまさら取引中止は聞かないぞ」
かすかに息を切らせた修道院長は、深い皺のある額に汗粒をうかべ、肩で息をしていた。
「取引は中止しません。ただひとつ、警告を――
かつて『秘密』を請け出したものはいません。秘密は番人のものです。
貴方を『森の庵』に案内した後、何が起きるかは」
と修道院長は呼吸を整えると、ゆっくりと話しはじめた。
「何が起きるかは、わかりません。貴方の身がどうなるか、この修道院がどうなるか、まったく予測がつかないのです。
おそらく修道院が作られて以来、二百年も生きている『森の番人』を見たものは、誰もいないのです」
「あんたは、場所を知っているじゃないか」
「『聖なる森』の道を、途中まで知っているだけです。私は『秘密』を入れた瓶を『聖なる森』の決まった場所に置きます。それで帰るのです」
イグネイは眉をひそめた。
「秘密は、どうなる」
修道院長の白いひげが揺れた。
「わかりません。しかし、次の秘密を持っていくと、場所は空になっている。前の秘密が置きっぱなしということはありません」
「つまり、『番人』が持っていくわけだな、その『森の庵』とやらに」
「おそらくは――なにひとつ明確にわかっていることはありません。ただ一つ言えるのは」
修道院長は深く落ちくぼんだ目で、じっとイグネイを見た。
「『秘密』は秘密のままにしておくほうがいい。人は、この世にあってはならない事を抱えつづけることはできません。身に耐えかねるからこそ、秘密を手放すのです」
しん、と沈黙が二人の間に落ちた。分厚い石壁を隔ててすら、夏のにおいがする。
焼けたような、焦れたような、叫びだしたくなるほどの熱気。
イグネイが声を絞り出した。
「たとえ世界が壊れようとも、俺は、俺の名をとりもどす。それだけだ」
「——あなたの名とは? あなたはイグネイ・コンウォーリス・アルタモント。
アルタモント侯爵の末子で、この修道院を占領するために来た王軍の司令官。そうでしょう」
「俺が、そう名乗っているだけだ、という疑いを持たないのか、修道院長?」
イグネイは、ひんやりした風が吹く修道院の廊下で、ニヤリと笑った。
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