第4話 魔女と悪魔

「みぃつけたぁ♡」


 あの声が脳に直接響くのではなく、私の耳でちゃんと聴こえた。

 

 嘘だ、嘘だ嘘だ。こんな、あっさり殺られちゃうなんて。千田くんは? 何処にいるの? 助けて、痛いよ、息が吸えない、死んじゃう、たすけて。


「かはっ……ち、だく……っん……はぁあ」


「ガキ魔女なら今頃、君みたいに苦しんでいると思うよ♪ だって『繋の呪い』だからね♡」


 赤い影――細身の少年は、私の喉に刺した刃から手を離す。私の喉には刃が突き刺さったままだ。彼はニタニタと気味の悪い笑みを浮かべてこちらを覗き込む。


 赤黒い短髪、緋色の瞳、幼さの残る顔、光沢のある制服のような衣装、そして証である翼。


 彼は正真正銘、『悪魔』だった。


「ふふ♪ やっとガキ魔女から開放される♡ ぼくは自由だ♪」


 満面の笑みでそう言うと、自身の目前で苦しむ私を見て更に口角を吊り上げた。


「声を出そうとするともっと血が噴き出すよ♡ まぁぼくにとっては嬉しいことだけどね♪」


 既に悪魔の顔が見えない。視界すべてがぼやけて見え、意識も今にも飛んでしまう。出来ていない呼吸を無理に行い、ぜぇぜぇとつっかえた息を吐いている。

 そしてついに私は倒れ込んだ。マットに生暖かい血が広がっていく。


 朦朧とする意識の中で、私はひたすら彼の名を呼び続けた。同時にたくさん謝罪した。


 ごめん、ごめん千田くん。私がすぐに呼ばなかったから貴方まで……本当にごめんなさい、ごめんなさい……。


 瞼を閉じかけた瞬間、首が軽くなった。

 否、呼吸が出来るようになっている……?


「痛ってぇなぁハルデ。主の首を掻き切るなんぞ百年はえーわ」


 私が聴き求めていた声。


 ふっと焦点を合わせると、見覚えのある癖っ毛が視界に入ってきた。


「ち、だく……ゔ……ッ」

「まだ回復中だから喋んな」


 彼は、倒れている私の喉元に左手を当てて、目前の悪魔を睨めつけている。


 左手から優しい緑色の光が溢れていて、それがとても暖かかった。これがきっと回復の魔法なのだろう。


「むっガキ魔女! 誰が主だ、ぼくは独りで生きる!」

「悪魔が現実世界で、それも主無しで生きていけるとでも?」


 悪魔が両腕を思い切り広げる。するとそこから、私の喉に刺さっていたような刃を六本も生み出した。それとほぼ同時に千田くんが私を抱え込む。


 ……抱え込む、だと?


「え、ちょっ……」

「我慢して、今のハルデあいつは本気で殺しに掛かってるから」


 彼は左手の光を弱めることなく回復させつづけたまま冷静にそう言う。


 千田くんの首には傷つけられたような跡はなく、薄く血が滲んでいるだけだった。恐らくすでに自分の怪我は治療し終わっているのだろう。


 私が安心していると悪魔が翼を広げ、宙に浮いた。


「もういい、仲良くくたばれッ!」


 刃が放たれる。その半瞬後、千田くんが吐息のような声で呟いた。


「――チェンジュ」


 ぱっと体が浮いたような感覚になる。例えるなら水中に放り込まれたような……。

 しかしすぐに重力を感じ、どんっと地面に落ちる。彼が覆い被さるようになりつつ、こちらに安否を尋ねてきた。ほぼ反射的に首肯する。


 落ちたところは彼の庭だった。

 相変わらず美しい桜の花が咲いている。


「ハルデを躾けてくる。絶対に動くなよ」


 私の傷つけられた首は既に完治していた。痛みはなく、瘡蓋かさぶたらしきものもないようだ。改めて魔法ってすごいと思う。


 千田くんが私から離れようとしたとき、数メートル先でどんッと何が落ちる。砂埃を立てて現れたのは、やはり赤い影――ハルデと呼ばれた悪魔だ。

 彼は獲物を狙う獣の如く眼光を鋭くし、八重歯をちらりと覗かせる。


「姑息な手だな、こんなもの」


 悪魔の手には、桜の花が付いた木の枝が。……何故彼が持っているんだ?

