第21話 魔女の友人・後編
「おはよう泉さん」
朝、家を出ると、私を待っていた人影が二人いた。千田くんと林田くんだ。
挨拶をし、珍しく三人並んで登校する。足元には子猫の姿をしたハルデが歩いていた。ご機嫌に尾を揺らしている。
確か林田くんの家って私と真逆だったから、わざわざこっちまで来てくれたのか。なんだか申し訳ないな。
数分歩いてから例の狩人の話題を上げる。林田くんは自身の眼鏡をくいっと上げ、隣の魔女へと視線を向けた。彼は目を伏せ切り出す。
「アイツは悪魔に魂を売った。もう人間に戻れない状態になってた」
背に冷たいものが這ってくる。即座に耳を傾けた。
彼の話によると、早朝に先生は姿を現したそうだ。この世のものでない禍々しい容姿を身に纏い、ほとんどの自我が消え失せていた。
切り離すことを試みたが、命を売却してからかなり時間が経っていたため殺すほか手段はなかった。
「学校では自殺扱いになる。後処理はハルデに任せてたから、詳しくはそいつに聞け」
俯いた千田くんは沈んだ様子で言う。後味の悪さに私は聞く気になれなかった。
死んじゃった、のか。仇討ちだと言っていたあの人は、人をやめてしまったのか。
事実上、佐山先生は悪魔に殺されたことになっている。千田くんが倒したのは悪魔であって先生ではない。この魔女は誰も殺していない。暗示に似た心の声が反芻する。
あぁ、私、最低だ。
大切な人たちが生きていることに安心してしまって、誰かが死んだという事実から目を背けようとしている。千田くんは正しいことをしたんだと言い聞かせている。
人ひとりが亡くなったのに。
『ときのちゃんが気にする必要はないよ』
不意に、頭に直接声が響いた。思わず足元を見る。そこにいるのは、トコトコと短い足で歩んでいる子猫だ。
彼はこちらを上目遣いで見ながら続けた。
『あの青二才、ちょっと前から安~い下級と契約を結んでたみたいなんだ。たぶん衝動的なモノ。魔女狩りの輩に変な洗脳食らったんだと思う』
ハルデはまるで世間話をするかのように、明るい調子で言って見せた。それに『ぼくにとってはご飯でしかなかったけどね』と付け足す。なるほど、今朝からこの猫の機嫌が良かったのはそういうことだったのか。
複雑な心境のまま学校に辿り着く。
教室の入り口。林田くんは浮かない表情になりつつ、無理に笑ってこちらに手を小さく振った。私も振り返して、次に千田くんへと目を向ける。見た限り彼は平然とした様子だったが、いつにも増して物憂げだった。
朝のホームルームで佐山先生の話が出た。魔女の言う通り自殺になっていた。
胸の中がぐるぐると掻き乱される。
この教室で真実を知っているのは私だけ。彼の死に加担してしまったという真実を知っているのは、この教室には私だけ。
息が、苦しい。
ハルデに気にするなと言われたが無理な話である。もしあの時、私が大人しく殺されていたら先生は生きていたかもしれない。でも私が死ねば千田くんまで死んでしまう。そうしたらきっと、林田くんも椿妃さんも悲しむ。じゃあ私は助かって良かったのだろうか、正しかったのだろうか。佐山先生が死んで良かったのだろうか。
……わからない。
そんな筈がないと思うのに、思えないんだ。あぁ、私、最低だ。
その日の授業は何一つ、頭に入って来なかった。
――放課後――
担任の先生のお呼び出しで千田くんがいない。代わりに林田くんが隣で待ちぼうけしていた。今日は部休日である上に、独りで帰るのはつらくてできないと、彼は眼鏡の奥の瞳を濁らせた。
人気のない廊下。
残っている生徒の会話が聞こえてきてしまう。教育実習生の自殺について、無駄な考察を交わす声が響いてくる。
「大丈夫? ってそんな訳ないか」
力のない口調に私は顔を上げる。引きつった笑顔が痛々しく、林田くんは再び口を開いた。
「罪悪感って言うのかな、なんだかずっとモヤモヤしてて」
どうやら彼も私と同じ気持ちだったらしい。殺したのは悪魔でも、千田くんでもなくて、
私は乾いた唇を開いて言葉を紡いだ。
「先生が亡くなったことは別として、林田くんが助けてくれたことは感謝しているよ。ありがとう」
彼はまた困ったような笑顔を浮かべた。
黙り込む空気。他の話し声が遠ざかっていく。
彼は自身の手を見つめて言った。
「オレたちさ、何もできなかったじゃん。だからこうして居られるけど、手を下した咲薇はもっとツラいんじゃないかなって思う」
その言葉が、空っぽの胸に音を立てて入り込んでくる。はっとした。
千田くんの物憂げな横顔が、ハルデの明るい声がよぎる。
使い魔は主の許可なしでは殺しができない。つまり、あの猫が先生を食べたのは千田くんの命令だったから。最終的に殺す判断をしたのは、彼。
一体どんな思いで告げたのだろう。堕ちた人を目にして、殺せと言ったのは。
かつて人だったものに、死ねと言ったのは。
「悪い、待たせたな」
千田くんの声にびくりと体が反応する。慌てて向けた視線の先、彼はスクールバッグを肩に掛け、疲れた顔をしていた。
林田くんが彼の言葉に応答し、寄りかかっていた背を壁から離す。倣って私も一歩踏み出した。
帰路は私の予想と異なり、至って普段と変わらなかった。年相応の軽いやり取りが繰り返され、笑顔も自然と零れる。違和は感じられない。
