第21話
改めて建物の外観を見ようとした、その時だった。
ガラガラガラガラッ、という暴力的な音と共に、フェンスが封鎖された。
お父さん、お母さん。
胸中で叫びながら、葉月はフェンスの隙間から両親の姿が垣間見えやしないかと首を巡らせる。
しかし直後に、フェンスに負けない激しい音がした。脱力して地面に倒れ込む。
自分が女性に殴られたのだと察するのに、しばしの時間がかかった。
「ほら、グズグズするんじゃないよ! いいかい、あんたはこの保護施設経営のための金づるなんだ! 屋根と壁、飯とトイレ、これだけあれば十分だろう! さあ、分かったらとっとと入りな!」
女性は、先ほどとはまるで別人だった。笑顔は微塵もなく消え去り、代わりに憤怒の表情が浮かんでいる。
ああ、自分は捨てられたのだ。だが、次に思ったのは絶望感や悲壮感ではなく、恐怖感だった。これから一体どんな生活が待っているのか、分かったものではない。
嫌な汗を首筋に感じながら、女性に軽い蹴りを入れられつつ、葉月は建物内部に追いやられた。
それから一ヶ月、葉月はその児童養護施設に身を寄せることになった。
室内の衛生観念の欠落だったり、毎食の栄養価の低さだったり(黴の生えたパンとコップ一杯の水しか出ないのだ)、職員による日常的な暴力だったり、思うところはいくらでもある。
だが一番衝撃的だったのは、『死』という概念があまりにも近くにあったことだ。
それはそうだ、これだけ生活条件が悪ければ死人も出る。それも、この施設にいるのは、ほとんどが葉月より幼い子供たちだったのだ。
毎日のように誰かが命を落とし、その度に職員が二人がかりで、真っ黒い死体袋に遺体を入れて運び出していく。
もしかして、時折窓から見える黒煙は、遺体を焼いている煙なのではないか。
そう思うと、自分でも背筋が凍る思いがした。
今日もまた、罪もない子供たちが理不尽な暴力に晒されている。自分が何とかしなければ。
幸か不幸か、当時の葉月には社会システムについての知識があまりなかった。この窮状を訴え出る、という考えが思い浮かばなかったのだ。
できることはただ一つ。
目には目を。歯には歯を。そして、暴力には暴力を。
ある日のこと。大人たちのいないタイミングを狙って、葉月は窓ガラスを割った。それから上着を脱ぎ、自分の右手にしっかりと巻きつける。その上から、ガラス片を握り込む。
僅かに出血した。すぐに消毒すべきなのだが、今はそんなことを言ってはいられない。それより、やるべきことがある。
それから待つこと約十分。
乱暴に扉が開けられ、食事係の男が二人入ってきた。
「おい、飯だぞクソガキ共! てめえらは俺たちのお陰で生きていられるんだからな、忘れんじゃねえぞ!」
ほう。だったらこんな『生』などくれてやる。お前の命と引き換えに。
葉月は姿勢を低くし、自分でも意外なほどの速度で男たちの死角に滑り込んだ。パンや水を載せたトレイの真下だ。
「なっ、何だ!?」
葉月は立ち上がりざま、肘でトレイを弾き飛ばした。それから思いっきり、右手に握り締めたガラス片を振り上げる。
「かはっ……!?」
葉月も、まさか初撃で気管を貫けるとは思ってもみなかった。だが事実、それは為し遂げられた。これで、残る直近の敵は一人。
突然自分のそばから噴出した鮮血に、男は腰を抜かした。ばったりと倒れ込む、最初の男。
「てっ、てめえ、何しやがった!?」
そう言いながら、二人目の男は何かを腰元から取り出した。スタンガンだ。きっと護身用だろう。
得物を手にした安心感からか、震えながらも笑みを浮かべる男。
奇襲したまではよかったものの、当時の葉月に戦術力というものはほとんどなかった。二人目のことまでは考えていなかったのだ。
どうする? 相手の方が腕は長い。あのスタンガンをまともに喰らったら、気絶するどころか殺されてしまうかもしれない。ガラス片は大きく欠けてしまったし、戦力になるかどうか。