 疑問に思っていると、慣れたように彼が説明してくれた。


「チェンジュの効果だ。移動したいところにあるものと、自分の体の位置を交換する」


 つまりこの場合、千田くんはこの庭に移動したかったから、この庭にある桜が付いた木の枝と場所を交換……入れ替わった、ということだ。それによってあたかも瞬間移動したように感じたのだろう。


 それで悪魔の前に現れたのは木の枝だけ。


 彼は歪な形をした棒切れを地面に打ち付けると、あからさまに怒りを露わにした。


「いつまでぼくで遊ぶつもりなんだ? いい加減、落魄れた古臭い魔女は滅べ」


 素人でもわかる、悪魔の気配が変わった。目視でもその変わりようが認識できる。

 沈んだ彼の右の瞳が緋色から原色の赫に変色し、翼も大きく広げていた。


 辺りの空気の密度が一気に高まる。

 それによって空気が物理的に重くなる。

 重力が酷く強くなった。

 立つのもやっとな程なのに。

 左に立つ少年は凛と立っている。


「ここから離れた方がいい」


 千田くんが低く呟く。


「正直、本気を出したハルデには勝てたことがない。だからここから離れて」


 目線はこちらに向けず真っ直ぐ悪魔に向けられている。普段以上に表情を歪め、警戒しているように見えた。


 私は首が完治したことを確認した後、コクリと頷いて後退りする。離れると言っても何処まで離れれば良いのかわからないが。


 ハルデが右手で指を鳴らすと、瞬間、彼の周りに槍のような形状の棒が無数に現れた。そして苛立った声音でこう脅す。


「ぼくを本気にしたこと、後悔させてあげるよ」

「結構だ」


 間髪入れずに返答されると、悪魔は薄気味悪い笑顔を浮かべつつ怒鳴る。


「じゃあ、死んで分からせてやるッ!!」


 浮かんでいる槍の半分が千田くんに降り注ぐ。

 彼はコールと呟いて手元に箒を呼び出した。箒は千田くんの指示に従って真横に避ける。

 しかし、槍達は意思を持つ生き物のようにぐるりと向きを変えて、彼の跡を猛追した。

 後ろを一瞥しつつ、彼は次の魔法を唱える。


「――スモークシャット」


 すると箒の後方から灰色の濃い煙が噴き出した。それで辺りは煙だらけ。私の視界もほぼゼロだ。


 これでは自分も見えなくなるんじゃ……?


 不安に思っていると、後ろから肩を叩かれた。反射的に振り返るが視界には灰色ばかり。あまりの怖さに思わず刻印に触れた。


「掴まれ」


 声は聞き覚えのある、千田くんの声だった。目の前で手を差し出される。


 しかし何故か私は信じることが出来なかった。この手が、この声が、彼のものであることを。


 戸惑っていると、かなり近くで爆発のような音が聞こえた。半瞬後に強風が髪を揺さぶる。


「触るなッ!!」


 声が鼓膜を揺らしたのと同時に、目の前に差し出された手が灰色へと勢い良く消えた。

 そして思い切り抱きつかれたような感覚に襲われる。……いや、感覚ではない。実際に誰かが私に抱きついてきているのだ。

 私は頭を抱えられ、肩を強く抱かれている。


 誰? 千田くん? それとも悪魔ハルデ

 前者は良いが、後者は命を奪われる。今、首は無防備同然なのだ。


「大丈夫か聡乃っ?」


 これも聞き覚えのある声。

 あれ、これってもしかして――――


 今、千田くんが二人いる……?


