第5話 魔女代理

 連休二日目。天気は快晴。

 窓から差し込む日の光に目を眩ませつつ、ベッドから這い出た。


 昨日の一件で、私は本当に命を狙われているのだと実感した。喉を刺される痛みはぼんやりとした記憶になってしまったが、あの漠然とした恐怖心と戦闘中の彼の歪んだ表情は脳にこびりついている。


 強いと言われている人の心が、必ずしも強いとは言えない。彼だって、多少なりと「死」への恐れはあるはずだ。


 階下から母さんの呼ぶ声が聞こえる。私は下に向かって返事した。


 あれから千田くんは、私のことを「泉」と苗字で呼ぶようになった。あの時の発言――「わざと、だよね。私のこと、ちゃんと呼ばないの」――嫌味に聞こえてしまったのだろうか。

 もちろん嫌味で言った訳ではない。ただ確認したくて問うただけだ。それ、だけなのに。


 もやもやしたまま着替えを済ませて階下に下り、顔を洗う。目がしっかり冴えても心の雲は晴れない。


「いつまで寝てるつもりだったの? もう、ご飯が冷めちゃうでしょう」


 母さんの言葉に私は苦笑して逃れる。


 食欲の欠片も無かったが、なんとか朝食のトーストを胃に押し込んだ。コップ一杯分の牛乳を一気に飲み干して一息吐く。


 春が過ぎて、夏の匂いがし始めていた。今日は一段と暖かく、辺りから幼い子供のはしゃぐ声がこだましている。


 ふと居間にピンポーンと電子音が響いた。


 はーい、と母さんが洗濯物を物干し竿に掛けながら電子音に応答し、足早に玄関へと向かう。

 少しして高くなった母さんの声が、途切れ途切れ聞こえ始めた。


「聡乃ー? お友達よー」


 急に自分の名前が聞こえ、反射的に振り返る。お友達? 誰だ? 私には友人なんていないのに。


 怪訝に思いつつ駆け足で玄関に行くと、そこにとても見覚えのある少年が立っていた。


「千田くん? どうし……」


「ときのちゃん、準備できた? 早く行こ」

 

 あ。


 ぐいっと左手首を掴まれ、外に連れ出される。私は慌てて靴を履き、彼の歩くスピードになんとかついて行った。どういう状況なのかまったく分からん。


 家から近い小さな公園に着くと、彼は私の手首を離す。すると彼の姿が変化し始めた。

 癖っ毛の短髪が少し伸び、頭の高い位置から三角形の突起がぴょんっと現れる。服装も光沢のある、襟の高い制服のような黒い服に変わった。腰の辺りからは、スルリと猫のような尾が出てくる。