間もなく林田くんが道を曲がって別れた。別れ際も快活な笑みを浮かべていて、少し安心した。
彼がいなくなると途端に静かになる。
ぽつ、ぽつ、と断続的に声が鼓膜を揺らした。あまりにも下手な会話のキャッチボールである。
八度目の沈黙。こちらに合わせてくれる歩調。時折入る、彼の腕を組む動作。
「ごめんね」
なんの前触れなく私の口が衝く。右隣りを歩く彼は、間を置いてから聞き返した。私は迷って答える。
「貴方ばかりに責任を負わせている気がしたから」
次いで尋ねる。今まで、どれほど
「相手にしたのは今回が初めてだ。それ以外は遠目に見たくらい」
組んだ腕をほどいて、両手をポケットに突っ込む。声音は暗い。
「ハルデに食わせたことは間違ってねーし後悔もしてねぇ、あれは当然の判断だった。けど」
ふと彼が足を止める。
二歩、先に出てしまった私も立ち止まって振り返った。
魔女は項垂れて言葉の続きを口にする。
「正しいことでも、なかったと思う」
その声は微かに、それでいて確かに震えていた。
・
・
・
日のまだ登らない、早朝の上空が脳内に広げられる。
薄暗い景色と悪魔の笑い声が、鮮烈に思い起こされる。
シンの部屋の外。懲りずにまたやって来たのかと重い腰を上げたら、悪魔に身体のほとんどを侵食された彼がいた。空中に浮かんだそれは最早、同じ生き物とも見なしたくないほどに汚らしく、欲に塗れていた。
これを
始めは先生と悪魔を引き剥がそうと手を尽くした。が、どう頑張っても手遅れだった。
「モう、殺しテ。死にタい。
僅かに残った自我が言う。掠れていて聞き取りにくかったが、並べた言葉は総じて「殺してほしい」というものだった
悲痛な願いに息が詰まる。
あの人に会いたい。何度も聞いた、否、何度も
呑まれてしまいかけるほどの負の感情だった。何とか踏み留まって、使い魔に
食事の許可が下りた猫は嬉々として眼前の人外に飛びつく。相手もそれなりに抵抗したが、残っていた人間の強い意志によって大人しく食われていった。悪魔に取り込まれても痛みは感じるのだろう、阿鼻叫喚をあげて彼は絶命した。
俺は、彼の最期の願いを叶えてやることしかできなかった。
あの状態では救えない。為す術などない。だから楽にしてやった。正解のない選択肢を選ぶしかなかった。
なのに、ずっと胸が苦しい。
彼の言っていたミユという人物について調べたところ、七か月前に病死した、先生の恋人だと分かった。
恐らく彼が、大切な人を失ったことによって精神的に弱っているところを、狩人に付け入られてしまったのだろう。病気にかかったのは魔女の仕業だと吹き込まれ、逆恨みを抱かせ、人間離れした行いをさせた。
今朝の出来事を、一度に泉に話した。彼女は無表情のまま黙っている。
当たり前だ。こんな話、誰だって聞かされたら何も言えなくなってしまうだろう。しかし静寂を、彼女自ら断ち切った。
「正しくなくても本人が望んだことなら、先生にとって正しかったんじゃないかな」
冷えた風が横切る。彼女の柔らかな髪がさらわれた。
「恋人に会いたがっていたんでしょう。なら千田くんはその人に会わせてあげたんじゃないの」
死による救い。彼女の口に似合わない単語で胸がざらつく。
泉は真っ直ぐこちらを見て、諭すように話してくれた。だがそれらは、俺の決断を全て肯定するものではなかった。
自分たちの行動で彼を追い詰めてしまったこと、彼の苦しみにいち早く気付かなかったこと、分かっていたのに助けなかったこと。
先生が魂を売る前に、何か手は打てた筈なのではないかと彼女は続ける。
「もしかしたら、今も同じ境遇に置かれるようになってしまった人が生まれているかもしれない。後悔も大事だけど私たちがすべきことは、その先の『佐山先生みたいな人を助けること』なんじゃないのかな」
彼女は苦し紛れに、しかして濁らせることなく言った。
「私は貴方と繋がっている。だから独りで背負い込まないで」
呪いの刻印を通して伝わる、彼女の手の温度。震えていた。
何故だろう。涙が止めどなく頬を伝う。
俺も、死にたいと思ったことがある。目の前で父親が殺されて、狂った母親が行方をくらませて、姉ばかりに酷い苦労を掛けさせて。
命を絶って、向こうにいるお父さんに会いたい。
穏やかで心優しいお母さんに会いたい。
家族で笑い合えた、あの頃に帰りたい。
だがそれはできない。俺はまだやらなくてはいけないことがある。
泉との呪いを解き、魔女も狩人も滅ぼし、大切な人たちが危険に晒されることのない世界をつくる。
この身が散り散りなったとしても成し遂げなくてはならない。
お父さん、お母さん、ごめん。まだ貴方たちには会いにいけない。
ふっと視界が暗くなる。同時に頭上に重みを感じた。
視線を上げると、泉がすぐそこまで来ていて、俺の頭に手を乗せていた。つまり頭を撫でられている状況。
「……何してんだよ」
「泣いてるから慰めてるだけ」
抑揚のない声音と、感情を知らない顔。彼女は目を細めて言う。
「大丈夫、私がいるよ」
一瞬だけ、心にある野望が揺らいだ気がした。
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