 先程より立ち籠める煙が薄くなる。やっと辺りのことが視認できるようになった。

 そこで私の目に映ったのは……。


「うわぁ、やっぱり」


 私のことを守るようにぎゅっとしている千田くん。そして少し距離を置いて箒を持つ千田くん。計二人の千田咲薇が私の視界にいた。


「おい離れろハルデ!」

「俺はあんな悪魔じゃねーよ。それに、離れたらお前が襲うんだろハルデ」


 同じ声であちこち言われると何だか気持ちが悪いな……。

 言い争う二人を交互に見て比べてみるが、全くの同一人物だ。声は勿論、髪型、身長、服装、目つきまでも瓜二つ。


「黙れ偽物。聡乃を離せ!」

「は? お前が本当の千田咲薇なのか証明したら離してやるよ」

「まるで、いかにも自分が本物だっていう口振りだな。良いだろ、証明してやるよ」


 なんだかよく分からないが、どちらが本当の千田くんなのかを証明するバトルに移行している。先程のハルデの怒りはいずこへ……?


判定ジャッジは聡乃がやってくれ」

「えぇ……分かんないよそんなの」

「任せたぞ聡乃」


 おいあんたら本来の目的を忘れてるだろ。


 心のなかで毒を吐きつつも、私は二人の彼を凝視する。鏡のように二人は互いを睨めつけ合い、やがて片方が口を開けた。

 彼等の説明によると、悪魔は魔女より魔法の扱いが得意ではないらしい。という訳で、魔法で勝負することになった。


 ……私はジャッジの基準が分からないため、どう頑張っても甲乙を付けられないのだが。


「恨みっこ無し、分かってるな」

「望むところだ」


「「―― エスパイア:ウォーター」」

 

 二人はほぼ同時に同じ魔法を唱え、辺りに水の造形物を生み出した。噴水のような形状のものや、魚や植物をかたどったものなど、どれも綺麗だ。日に反射するとガラス細工のようにキラキラ輝き、少し眩しい。


「聡乃! どっちが綺麗なんだ?」


 箒を持つ方の千田くんがこちらに問うてきた。間髪入れずにもう片方の彼も問うてくる。


 判断を迫られ、私はまだ分からないと答えた。


「もう少し高度な魔法だったら差が付くかもしれないよ」


 その一声に彼等はすぐ反応した。――


 それから何度か同じようなことをして争ったが、私にはやはり判断ができなかった。

 確かにどちらも魔法は使えているし、扱えている。でも何かが違うように感じるのだ。


 私があまりにも判断しないから、二人の闘争心は私へと向かいつつある。


「いつまでそうやっているつもりだ!」

「呪いの相手だろ!」


 ……そんなこと言われても。


「もういい、戦って決着をつけよう」


 勝手にそんなことを言い出して、彼等は少し離れていった。


 やっぱりなんか違うんだよな、。何処か、違う。


 目の前で再び戦闘を開始する彼らを見つめて、小さく無意識に溜息を吐いていた。もう既に呆れ半分な私は、諦めたようにその場にしゃがみ込む。仄かに桜の甘い匂いがした。

 私たちを取り巻くような灰色の煙は、いつの間にか薄れていて桜の木をも視認できるようになっていた。


 蒼い空に、零れたペンキのような雲、視界の額縁になっている淡い桃色と地面の青い雑草。


 良いなあ、自分だけの庭。私も欲しい。


 のんびりとした空間に似使わない破壊音が轟く。少し遅れて強い風が髪を揺さぶった。まだあの二人は戦っているのだろうか。私の視角からでは様子を確認することができない。


「聡乃!」


 突然名を叫ばれて、私は慌てて顔をあげる。私から見て左、数メートル先から赤い何かが来るのがわかった。が、それが何を示すのかが分からなかった。


 それは刃。悪魔ハルデが得意とする魔法の一種だった。


 それが猛スピードでこちらに向かってきた。

 逃げる術は、一秒ずつ失せている。

 一瞬、頭が真っ白になる。

 判断を下せずにいる。


 でも。


 彼が助けに来ると、私は


 砂埃を立てて、私の左隣に少年が降り立つ。ほぼ同時に彼の魔法を唱える声が、薄っすらと鼓膜を撫でた。

 私は思わず歓喜に似た感情で名を声にする。


「千田くん」

「すまん、思ったより時間を食った」


 三人目の千田咲薇が現れる。なぜかとても安心している自分がいた。


 彼は、ひとを二人ほど覆えるくらいの大きいバリアを作り出す。見事、刃は砕け散った。


 向こうにいた他の彼等の内、片方がぎょっとした表情でこちらを凝視した。もう片方もこちらを見ていたが、さほど驚いているようには見えない。そして静かに、霧のようにして姿を消した。