 誰なのかが既に分かっている私は、悪魔の彼の名を口にした。


「ハルデ。どうかしたの?」


 私の言葉が癪に障ったのか、ハルデは振り返るなりこちらに怒鳴ってくる。


「どうしたも何も! ガキ魔女の代わりに来てやってるだけだ!」


 原色に近い赤い瞳が綺麗だ。まだ幼さの残る顔も愛らしい。


 それからハルデは、私の元に来た理由を話してくれた。どうやら今日は千田くんが不在だそうだ。


「魔女の会合で魔法界に出張中っ。その間お前に何かあると困るからぼくが任されたんだっ」


 不機嫌そうに頭上の猫耳を反らす。腕を組み、尻尾を鞭のように動かした。


「そうなんだ……今は子猫の姿じゃないんだね」

「子猫の姿で守れる訳ないだろッ!」


 今日はずっとこの調子なのか……疲れそうだな、私が。


 日の照る公園は子ども達が占領するので、私達は場所を変えることした。せっかくなんだから、この機会に彼のことを知るのも良いのかもしれない。


「ハルデは人間に興味はある?」

「人間に? ……あいつらはただの契約する相手なだけであって特にはない。あ、でも人間の作る食べ物には興味があるぞ」


 耳は反らしたままだが、ちゃんと答えてくれた。なんだ、少しは興味あるじゃない。


 悪魔の好物は『人間の生きた魂』。それを手に入れる以外の理由で人間に近づく奴は滅多にいないらしい。

 そもそも悪魔は人間の欲で遊ぶのが仕事だそうだ。ハルデのように人間と契約を結ぶのは下級悪魔ぐらいで、人の欲で遊ぶという仕事は出来ない。


「ここの世界のは、人間の魂の味に似てるらしいんだ。ぼくは食べたことがないから分からないけど」


 と言っても甘いものもあまり食べたことがない、と不満そうに呟く。それを聞いて私はある提案をした。


「なら食べに行く? スイーツとか」


 このとき、私は初めて彼のキラキラとさせた瞳を見たのだった。


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 静かな真っ白い空間。その中央に黒い円卓が置かれている。囲うように座る、計二十四名の魔女と魔法使いはそれぞれ神妙そうな表情をしていた。


「……北国の魔女レイラーン氏が狩られた。これで残る魔女は十名だ」


「今年に入って既に三人の魔女が狩られている。これは異常な速さだな」


「魔女狩りの特定は?」


「されているが巧いこと逃げられている。そろそろ魔女たちも限界か」


 魔法使いが中心となって会議は進められている。俺は手元の資料を一瞥した。


魔法省上の方々は何と?」


「捜査には協力するが最後までは手を出さない、とのことよ」


魔女わたしたちは滅べとでも言うのッ!?」


 一人の年老いた魔女が声を荒らげる。両隣の席に座る他の魔女たちが彼女を落ち着かせた。


 言語は違うが、魔法の力で俺には統一された言葉――日本語に聞こえる。だから差し支えなく会議は進み、暴言も冷静さを欠くような発言も聞こえてくるのだ。


 仕方ない。今は本当に魔女にとって危ない時期なのだから。


 資料によるとここ数年、魔女狩りたちは急激に数を増やしているそうだ。主な方法としては宗教の力を借りたり、個別で勧誘したり等々。


 厄介なのは魔女に恨みを持たせる、という方法だ。


 例えば身近な人に不幸なことが起きたとし、それの原因が魔女にあると吹き込む。それによって魔女への憎悪を持たせ、魔女狩りになると自身の口で言わせるのだ。


 なんて卑劣な手段なんだろう。


 自身の口で言わせることで、吹き込んだ奴は責任から逃れられる。魔法省から問い質されても『本人がそう望んだ』と答えればいいのだ。


「まぁ落ち着きなさい。私たち魔法使いも最善を尽くそう」


「嘘を吐くのも甚だしい、今まで何度同じことをこの場で言いましたか? 実際に駆けつけてくれた者は片手で数える程しかいませんでしたよ」


 若い女性が、初老の男性魔法使いに口答えする。彼は片眉をぴくりと反応させて彼女を睨めつけた。


「こちらにもこちらの事情がある。そういつでも助けられるほど暇では無いのだよ」


「そもそも魔女が弱いんじゃないの?」


「なんだって!? 馬鹿にするのも大概にしろッ!!」


 会議というか喧嘩になってしまっている。まぁ、同胞としても先程の言葉は頂けないな。

 俺たちは弱いのではなく、相手が多すぎるのだ。フェアプレーだったとしたら、きっと俺たち魔女が勝つに決まっている。


 ……そんなことを思っても、苦境に立たされていることには変わりないがな。


 ・

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「こっ、これが噂の『くれーぷ』というやつか!」


 人の多い駅前。雑踏の中で、幼い子のようにはしゃぐ声が響いた。


 ベンチに座って待ってもらっていたハルデは、私が右手に持っていたクレープを見るなり瞳をキラキラさせた。

 興奮したからなのか、髪の中に隠していた猫耳がビーンッと起き上がる。


「ハルデ耳を隠して。じゃないと渡さないよ」


 そう言われると、彼はシュバッと猫耳を隠す。思っていたより単純なんだね……。


 初め彼をハルデと人前で呼ぶのは憚られたが、彼自身が外国人のような容姿をしているのでなんとかなった。よく見なくても鼻の位置が高いことが分かるし、瞳の色も普通の日本人と違う。何より言葉のイントネーションが所々おかしかったりするのだ。


