第16話 悪魔の悪戯

 四校時目、数学A。

 私の視界の中で浮遊する人影が一つ。


「ここ次のテストに出すぞ。寝てる奴らいいかー」


 只でさえ無機質な教師の声が、教室内を行ったり来たりする人影の所為で更に遠ざかっていく。自由気儘に飛び回るを、私は目線だけで追っていた。

 人影の頭上では二つの三角耳が揺れている。ゆるりと尻尾がうねり、背にある小さな翼が上下した。


 チャイムが鳴る。集中できないまま授業が終わってしまった。


「授業中に悪戯いたずらしちゃダメって言ったでしょう、ハルデ」


 浮遊していた人影を捕まえ、教室の隅に連れてくるとそう叱った。猫耳を反らし、私の注意に彼――ハルデは頬を膨らませる。


「えーやだよ。さっきも言ったじゃん、悪魔の仕事は人の欲で遊ぶことだって」

「ダメなものはダメだよ。ここには皆、勉強をしに来ているんだから」


 納得がいかなさそうに眉根を寄せると、彼はぷいっとそっぽを向いてしまった。猫耳が思い切り後方へ反らされている。

 私は小さく肩を竦めると、黒板の上に掛けられた時計に視線を遣った。胸には黒い綿飴のような不安が立ち込めている。


 今日は一日、千田くんが傍にいない。


 彼がいない事に対しての不安ではない。彼自身が心配なのだ。

 今日は魔法使い・隼人はやとさんとの約束を果たしに遠出している。詳しくは話してくれなかったが、魔女狩りの人質にされているという隼人さんの家族を助けに行ったのだ。

 そこから考えると彼は、狩人の本拠地に足を踏み入れるのだろう。

 本人曰く大した事でないようだが、私は曇った顔を隠すことができなかった。仲間意識の強い彼のことだから仕方ないのかもしれないけれど。


 千田くんがいない代わりに私の護衛をする事になったのが、彼の使い魔であるハルデだ。

 いつもの子猫の姿では学校に長居できないため、普通の人には見えない本来の姿でいることになっている。

 が、それを良い事に彼は悪魔の仕事(どう見ても悪戯)をしていた。先程の授業で居眠りをしていたクラスメイトが多かったのは、大体この悪魔の所為だ。


 そんな調子で、午前の授業は睡魔が宙を泳いでいた。教師も欠伸を噛み殺していたし、みんな可哀想だ。


「ていうか、ときのちゃん。ぼくの姿って君にしか見えていないんでしょ。ぼくと話してて大丈夫なの?」


 そっぽを向いた状態で視線だけをこちらに遣り、ハルデは問うた。私は瞬きを繰り返したのち答える。


「いや、全然大丈夫じゃないけど」

「なら声かけなくていいじゃんか……」


 彼は心底呆れた表情をすると、私の手を掴んで教室を飛び出した。驚き過ぎて声も出ず、私はされるがままに彼の連れて行く先へ足を走らせる。

 辿り着いた場所は、屋上に繋がる立入禁止の階段だった。薄暗く人通りもない。


「ここなら大丈夫! はい、これお弁当」


 ハルデは中性的な愛らしい声で言い、何も持っていなかった筈の右手から私の弁当袋を出現させた。お手本のような力の無駄遣いだ。

 でも今日は林田くんも部活の大会でいないから、結局独りで昼食をとらなくてはいけない。たまには良いかと私はその場に腰を下ろした。


「ハルデはお昼ご飯、無いの?」

「無いよ。悪魔は基本お腹が減らないからね」


 彼も私の左隣に座ると笑って返した。小豆色の猫毛がピコピコと跳ねる。


「久しぶりだよね、二人きりになるの」

「うん。あまり千田くんがいない時ってないし」

「ガキ魔女の奴、今頃がんばってるんだろなー。いつからあんな世話焼きになっちゃったんだか」

「昔からなんじゃないの?」


 苦笑するハルデに問うと、彼は困ったような顔になって答えた。


「んーそうだった気もする。でも昔は見捨てる事の方が多かったんだよ」


