第14話

 突然、その怪物はやってきた。

 

 他のメンバーから少し離れたところで雛乃と話していた幸生は、木村の叫び声が聞こえた方に目を向ける。

 地面に両膝をついた木村は、血が吹き出す右肩を押さえている。


 腕があったはずのそこは、肩から先がまるで千切れたかのようになくなっている。

 そして、その腕のあった場所からは、おびただしい量の血液が流れている。


 両膝をつく木村の目の前にいたのは、黒い鎧のようなもので全身を包み、どす黒く禍々しい気配を纏った人型の怪物であった。


 その怪物は大きな鉤爪のついた右腕を振り上げる。

 木村の体全体を水の膜が覆った。おそらく雛乃の能力だろう。

 しかし、禍々しい黒い鉤爪はお構いなしにその水の障壁を突き破り――木村の頭が中を舞った。


 「みんな逃げっ――」


 「木村ぁぁぁあっ!」

 木村の近くにいた湊が一歩遅れて、籠手のついた右腕を振りかぶりその怪物に切迫する。


 「だめっ!!」

 雛乃が湊を止めようと叫んだが遅かった。

 その怪物は木村の頭を吹き飛ばした勢いそのまま、大きな鉤爪を湊に叩きつけた。


 咄嵯に両腕で防ごうとしたものの、圧倒的な力の直撃を受けた湊の上半身はどこかへ持っていかれ、主人を失った下半身だけが血の海の中に倒れた。


 「う、う、うあ」

 圧倒的な恐怖に押しつぶされ、佐藤はそれに対して悲鳴をあげる神経を既に失っていた。

 腰が抜け、這いずりながら逃げようとする。


 怪物は新たな獲物に狙いを定めたように、佐藤へ迫る。


 その怪物が現れてから十数秒、あまりにも圧倒的な力による惨殺の現場を見せつけられて、硬直していた幸生の肉体と思考がようやく我を取り戻してきた。

 

 幸生は咄嗟に両手をその怪物に向け、念動力による拘束を試みる。

 動きが少し鈍くなる。しかしそれも一瞬だった。


 「ぐっ――!?」

 幸生の鼻から血が流れる。

 彼我との圧倒的な力の差により、念動力が一瞬で解かれたのだ。


 「窪田さんっ! 逃げてっ!!」

 叫びなら雛乃は両の手のひらを地につける。

 その瞬間――怪物の足元から凄まじい圧力を伴った水流が吹き出す。

 衝撃によって生まれた水煙で怪物の姿が見えなくなる。


 「や、やった!?」

 幸生が思わず叫ぶ。


 「まだですっ! 窪田さんは逃げて!!」

 すると、その水煙の中から、先ほどと同じように無傷の怪物が現れた。

 その怪物は、うずくまり声も発することができない放心状態の佐藤に近づくと、その無防備な頭に拳を叩き込んだ。


 頭蓋が砕ける音がして、佐藤の首から上が完全になくなった。

 そして、ゆっくりと幸生達の方へと歩み寄ってくる。


 「早くっ!!」

 あまりにも凄惨な死を目にし、半ば放心状態だった幸生は、雛乃の叫び声を聞いて反射的にその怪物を背にして走り出した。


 遠い――50mほど先に見える上層への出口が、この状況では遥か彼方のように遠く感じる。

 脚が自分のものではないような感覚、自分が走っているのかもわからない。それでも幸生は必死に走った。つまづきながら、転びそうになりながら。


 背後で水が弾ける爆音が聞こえる。

 何歩走っただろうか。もしかしたら数歩しか走っていないかもしれない。


 「ダレガ、ニゲテイイトイッタ?」


 幸生のすぐ後ろからどす黒い声が聞こえた。

 その言葉の意味を理解したとき、幸生は絶望した。この声の主があの怪物であることはすぐにわかったからだ。

 

 次の瞬間、幸生は体の横に突然生じた水壁に弾き飛ばされていた。背後であの怪物の鋭い爪が空を切るのを感じた。

 (助かった、雛乃さんの力だ!)

 しかし、地面に転がった幸生が上体を起こした時には、その怪物は既に次の攻撃のために右腕を振り上げていた。


 再び幸生の目の前に水壁が生じる。

 そして――目の端で雛乃が幸生を庇おうと飛び込んでくるのが見えた。


(だめだっ!雛乃さんまで――)


 幸生は反射的に左手をその怪物に向け、決死の覚悟で念動力を込めた左手を握りしめる。

 幸生の目と鼻から血が吹き出した。

 同時に幸生に覆いかぶさるように飛び込んできた雛乃に視界が遮られる。

 寸前、雛乃の後ろで怪物が右手を振り下ろすのが見えた。


 突き飛ばされた幸生は地面に叩きつけられる。


 


 「グガァァァアアアアア!」


 幸生は朦朧としながら上体を起こすと、その怪物は、赤い血が噴き出し、ひしゃげるように潰れた左上半身を庇うようにしながら、下層の方へ走り去っていくのが見えた。


 「はぁっ……はぁっ」

 

 (生きてる……)

 幸生は生きている自分が信じられなかった。


 辺りには撒き散らされた血が、水煙と混じり、赤い霧となって舞っている。


 「はぁっ……はぁっ……雛乃さんっ!!」

 虚脱状態から抜け出した幸生があたりを見渡すと、仰向けに倒れている雛乃を見つけた。


 幸生はつまずきながら駆け寄った。

 「っつ…………」

 幸生は絶望した。雛乃は浅い息を繰り返している。まだなんとか息がある。

 しかし――しかし、雛乃の下半身はそこにはなかった。腹部からはおびただしい血が流れ、臓物がはみ出している。


 「あ……ああ、そんな、どうして……どうすれば」

 幸生はそのあまりの光景に呆然とし、頭が真っ白になった。


 雛乃は苦しそうに息をしながら、呆然とする幸生に――

 

 「に……っ……げ……」


 雛乃はかすれた声で、最後の力を振り絞るそう言った。

 雛乃の両眼から光が消え、体から命が失われてゆく。


 幸生は言葉を発することができなかった。今自分が見ている光景が現実のものだと思えなかった。

 そう思うことを……心が、体が無意識に拒んでいた。


 「う゛っ――」


 突然強烈な痛みが腹部を襲った。幸生の口から血が滴る。

 幸生は下を見ると、自分の腹部からもおびただしい血が流れていることに気づいた。それは紛れもなく致命傷だった。


 視界が歪んでいく。


 そして――どさりと自身の体が、地面に崩れ落ちるのを、暗転する意識の中で感じた。

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