 彼は最初にクレープが気になったみたいだから、とりあえず買ってみたけれど……高いな、値段が。


 差し出すと、ハルデは両手で大事そうに受け取った。


「少しひんやりとするな、む? なんだこの赤い実は? この白いモクモクとしたものは?」


「赤いのは苺で白いのは生クリーム。どっちも甘くて美味しいよ」


 興奮状態のハルデは舐め回すようにクレープを観察し、聞きたいことを次々に飛ばしてくる。


 なんだか、弟を持った気分だな。


 彼が大きく口を開けて齧り付く。口の端からクリームが溢れ、頬を白く汚した。もぐもぐとゆっくり咀嚼して飲み込むと、左隣に座っていた私に向かってぱっと笑って言う。


「おいしいっ! 人間はこんな旨いものを毎日食べているのか!」

「クレープは毎日食べないと思うけどな」


 はしゃいで頬張るハルデを見ていて、少し良いことをしたと感じた。

 悪魔と言えど美味しいものを食べたら「美味しい」と感じるのだ。この姿だけを見ると本当に、そこらの子どもと何ら変わりない。


 あっという間にクレープを平らげ、彼は満足そうに笑った。口の周りにクリームを付けたままなのが、不本意にもとても愛らしく見える。頬張ることに夢中で全く気が付いていなかったようだ。

 その汚れをティッシュで拭き取らせると、彼は向こうの店を指さす。


「次はあの白いグルグル巻きが食べたいぞっ」


 ああ、ソフトクリーム……。今月の大赤字は回避不能みたいだ。



 駅前にあるほとんどのスイーツを制覇し、悪魔はこの上なく満足気だった。一方、私の財布は瀕死の状態に陥っている。こいつ……本当に悪魔なんだな……。

 彼の甘味への欲は只ならないものである、ということは身をもって理解した。


 日が傾き、周りのビルが朱色に染め上げられる。昼にも増して多くの人たちが賑わい始めた。


「そろそろガキ魔女も帰ってくるな。今日は世話になったね、ときのちゃん」


 目を細め小さく笑って見せる彼に、私は気付かれない程度に溜息を吐いて頷いた。

 もとはと言えば、ハルデは私の護衛で来たはず。なのに私が彼に振り回されてしまうという結果になっていた。


 でも、楽しかった……かな。


 ハルデが広間に立つ時計台を一瞥するとこう言った。


「遅い時間になってしまったから、家まで送――」


 言葉をおかしな所で切ったため違和感を感じ、必然的に彼へ目を向ける。その瞬間、ハルデが私の名を叫び押し倒した。


 彼が覆い被さる。咄嗟に声を掛けようとしたが、言葉が音になる寸前、私たちの周りに無数の黒い矢が降り注いできた。


 ――――狩人が来た、動かないで。


 直接、ハルデの声が脳に響く。久しぶりの感覚に一瞬だけ戸惑った。


 辺りを視線だけで確認する。私の視界には誰一人としてがいなかった。色褪せたような駅前の景色がそこにあり、私たちだけが元の世界と違う場所に隔離されたようだ。


「やあ、小悪魔くん。そこを退いてくれるかい」


 知らない、落ち着いた低い声。声の主はこの目で確認できていない。


 ハルデは振り返ると頭上の猫耳を思い切り反らし、威嚇するような表情になった。彼の尾も太くなり、毛が逆立っている。


「小悪魔? このぼくが? 馬鹿なことを言わないでほしい」


「下級悪魔なんぞ、みな小悪魔だろう? 魔女の手下になるなど、君は犬か猫か」


 どうやら挑発されているみたいだ。彼の顔は冷静を装っているように見えるが、その端々に苛立ちが感じられる。


「私はあまり我慢できないのでね、すぐ手を出してしまう。自分が傷つきたくないなら、その人間をこちらに渡しなさい」


 いかにも強者つわもののような口振りだ。……なんか少しムカつく。


 ハルデは上体を起こし、私を立たせた。彼の右手が私の左手をきつく握る。


 やっと相手の姿を確認できた。見た目は中肉中背、黒い髪、初夏だというのに灰色の分厚いコートを(しかもボタンも全て締めて)着ている。瞳は深い藍色で、見つめていたら吸い込まれそうだ。


 唐突に彼の握る力が、少しだけ強くなる。


 ――戦闘になる可能性が高い。お前、戦えるのか?


