第2話 上京
俺は、その当日に一番近い斎藤家にでかけた。俺の古ぼけたカローラが庭先に止まると、共に80歳台に近い雅彦と綾子の夫婦が迎えてくれた。無論俺は、認識障害によって69歳の自分を見せている。
「雅さん、綾さん、近頃は調子がいいので、東京に出かけてくるよ」
「おおーお、東京へ、しかし……」
雅彦がしわ深い顔をゆがめて言葉を返そうとするが、途中で言葉を切る。
「うん、もう帰って来れんかも知れんので、これを渡しておく」
俺は封筒に入れておいた書類を、雅彦氏に向かって広げて説明する。
「このように、我が家の土地に関しては雅彦さんに全権をゆだねる。家については誰も迷惑にもならならんので、壊れるに任せてほしい。まあ、なんぼにもならん土地だ。しかし、町の何かの計画にかかるかもしれんので、その場合には好きなようにしてほしいということじゃ。ほんとは町に寄付したいが受け取らんのでな。
それから、固定資産税は10年分払っておく」
「あ、ああ。解った。まあ、10年より前に儂らもお迎えがくるじゃろうて」
その応じる彼の前で、書類を封筒に収めて糊付けをして、印を押して渡す。
「では、雅さん、綾さん世話になったな、達者でな」
「いやあ、なんも出来んかった。健ちゃんもな」
夫婦は口々に言うが、彼らにとっては70歳近い俺も健ちゃんなのだ。
俺は、斎藤夫婦に別れを告げて、JRの駅近くの中古車販売店に、車を只で渡して譲る手続きをした後、名古屋行きの列車に乗った。その後新幹線に乗り換えて東京駅に着いたのは、午後の18時前であり、地下の銀の鈴で古い友人と待ち合わせている。
「おお、三嶋、元気そうだな」
そう言って破顔したのは、大学の頃からの友人で、M大学名誉教授の浅井速人であった。お互いに向き合って俺をしげしげと見て、彼は少し眉をひそめて言う。
「元気そうだが、なにか体が悪いようなことを綾瀬から聞いたが、もういいのか?」
綾瀬も同窓だ。
「うん、治ったよ。完全に治った。それも話をするよ」
俺達は、地下街に入って少し高級なレストランに入ったが、これは静かなことを評価しての選択である。早速ビールを飲みながらの近況の交換の後に、俺は浅井を物理学が専門であることで呼び出した訳を切り出した。
「ええとな、今日浅井を呼び出したのは、久闊を楽しむのもあるが、お前が物理専門の理学博士を買っての話だ。まずこれを見てくれ、概論だけどな。ええと、そう、これこれ」
俺は、探した画面が出てきたのを確認して、タブレットを彼に渡した。
「う、うん。土木のお前が物理学に何の関係が……、え、ええー!」
浅井は思わず奇声を発し、はっと廻りを見回して、自分の方を睨んでいる数人にペコペコと頭を下げた。
それから再度タブレットに眼を落して熱心に読み始めた。それは、俺がバトラから引き出した重力操作に関しての理論のダイジェスト版である。その難解かつ複雑な理論を自分が理解できる訳はないと思ったが、理解出来るところを見ると相当に自分の頭脳は改善されていたらしい。
バトラから念話で説明を受けながら、日本語に翻訳された論文を読むとよく理解できた。その点は、念話と言葉による説明の違いで、感覚が伝わって来るので遥かに理解しやすいのだ。ダイジェスト版は自分でまとめたものだが、このようにまとめ直すとより理解が深まる。
この重力操作の理論について言えば、その理論そのものは解るが、地球上で似たような研究がされているか否かは俺には判らん。一方で、その理論に基づいて重力エンジンが作られて実用されているので、正しいことは確かだ。バトラはその単純な反重力の装置を持っているから、実証のために動かしてみることができる。
それは言ってみれば、内燃エンジンの模型のようなものだが、その装置の延長で重力エンジンを作ることはそれほど難しくはない。
「お、おい三嶋、もう宿は取っているのか?」
ぶつぶつ言いながら、タブレットを睨んでいた浅井が唐突に言う。
「おお、もちろん取っている、新宿のMAホテルだ」
俺が答えると、浅井は丁度注文した食事が来たのを見て言い出す。
「とりあえず食おうや。ホテルはキャンセルしろ。それから俺の家に行こう。これを見てのんびり飲んではおれん」
「まあ、その反応は解るが、今晩慌ててもしょうがない。それはダイジェスト版だ。これが本編だからやるよ。まあ目を通しておけよ。明日お前の研究室に行くよ。まだお前の研究室はあるよな?」
俺は、言ってカバンから20頁ほどの論文を取り出して浅井に渡す。
「なに、本編がある!なんと、未完成と思ったが、この理論は完成しているのか?」
「ああ、理論どころか、すでにモデル機もあるから明日見せてやるよ。めぼしい機械屋がいたら連れてこい」
さらなる議論の後に、浅井は論文を大事そうに持っていそいそと帰っていったが、酔いはすっかり醒めているようだ。