 あまり見せないその表情に私は暫く視線を持っていかれた。ふとハルデが満面の笑みを浮かべた時、やっと私は我に帰る。

 彼は小悪魔という表現が似合う笑い方で言った。


「君はガキ魔女のことが好きかい?」


 突拍子もないことを尋ねられ思わず目を見開く。彼は意地悪そうにこちらの顔を伺っていた。


「……好き、だと思う」

「それって恋愛的な意味で?」


 悪魔は問いを畳み掛ける。彼の食い気味な訊き方に私は狼狽した。


「それは、たぶん違う」

「なんで?」


 しぼんだ声は少しの音も立てずに床に落ちる。箸を握る手が震えた。


 そうだとは認めたくないから。


 答えると、胸の内側が誰かに掴まれているように痛んだ。それで良いのだと言い聞かせている自分がいた。

 俯く私にハルデは子供じみた笑顔で謝罪したが、すぐにふっと笑顔の火を消す。


「でも恋じゃなくて安心したよ」


 普段あまり聞くことのない彼の低い声に面を上げる。何より言葉の意味が理解できなかった。ハルデは神妙な顔をして呟く。


「魔女に好意を抱いてはいけない」


 どういうことだと尋ね返すと、悪魔は頭上の三角耳を真っすぐに立て答えた。


 魔女と関わる人間はろくな死に方をしない。そもそも関わること自体、自分の命を危険に晒しているのだと彼は言う。

 本来、魔女は人を不幸に陥れるために生まれた存在。事実だけを見れば魔女は悪役であり、ただの人にとって正義の味方であるのは魔女狩りなのだ。

 だから魔女に近寄る人間などいなかった。死ににいくようなものだから当たり前だろう。

 そのような事もあって、昔から魔女は身内で婚姻関係を結ぶことが多かった。普通の人間と結ばれる、ましてや恋をすることなど滅多になかったらしい。

 あったとしても、それはどれも悲惨な末路を辿ったという。


「主が君のことをどう思っているのかは知らないけど、を知っていて彼は君に近づこうとしている」


 薄く張った氷のような冷たい床に、鳴り渡ることのない悪魔の声が響く。


「ぼくの言いたいことは分かるよね」


 ふわりと浮かべた力のない微笑み。私は目を伏せた。


 やはり彼に近づいてはいけなかったのだろうか。

 たとえ千田くんが心優しい人でも、彼の相手をする敵が容赦をしてくれる筈がない。ただの人間である私を魔女の仲間であると認識されるのは至極当然のことなんだ。


「でも」


 この場の空気にそぐわない否定の言葉が口を衝く。

 ハルデはじっとこちらを見ているだけで、何も言おうとはしなかった。

 私は今までの想いを全て声にする。自分でも分からなかったことが、今なら分かる気がした。


「自分の意志なら良いでしょう」


 殺されるかもしれないから。

 彼の命が奪われるかもしれないから。

 怖いから。

 死にたくないから。


 それだけではない。そんな理由だけではない。

 私は、魔女の血を継いだ彼の凄惨たる過去を知った時に決めたのだ。


 彼の意志とは関係なく、私は隣に居なくてはいけないと。


 父親を殺され、母親を忌むべき相手に奪われ、裏切り者の家系を背負った彼は、孤独に生きる道を選んでいた。贖罪の為に大罪を犯すことに決めたのも、その過去が背を押したのだろう。踏み誤るその前に、私があの人を引き止めなくてはいけない。

 椿妃さんが託して下さった役目だからという理由もある。でもそれ以上に、私は。


「過去に縛られる彼を解放してあげたいと思えるようになったから」


 私が千田くんを救わなくてはいけない。

 どんなに彼が私の伸ばした手を拒んでも、私は必ずあの手を掴んでみせる。今はまだ触れることさえもできないけれど、いつか起こってしまう罪の償いを止めるために伸ばし続ける。