「うん、良い感じに時間稼ぎをしてくれたんだな」

「……どういうことだガキ魔女」


 残っていたもう一人の千田くんが、徐々に姿を変えてハルデになった。なるほど、変化へんげしていたのか。


 千田くんはバリアを解くと、右手に持っているを掲げてみせる。それを目にした途端、悪魔は血相を変えて叫んだ。


「おい貴様ッそれは――」


 しかし彼の一声で叫びは搔き消されてしまった。


「失くしたかと思ってたよ。―― 主に逆らうこと許すまじ」


 ピカッと光ったかと思えば次の瞬間、ボンっという音が空気を揺らした。眩んだ視界を精一杯、明瞭にしようとする。やがて目が慣れると、私たちの足元に一匹の耳の大きな子猫が地面にへばりついていた。


「か、かわいい……」


 つい、そう口にするとすぐに千田くんが返した。


「こいつハルデだからな」

「え? 子猫だったの?」

『違う! 契約期間だけこんなヒドイ姿なんだッ!』


 子猫の必死な言い訳に、私は小さく首を傾げた。

 その様子を見てか、彼が補足してくれた。


 以前、魔女戦争伝説の話をしたときにも説明があったが、元々魔女は悪魔と契約(または魂を売り渡)して魔力を得ている。その悪魔は、契約した魔女の家系が途絶えるまで魔力を与え続けなければいけない。もし途絶えたとしたら、契約はそこで終了。

 しかし何百年も契約を続行している上に、契約者本人と直接顔を合わせなければ『契約満期』を自動的に迎えるのだ。


「そろそろだとは思っていたが、まさかあんたまでコイツを狙うなんてな」


 彼は子猫になった悪魔を見下ろして睨め付ける。ハルデは怯えたような瞳で主を見上げた。


「どうしておれを殺そうとしたんだ?」


 彼の問いかけに返答はなく、子猫は微動だにしない。ぶるぶると小刻みに震え、尻尾を丸めて縮こまっている。

 その様子を見て千田くんは小さく息を吐いた。


 なんだかここだけの絵面を見ると、まるで本当の飼い主とペットのように見える。まぁ片方は悪魔なんだけれど。


 私は居た堪れなくなり、ハルデ側に移動する。そしてヒョイと彼を抱きかかえた。


 私の行動に驚いたのか、千田くんもハルデも素っ頓狂な声を漏らす。


「……何してんだ?」

「可哀想でしょ、そんなに詰め寄られたら。この子にも何か理由があるんじゃないの?」


 私がそう言うと子猫ハルデの顔を覗き込んだ。彼は、千田くんよりもはっきりとした赤い瞳をこちらに向けた。やがて、ヘソを曲げた幼子のように話す。


『……こいつ、魔力の使い方が荒いんだ。しばらく使っていないと思ったら凄い量を急に使うし……ぼくの体と比例してんの忘れてるでしょ』


 ぎろりと主を睨むと、彼は表情を変えずに軽く謝罪した。すかさずハルデが怒ろうと声を出したが、千田くんが片手で制し弁解する。


「それに関しては申し訳ない……と思う。だがあんたも会おうとしなかっただろ? 今回の件を機にちゃんと魔女らしくしないか」


 彼の提案に、ハルデは片耳をぴくりと反応させる。いつの間にか項垂れていたおもてを上げ、上目遣いで主を見つめた。


『魔女らしく? それはつまり、ぼくが君の正式な使い魔になるってこと?』


 契約した魔女には二つの選択肢が与えられるそうだ。一つは、魔力だけを供給する関係にあること。そしてもう一つは、使い魔として自分たちに支える側の立場にさせることだ。


「まあ、そういうことになる。あんたが良ければの話だか」


 使い魔にさせることによって良いことはちゃんとある。例に上げるなら、お互いの魔力の半永久的供給や守護者(または使用人)的な役割などだ。

 上下関係は特に決まっている訳ではないので、悪魔が上に立つことも魔女が上に立つこともできる。


「嫌ならそれでいい。代わりに強制契約は続行する」

『きょきょきょ強制契約続行!? 冗談じゃない!』


 腕の中からぴょんっと跳ね出し、ハルデは千田くんの足元へ駆けていった。慌てた様子で彼の靴を、てしてしと叩いている。


『またこの関係が続くのはもうカンベンだ!』

「じゃあ俺の使い魔になるか?」


 彼の問いに、子猫はキレながらも了承する結果となった。――――


 ・

 ・

 ・

 