だが、ここで予想外の事態が起こった。
状況を察した男児が、男の背後から組み付いたのだ。
「うおっ!?」
大きくバランスを崩す男。スタンガンが手から滑り落ちる。
葉月がそれを手にした頃には、男は子供たちに四方八方から暴行を受けていた。
子供の力などたかが知れている。だが、人数が多かった。それに、今まで自分たちは虐げられてきたのだという怒りが一気に噴出していた。
「警備員! 来てくれ! 殺される!」
胸元の無線機に向かい、必死に声を上げる男。だが、それは墓穴を掘る行為だった。
今までは、警備員もこの施設内での虐待を見て見ぬふりをしていた。口止め料の授受があったのでは、と葉月は睨んでいる。
だが、事態がここまで発展してしまえば上層部に報告せざるを得ない。
結局、葉月の正義心で、この児童養護施設は法的処罰を受け、子供たちは安全快適な他の施設へと分散移転させられることとなった。
これこそが、知らんぷりをしてきた大人たちに、葉月が痛恨の一撃を加えた瞬間だった。
しかし、この事件には大きな問題が残された。
葉月の身柄の取り扱いについてだ。
事件から一週間後。
場所は最寄りの警察署内の留置所へと移される。
ひとまず、葉月は快適な環境下で名目上『保護』された。
だが、葉月の耳にはきちんと聞こえていた。自分について語られている様々な言葉が。
「たかが小学生の女の子ですよ? それがあんな凄惨な事件を起こすなんて……」
「だから問題なんだろう? 他の子供たちも、彼女に協力的だったという証言もある」
「それだけの酷い扱いを受けてきてたってことですか、彼女たちは」
ああそうだよ、と言い返してやりたいのは山々だった。しかし、ここで大人たちの心象を悪くするわけにはいかない。
葉月はぐっと唇を噛み締め、ドアの向こうから聞こえてくる刑事たちの言葉に耐えていた。
ただ、刑事たちの会話を聞いていてよかったことが一つある。
警備員はやはり買収されており、その金が流れに流れて地元のある有力な資産家の下に渡っていたことが明らかになったというのだ。
今回は死者が出たこともあり、その資産家は社会的制裁を受ける羽目になった。
それを聞いて、葉月は自分の血が沸き立つのを感じた。自分でも世界を変えることができるのだと、信じることができたのだ。
そんな話を聞いた日の夕方頃のこと。
「美奈川葉月さん、面会だ。こっちに来てくれ」
葉月の世話、というより見張りを担当していた年嵩の刑事が、葉月に手招きをした。
やや広めの簡易独房の鍵が外されたが、しかし葉月は体育座りをしたまま動かない。
自分が責められると思ったのだ。施設の状況はどうあれ、攻撃に出た葉月は明らかに悪者である。またいろいろと、事情を訊かれるに違いない。その度に、自分のしてしまったことの重さを思い知らされる。
両親が会いに来てくれたのではないかとも思った。だが、それもきっとあり得ないだろう。だったら初めから自分を施設に預けはしない。
しかし、葉月の考えはすぐに切り替わった。面会に来たのが人型ロボットだったからだ。
《美奈川葉月さん、だね?》
頭部の視覚バイザーが点灯し、カメラが起動したことを知らせる。
《こんな姿で申し訳ない、私は君を弁護し、そしてスカウトしに来た者だ。本名は明かせないが、許してほしい》
壮年で張りのある声が響く。
《私が君に面会を求めたのだ。構わないかね?》
その不思議な、人を惹きつける声音に導かれ、葉月はすっと立ち上がった。
《ああ、すまない。私のことはドク、とでも呼んでくれ》
ロボット・ドクと刑事に両側を挟まれるようにして、葉月は独房から出て手近な相談室に入った。
それが、この社会に対する戦いに身を投じるきっかけになるとは、葉月には知る由もなかった。
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