 たとえ彼の手が、誰かの血に濡れていたとしても。これから先、誰かの血で濡れるとしても。


 頭が空になるまで全て言葉にすると胸がすっとして見晴らしが良くなった。珍しくたくさん話したからか、喉が渇いている。一息吐くと水筒に口を付けた。


 悪魔は暫く黙っている。表情のない顔でゆっくりと瞬きをしていた。


 まるで作業のように弁当を胃袋に押し込めると丁度、予鈴が廊下に響き渡る。もうそんな時間かと腰を上げると、ぐいっと左手首を掴まれた。

 あまりにも強い力だったから咄嗟に彼の方を振り返る。掴んでいるのは勿論、ハルデだった。

 彼は真剣な眼差しから一転、とても愛らしい笑顔で言う。


「ぼく、ときのちゃんのこと好きになっちゃった」


 悪魔の笑みではない。真っ直ぐに飛んでくる矢のような、子供らしい邪気のないものだ。


 その表情と言葉に、私は口を半開きにしてしまった。


「え? それって」

「もちろん、恋愛的な意味でね」


 何処か嬉しそうなハルデは、怪しげに尻尾を揺らして見せた。


 ・

 ・

 ・


「ありがとう千田。お陰で早く助けられたよ」


 優し気に青年はそう言いながら、頬にへばり付いた赫を拭った。腕にも同じような赫が飛散している。

 彼の後ろには心底、安堵した様子で抱き合う女性たちと子供がいた。


「こっちこそ拷問手伝ってもらったんだ、お互い様だ」


 返事をし、自分も服に付着した血に魔法をかける。赫は布地から離れると崩れるように姿を消した。


 俺はたった今、仕事を終わらせたところである。先日出会った魔法使いの青年、隼人の家族を魔女狩りから救出したのだ。

 泉から人を殺しては駄目だと言われたため、命までは取らないではおいた。まぁ狩人たちの動きを知るのに、手荒なことはしたが。


「おにーさん! 助けにきてくれてありがと!」


 まだ年端のいかない少年と少女が足元に駆けてくる。少し反応に困ったため膝を折り、目線を合わせてやると二人は更に笑った。


「本当にありがとうございます、もう駄目かと思っていたんです」


 二人の背後から母親と祖母らしき人物が寄ってきた。ボロボロにほつれた袖で涙を拭いている。


「……どういたしまして」


 ぎこちなく返す。彼等は次に隼人の方へと視線を向けた。


「ハヤトにーちゃんもありがとねっ」

「おう。でも守れなくてごめんな」

「良いのよ、こうやって生きているのだし」


 やっと再会を果たした家族は、幸せという単語が酷く似合う雰囲気で笑い合っていた。

 その一方、俺は目を逸らす。純粋な目で彼等を見ることができない。心中にある大きな傷に、塩を塗り込まれている気分だった。


「そろそろ帰る。おりを使い魔に頼んでるからな」


 視線を向けられないまま立ち上がる。箒を呼び出すと間もなく空中へと浮かんだ。

 隼人たちの何度目ともなる感謝の言葉が背を掠めていく。聞こえなくなると、どっと頭が重く感じた。


 あれが家族か。


 それは無意識に声になって風に飛ばされていく。

 自分で言った癖に、その言葉に対して苛立ちを覚えた。羨ましがっている自分に腹が立ったのだ。同時に、まだそんなものに憧れを抱いていたのかと失望する。

 を握る手に自然と力が籠もった。


 秋の終わりを告げる風が横切る。



 学校付近に着くと既に、生徒がわらわらと校舎から出ていっていた。

 もう放課になってしまったのかと思いつつ校門の時計に目を遣る。するとその近くに見覚えのある姿が歩いていた。

 彼女は相変わらず無表情だ。俺が居ても居なくても微動だにしない端正な顔は、冷たい風に晒されて少々赤くなっている。


「泉」


 名を呼ぶとすぐ、彼女はこちらを向いてくれた。


「千田くん」


 抑揚のない平坦な声が返ってくる。何も変わりなさそうで良かった。

 彼女は俺の傍に寄るとすぐ尋ねてきた。


「大丈夫だった? 怪我、してない?」


 声音に心配の二文字が滲んでいるが表情は全く変化なし。迷いのない一直線の視線が絡まってくる。


「大丈夫。相手以外誰も怪我しなかったし、情報も手に入った。つーかハルデはどこ行った?」

「あぁ、ここだよ」


 彼女はどうしてかスクールバッグの中を見せてきた。覗き込むとそこには、パステルカラーの緑のタオルに包まった子猫が眠っている。こいつ、あるじが人助けしてる間に何寝てんだ……それもお前が寝たら誰が泉を守るんだよ。


 薄情な悪魔に対する怒りは絶えず湧くが、彼女は子猫の寝顔を見て静かに微笑んでいた。


「今日はハルデに色んなことを教えてもらったの」


 彼女はそっとチャックを閉めると言った。

 何をと訊くと彼女は一言「内緒」と返す。なんだよ、どいつもこいつも。


 俺が不満そうにしているのを見兼ねたのか、泉は考えるような素振りをして一歩近づいてきた。


「千田くんは私の事、どう思ってる?」

「は?」


 唐突な内容の問いかけに、俺は反射的に訊き返してしまう。しかし彼女はもう一度同じ言葉を口にするだけだ。

 じわじわと羞恥心が這って来るのを感じる。速まった心臓が煩いのに、脳内には静寂が広がっていた。


「……大切な保護対象」


 動いた口は思いの外冷静だった。予想通り、泉は質素な返事を口にする。しかし何故だか彼女の顔色が落胆に近く見えた。


「ごめんね、変な質問しちゃった」


 無感情の声色が乾いた風に攫われる。喪失感に似た胸の寂しさがざわついた。


「ハルデに何か悪いことでも吹き込まれた訳じゃねぇよな」

「悪い事ではないと思うけど」


 表情の変わらない女子高生と目付きの悪い男子高生が並んで歩き出す。

 端から見る者の目には、楽しそうでないように映るだろう。しかし俺にとって、この人の隣に立つことは嫌いじゃない。むしろ居心地が良い。変な気を遣っても遣わなくても、同じ反応しか示さない彼女だからだ。


 先程の泉の問いへの答えは、間違いではない。だが以上に思っているものがある。いつか目を見て言えるだろうか。


「どうかした?」


 上目遣いで泉が訊く。見覚えのある、その濁りのない瞳に俺は首を振った。

 同時に募る想いにそっと蓋をする。言い出しそうになった本当の答えは、彼女に伝えるべきではないと密かに息を吐いた。


 お前が好きだ。


 言ったとしても、きっと彼女は首を傾げるだけなんだろうな。

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