 その後ハルデは自分の上司である者に報告するため、一旦魔法界に赴いた。

 静寂に沈む庭に残された俺は、彼女に深々と頭を下げる。


「今回は酷い形で巻き込んでしまってすまなかった」


 彼女は一瞬、きょとんとしたがすぐにいつもの無表情になった。


「ううん。また助けてもらっちゃって、迷惑かけてごめんね」


 口角は緩やかに上がっているが、目は笑っているように見えなかった。もしかして怒ってたりするか?


 一応、喉の怪我について尋ねたら、もう痛くないと答えた。俺はあまり回復系魔法が得意でないから、完治しているか心配だったのだ。


 少しの沈黙の後、ふと疑問に思ったことを口にする。


「あの時、どうして俺が来たとわかったんだ?」


 俺は契約満期を迎えて大暴れしていたハルデと、再び契約を結び直すための契約書を探しに一時的にあの場を離れていた。あの分身は、彼女を守るようにしようとしたのだ。が、あの悪魔は俺と同じ考えで、二人目の分身を作った。……まあ、そのせいでややこしいことになったんだけど。

 彼女が長時間どちらが本当の俺かを判断しなかったお陰で、時間はいい塩梅に稼げることができた。


 それはそれで良かった。ただ、どうしてコイツが判断しなかったのかが気になっていたのだ。


 彼女は変わらない表情で、堂々とこう答える。


「千田くんは今まで私のこと、名前で呼んだことないでしょ?」


 ……?


「あの偽物の千田くんたちは躊躇ためらいなく私のことを『聡乃』と呼んだ。でも本物は、今までで一度もそんな風に呼んだことがない」


 彼女はスルスルと理由を述べていく。


「わざと、だよね。私のこと、ちゃんと呼ばないの」


 怒っている訳でもなく、悲しんでいる訳でもないその表情で、こちらを覗き込むように見てくる。


 正直に言えば、それは図星だ。

 自分は他人と馴れ馴れしくするのが嫌い、というか避けていた。俺と関わるとろくなことにならない。彼女のように、命を狙われるようにだってなってしまうのだ。幼い頃から極力、他人を巻き込まないように自ら壁を作るように心掛けていた。


 名を呼ぶという行動をしないだけで、人は見事に近づかなくなった。距離をわざと遠くに置くことができたのだ。


 彼女は所詮、呪いの相手。呪いが解けたらそれまでの関係だ。


 だから名を呼ぶ必要はない。


 そう抜け目なく説明するが、彼女は納得のいっている表情にはならなかった。むしろ、余計に不思議そうな顔をしている。

 どこが分からなかったのか尋ねると、彼女は首を小さく左右に振った。


「貴方が言いたいことは理解できたの。でも、よく分からないことがあるんだ」


 下に向けていた視線をこちらに向ける。


 その瞳は光のように真っすぐで。

 表情は無いというのに、少しだけ輝いて見えて。



「 千田くんの声で名前を呼ばれたのが、すごくうれしかったの 」



 本当の貴方じゃないけど、と付け足すと、小さく照れくさそうに笑った。


 ……い、今、頭がくらりとした。なんで、微笑まれただけなのに。うれしかったと言われただけなのに。こいつ、まさか俺に魔法を? ……いや、そんなのがあり得る訳がない。彼女は人間、以前ちゃんと調べたじゃないか。


 混乱する俺を見て、彼女はまたいつもの無表情になって安否を訊いてきた。反射的に大丈夫と答えたが、本当は全く大丈夫ではない。


 身体が少しばかり熱い。心臓の音が変に大きく聞こえる。

 も、もしやこれは――――!?


 俺はこの日から、彼女のことを『泉』と呼ぶことにしたのだった。

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