 脳内に響く彼の問いにかぶりを振った。戦える訳ないよ、ただの女子高生にんげんなんだし。

 その回答にハルデは小さく溜息を吐く。……いやなんで私が戦えると思ったんだ、勝手に呆れるなよ。


「……悪いけど、あんたにこの子を渡すつもりはないから。渡したら主に怒られるし」

「はっ、主か。もはや君は只の使い魔のようだな」


 言い終えるのと同時に相手が右手を突きだす。すると、彼を囲うように周りから墨のような雲がいくつか現れた。モクモクと渦巻き、徐々に電気を帯びていく。


「――サンダウピット、一斉射撃」


 パチンッと右手の指を鳴らす。半瞬後、雲から雷の矢がこちらに噛み付いてきた。

 ハルデは私を抱き寄せ、自身の右手で矢を振り払うように勢い良く振り出す。雷の矢は弾き返され、地面に打ちつけられた。すぐさま彼は私を抱えたまま後ろに後退する。

 それを追うことなく、相手は変わらず指を鳴らした。


 狙った方向に向けて指を鳴らすと、その狙った方向に矢が放たれるシステム……なのかな。つまり指パッチンは射撃の合図?


 ハルデは魔法を使わずに素手で矢をこなしている。


「いつまで魔法を使わないつもりだい? そんなことをしていて、その子を守りきれると?」


 挑発の言葉を矢と共に放つ。しかし悪魔は声を荒げるようなことはしなかった。


 でもどうして魔法を使わないんだろう。


 向こうの魔女狩りが手を抜いているから? それとも魔力の消費を抑えるため? 他に何か不都合があるのだろうか?


 魔女狩りは攻撃の手を休めず、じわじわと後退を続けさせる。やがて道の行き止まりに追い詰められた。

 これでは逃げ場がそらしかない。どうするつもりなの?


「罠かと思ったが……単純に怖気づいただけか、小悪魔くん」


 相手は一旦右手を降ろし腕を組む。終始この人は言動がムカつくな。


 ふと、ハルデが口を開いた。


「怖気づく? 君はさっきから何か勘違いしているみたいだね」


 同時に私の脳内に彼の声が響く。二重に聴こえる声を必死に聴き取った。


 ……え?

 思わず顔を上げる。


「君は魔女狩り。でもその魔力は誰から供給されているものなのか知ってる?」


 表情を変えることなく、淡々と言葉を紡ぐ。冷静そうにしているが、その奥では苛立ちの炎が揺らめいていた。


 問われた魔女狩りは馬鹿にするような口振りで答える。


「魔女と同じ、悪魔と契約して魔力の恩恵を受けている。それくらい分かっているさ」


「じゃあ、その魔力はぼくには効かないよ。だって同じ種族の力だもん」


 ハルデの応答が気に入らなかったのか、相手は一瞬表情を殺した。


「そんなことはないだろう。現に小悪魔くんの手は――」

「認めたくないの? 自分の攻撃がほんとは効いてなかったって」


 今度はこちらが挑発するような口調だ。少し小馬鹿にされたことに、魔女狩りは眉をぴくりと反応させた。


「やってみせてよ。ぼくたちを君の手で潰してみせて。できないの?」

「黙れ下級悪魔。お望み通り、その口ごと焼いてやるッ!」


 彼がばッと右手を突き出し、指を鳴らそうとした。

 そのとき。


「――レインティア」


 ぴちゃん。


 妙にはっきり聴こえた彼の唱える声と、水が一滴零れる音。

 魔女狩りの右手が濡れていた。


 その為か指は鳴らず不発。彼の周りの雲が溜めていた魔力は勢いを失い、やがて消える。


「なッ……!」

「あははッ♪ すっきりしないねぇ潰せないねぇ? はははッ!」


 唐突にハルデが高らかに笑い出した。

 それはまさに悪魔の笑顔。己の欲求が満たされたような表情だった。


「ぼく、たった一滴の雨を降らせただけだよ? どうしちゃったのかな?」


 この瞬間、私はやっと理解した。


 彼は悪魔で、どんな生き物よりも欲深いと。そして――――


 その欲求を満たすためには手段を選ばないと。

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