俺は、中央線に乗って新宿まで行く。若い体のほてりの解消のためだ。若いころ、海外に行った時も同じようなことをしたが、自分ながら血の気の多さにあきれる。ホテルに入る前で、一応書類かばんをもってはいるが、バトラに渡せば手ぶらだ。
新宿で最も治安が悪いという舞伎町をぶらつく。顔はいろんな顔をまぜて全く平凡な顔にしており、服は高級なブランドものに見せ、さらに収納から出した大きめのカバンを大事そうに持って足早やに歩く。
金の匂いがプンプンするという雰囲気を演出しているのだが、果たして引っかかるか。『キタ!』若い女性が、3人の男に追われて走って来て、俺に抱き着いて止まって、後ろに回る。
「タスケテ!タスケテ!」
女が叫ぶが片言だ。追って来た男たちが俺に向かって凄む。
「おい、邪魔をするんじゃないよ。その女を渡せ」
やはり、なまりがある
「イヤ!タスケテ、タスケテ!」
女は俺の後ろに隠れて叫ぶが、その割に俺の上着のポケットなどを触りまわる。俺は内ポケットに紙で膨らませた安物の財布を入れているが、それを女は探って満足したように探るのを止める。
「邪魔するのか、この野郎!」
いきなり左手にいた男が殴り掛かる。それは、顔面を狙った鋭いストレートで、食らえば完全にノックアウトだろう。しかし、自由にゾーンに入り常人の3倍ほどの反射速度を持つ俺にとっては、それは呆れるほどのろく、ひょいと横に避ける。ここで、ノックアウトすると面白くない。
「な、なにをするんだ、乱暴な」
という俺に、今度は右手の男が蹴りを放つが、それを軽くしゃがんで躱す。
躱しながら廻りを見ると、少し離れたところにいる人は見ている者もいるが、近くの者は大きく避けていく。誰も警察などに通報しようとはしていないようだ。
それを、YK組の準幹部の西野は離れたところから見ていて、相手は怖がっているようなふりをしているが、実際は余裕を持って自分への攻撃を躱しているのに気づいた。明らかに3人では手数が少ないし、ここで襲撃に失敗して他の連中に舐められる訳にはいかない。
周辺から、10人位は集められる。チャカと刀はまずいが木刀で滅多打ちだ。
俺は内心ニヤリとした。10人ほどが集まってくる。そして、半数ほどは木刀だろう長物を持っている。俺は大学時代から剣道をやっていて5段だ。
身体能力が上がって、しかも簡単にゾーンに入れる今だったら、全日本が取れるだろう。殺さないように手加減が必要だが、要は頭を打たなければ良い。骨が折れても、まあ天罰だ。
バトラに命じて、カバンを収納して木刀を出す。家で樫の木を削って作った武骨なものだが、毎日千本の素振りを繰り返したいわば愛刀だ。
男たちが集まって来るのを見て、後ろにいた女が逃げていく。最初からいた男たちは集まって来る者達を待つ姿勢で構えているが、いずれもナイフを出して持っている。完全に本気モードに入ったらしいが、1人が叫ぶ。
「あ、ああ、こいつカバンをどうした。そ、それに木刀をどこから?」
その声に係わらず、男たちは集まって来て、13人が俺の周りを囲んだ。襲ってくる前に一瞬の間がある。そこで俺は言ったよ。
「ここで逃げるなら、見逃すよ。来るなら骨の1本や2本は覚悟してくれよ」
俺の声はちゃんと聞こえたはずだが、残念ながら無視されたな。まあ、逃げられると面白くないけどね。
一人がボスなんだろう、少し離れたところでけしかける様子だが、長物を下げているのであれは真剣だろう。俺に構えているうちの6人が木刀を持っていて、残りがドスとジャックナイフだ。多分木刀で一斉に襲い掛かって、それに気を取られているところでドスかナイフで刺すという段取りだろう。
その狙いだと、相手を殺さないためには、こっちで状況をコントロールする必要がある。だから、俺はゾーンに入って突進した。相手の間をすり抜けながら、まず木刀を持った腕を容赦なく叩き折るか、または肩に打ち込んでいく。ついでにナイフやドスを持った手を叩き、または突いて指か手を潰していく。
5秒後には俺に襲い掛かろうとした連中は、それぞれの患部を抱えて得物を取り落としていた。後ろにいたボスらしい男は「この野郎!」叫んで長物を抜いた。刃渡り80cmほどの日本刀で、刃紋もパッとしない安物の新刀だろうが、突けば人を殺すことは容易だ。
俺はニヤリと笑って、「それを抜いたら手加減はせんぞ。覚悟して来い」そう言って、「イヤー!」と木刀を大上段に構えて踏み込む真似をする。男ははたしてたいした腕ではなく、びくりとそれを受けようと刀を振り上げて斜めに構えた。
「ちぇ!未熟者が」
俺は舌打ちして、その刀の腹を木刀で打ち叩き折り、その勢いのままに肩に木刀を叩き込む。それで、男たちの汚い悲鳴とうめきにまた一人加わったところで、パトカーのサイレンが鳴って回転灯が見える。俺は、「まあ割に遅かったな」満足感と共にそう呟いて、さっさと逃げ出す。
