番外編 姉の思う事

 毎朝五時に起床し、仕事の準備を済ませたら朝食づくりに取り掛かる。そして間もなく弟が起きてきた。


「おはよ咲薇さくら、パン焼いたら先に食べてて」


 寝起きの彼はいつも通りの仏頂面だ。寝ぐせなのか、元からの癖っ毛なのか分からない髪を揺らしながらトースターの前に行く。

 無言を貫く様子の彼は子供の頃から変わらない。今もまだ子供だけど。

 朝食づくりの傍ら、彼の昼食を弁当に詰めていく。私のものより一回り大きい弟の弁当箱を手にすると、なんだか嬉しくなって表情を綻ばせた。


「いただきます……」


 彼は生気のない声で言うと、黙々と食事を口に運んだ。少し焦げた匂いと共に軽い咀嚼音が響く。昨日と変わらない、いつもの朝。


 両親が私たち姉弟を置いて去ってから六年経つ。


 当時、高校二年生だった私は狂人となった母親に為す術なく咲薇を庇っていた。弟はまだ小学五年生だった。

 目の前で父を殺され、母から惨い言葉を投げつけられ、私は泣きながら部屋の隅で蹲る。その一方、咲薇は泣くを通り越して唖然としていた。目を見開き体をガタガタと震わせ、過呼吸の一歩手前で母を凝視している。


 魔女の末裔であることは幼い頃に教えられていた。大昔の裏切りのことも、薄情な悪魔のことも、魔女狩りが今も続いていることも。

 いつか自分も魔女になるのだと思っていた。いつでも命を落とす覚悟はしているつもりだった。でも、それは温厚な父がいて、強い魔女の母がいるから思えたことだった。まさか母に死の鎌を振り翳されるなんて。


 無力な私たちを窮地から掬い上げてくれたのは、その「薄情な悪魔」だった。


 生まれて初めて見た悪魔は、言われよりも遥かに人に近い姿をしていた。頭上の猫耳(正確にはつのらしい)を反らし、心底悲しそうな顔をして母の名を呼ぶ。彼女はそれに応えなかった。


「姉ちゃん、そろそろ行く」


 はっとして顔を上げる。いつの間にか下を向いてしまっていたらしい、咲薇がすっかり準備を終えて立っていた。


「あ、あぁ行ってらっしゃい」

「そうだ、今夜さかきさんとデートだろ。遅刻しそうになっても送らねぇからな」

「わ、分かってますぅ~。ほら、あんたも聡乃ときのちゃんを待たせちゃダメだぞっ」

「分かってるっての」


 彼は大きく溜息を吐きつつ、心なしか明るい表情になって家を出た。やっぱり聡乃ちゃんパワーは絶大のようね。


 あの少女との出会いで弟は変わった。


 中学生の頃の咲薇は、私の目の届かないところで勝手に他の魔女の助太刀に行くなど、命の危険を省みない行動ばかり取っていた(あとは吸血鬼から求愛されているらしい)。思春期に突入していたこともあり、彼は唯一の家族である私とも接することを拒んだ。


 私は内心、彼が魔女になりたくなかったのではないかと思っている。

 本来、私が魔女の家系を継いでいく筈だった。しかし生まれ持った魔力は弱く、魔法など使えたものではなかった。


 本当に申し訳ない。こんな弱い姉で。


 だから、できる事はなんでもやった。

 苦手な勉強を頑張って、憧れていた夢も諦めて、安定した収入を得られる公務員になった。

 料理も何度も練習した。彼の怪我を治そうと応急処置の腕を身に着けた。それくらいしかできる事はなかったのだ。


 私の代わりに誰か、あの子の隣に居てくれる人はいないのか。


 彼は目付きも口も悪い。加えてあの性格だ、かなりの物好きでないと近寄る人などいない。

 唯一の友人であるしんくんは、繋ぎ留めるまでに至る力は残念ながら持ち合わせていなかった。それでも彼の存在は少なからず咲薇に余裕を与えてくれていたと思う。


 そしてやっと現れた。弟の傍に居るのが相応しい人が。


 泉 聡乃ちゃん。

 咲薇と運命を共にすることになってしまった普通の女の子。いつも無表情で何を考えているのか分からないけれど、あの真っ直ぐな瞳が全てを物語ってくれる。

 おまけにすごく美人。可愛い。弟の話によると頭も良いらしい。なんだこのハイスペックJK。


 彼女と繋の呪いにかかった事で、咲薇は肩の力が抜けたように感じる。

 今まで彼は不特定多数の魔女や人を守ろうとしていたから気が張っていた。しかし聡乃ちゃんと出会って本気で守りたいと思える人ができた。それはきっと彼にとって大きな意味を持っているのだろう。


 聡乃ちゃんからしたら、とんでもない迷惑だろうけれど彼女は不平不満を言わなかった。むしろ力になりたいとも思ってくれている。なんて良い子なのかしら……本当に咲薇のお嫁さんになってほしいくらいだわ。


 命の危険に晒されても尚、弟の傍に居てくれている。私の代わりに咲薇を繋ぎ留められる。

 あの子しか出来ないことね。

 過去、彼に関わった子との交流は何度かしてきたけれど、聡乃ちゃんほど寛容で慈悲に満ちた子はいなかった。


 それとあの子、どことなく伝説の白魔女――シーシャに似ているのよね。


 資料でしか見たことがないけれど、とても美しかったのを覚えている。白銀の長髪、それに劣らぬほど白い肌、青く澄んだ真っ直ぐな瞳。天使だと言われても遜色ないほどだ。とはいえ資料に載っていた肖像画、実際はどうだか分からない。


 でも……無関係とは思えないわね。

 もし聡乃ちゃんとシーシャに何か関係するとしたら、弟はきっと驚くでしょうね。あの子は小さい頃から伝説の白魔女に憧れていたから。


 これは完全に私の憶測だけど、近い将来、咲薇は白魔女になるのかもしれないと思っている。

 私たちの家系――千田家の元であるシュレイア家の罪を償い、全てを赦す時が来そうなのよね。それに、あれだけ魔力が強かったら簡単になれると思うのだけど、これは流石に言い過ぎかな。


 ともかく今は狩人の魔の手から逃れて生き延びるしかない。彼には、ちゃんと大人になってほしいもの。聡乃ちゃんとの恋の行く先も気になるのよね。今度、問い詰めてみようかしら。


 不意に足元で愛らしい声が鳴いた。視線を下に向けると黒い子猫が、怪しげに尾を揺らしている。


「あらハルデくん、おはよう」

『おはよーつばきちゃん。今日はお仕事お休みなのかい』


 頭に直接響く声。私は軽く首を左右に振った。


「ううん、今日は午後から出勤。夜は出かけるから、夕食は咲薇と食べてね」


 子猫は返事をするようにまた一つ鳴いてみせた。私は小さく微笑むと、洗濯物を干すのに一度伸びをする。


 今日もあの子たちが健やかでありますように。


 魔女になれなかった私は、昨日と同じ願いを呟いた。

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