少し離れて大通りから逸れて路地に入り込むと、そこに立っていた女が声をかけてくる。
「ねえ、お兄さん。助けて欲しいのだけど、付き合ってくれない?」
女は平均的な身長であり、豊満であるが足が長くスタイルが良い。多分年は25歳位で、顔は可愛いタイプで俺の好みだ。
「なにかな、お姉さん」
俺はパトカーがすでに止まって、こちらに来ないのを確認して聞き返す。その時、俺は顔に関しては視覚障害はそのままだったので、見かけはラフなジャケットに居り目のついたズボンのそれ以上にない普通の服に、普通の顔の俺の姿だった。女も俺の姿を見て平凡さに安心したようで、近づいてきて話す。
「ちょっと若い娘を助けてほしいの。あなた、安原組の連中をやっつけていたでしょう?」
「ほう、あいつら、安原組というのか。その若い娘というのは?」
まさに、このようなトラブル目当てに、わざわざやって来た俺は、内心小躍りした。
「私の妹分なんだけど、安原組にはめられて、この近くのクラブで客を取らされているのよ。そのクラブでは7人の娘が同じ目に合っているの、何とかならない?」
「助けることはできるけど、その後はどうする?」
「新宿西署に駆けこませるわ。派手に逃げて警察に渡せば、やー公ではどうにもならないわよ」
「ふん、地図を出してくれ、俺も警察には顔を出したくはない。お前もだろう?だから助け出して、女たちが逃げ込むのを邪魔する連中を排除すればよいのだな?」
その言葉に、女はスマホを出して地図で説明する。
「今は、私達はここにいるの。そして、そのクラブはここよ。西署はここ。距離は大体500m位だから、体力のない彼女らでも逃げられるでしょう」
「よし、やろう。任せろ。俺の名前は“ケン”だ。ちなみにお前の名前は?」
「ユキよ。よろしくね」
本名かどうかは知らんが、なかなか色白の彼女に合った名前だ。俺たちは300mほど移動して、そのアザミという3階建ての建物の1階に入口があるそのクラブの前に来た。
俺はバトラに中を探らせた。俺の意力はまだそこまでの能力はないのだ。
その結果、この小型ビルには地下室があって、その中に檻に入れられる形で5人の女がいて、そこには男が2人いて一人は銃を持っている。
さらに、1階と2階がクラブで、3階がホテルの個室のようになっているので、3階で売春をさせるのだろう。時間が早いので、3階は2部屋が使われていて女はいるが、客はまだ入っていないようだが、見張りが2人いて、やはり一人が銃を持っている。
それを、俺が説明すると、ユキは呆れた顔で「なんでそんなことが判るのよ?」そう言う。そして続けて、「だけど銃を持っている奴がいるなら、どうにもならないでしょう?」というので、俺は応えた。
「いや、そうでもない。俺には神様がついているからな」
実際にバトラに頼りっぱなしで内心は忸怩たるものがあるが、俺はバトラにあることを頼んで、まずは地下室に入り込む。
外から入る地下室の鉄扉のロック解除は、これまたバトラに頼んだ。そこから入り込むと、男2人は収納を通じて投げ込まれた閃光弾によって、目が見えず騒いでいたので、腕と足を木刀で叩き折る。拳銃は取り上げておいた。
女の2人も発光弾で目がくらんでいたので、5人でお互いに助け合わせて新宿西署に向かわせた。ユキは、先だって知り合いの新聞記者に暴力団から監禁されていた女が西署に逃げ込むことを、電話で伝えていたので、警察もシカトはできない。
俺は次に、1階の玄関のドアを蹴り開けて、「ここは、売春クラブだ。今警察がきているぞ。皆逃げろ!」と叫ぶ。
向かってきた用心棒と男の店員を軽く撫でて気絶させ、3階に駆け上がる。3階では、バトラのお陰で2人の用心棒は目を押さえているのを同じように無力化して2人の女を助け出す。
クラブの女が逃げ出すようだと、助けるつもりだったが、その様子はないので放置した。逃げ出す女を追おうとするクラブの男と女は気絶させて、結局ユキの言う7人の女は予定通り警察に駆け込んだ。それを確認した俺とユキは、「はあ、片付いたね」と顔を見合わせて嘆息した。それからユキはおもむろに俺の腕をしっかり捕まえて言う。
「ありがとう、お礼をしなくてはね」
そしてぐいぐい引っ張る。
「どこへ行くんだよ?」
引かれながら俺が聞くのに、彼女はニッコリ笑って応じる。
「私の部屋よ、お礼よ。惚れたわ。本当に逃がすなんてできるとは思わなかった。まみが助かったわ。仲がよかったのよ。ほおっておくと香港辺りに売られるという話もあったのよ」
予約したホテルのキャンセル料は取られたが、その夜の彼女との一夜は濃厚なものであった。
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